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虐待された狼少年

 羊佑ヨウスケくんは保健室の青い衝立の前で、シャツのボタンに手をかけました。内科検診。毎年この日が来ると、胃が締め付けられます。


羊佑ヨウスケくん、どうぞ」


 養護教諭の優しい声。でも、羊佑ヨウスケくんの指は震えていました。


 シャツを脱ぐ。背中、脇腹、二の腕。青黒いアザがいくつも浮かんでいます。古いものと新しいもの。殴られた跡、つねられた跡。


 今年から校医になった佐々木医師が、表情を変えずに羊佑ヨウスケくんの身体を診察します。


「何かスポーツはしているかな」


「いえ……転んで……」


 羊佑ヨウスケくんは機械的にそう答えました。言い慣れた嘘でした。


 佐々木医師は何も言わず、静かに頷きました。


 検診が終わり、教室に戻る途中、羊佑ヨウスケくんは小学生の頃を思い出していました。


 小学四年生。初めて担任の先生に「お母さんに叩かれた」と打ち明けた日。担任の先生が家庭訪問に来ました。お母さんは涙を流しながら言いました。


「この子、嘘をつくんです。注意すると『虐待だ』と言って……私、どうしたらいいか」


 きれいに片付いた家。教育熱心に見える母親。担任の先生は羊佑ヨウスケくんに言いました。


「お母さん、あんなに心配してるよ。嘘はいけないよ」


 あの日から、羊佑ヨウスケくんは「嘘つき」の烙印を押され、誰からも信じてもらえなくなったのでした。


 中学でも同じことが繰り返されました。担任の先生に相談すれば、お母さんは「反抗期で困っています」と答え、学校はお母さんの言葉ばかりを信じました。


 ただ一人、中学三年の担任だった森田先生だけが、羊佑ヨウスケくんの話を最後まで聞いてくれました。証拠がなくて、動けなかったけれど。


 高校二年になった今、羊佑ヨウスケくんはもう誰にも言わないと決めていました。あと二年我慢すれば、進学で家を出られます。


 ただ、心配なのは小学五年生の妹、来夢ラムちゃんのことでした。最近、母の怒りの矛先が来夢ラムちゃんにも向き始めているのです。


 翌日の放課後、担任の川口先生に職員室に呼ばれました。


羊佑ヨウスケ、また課題を出してないな。どうした?」


「すみません……」


「オンライン提出なんだから、スマホでできるだろう。もう高校生なんだから、ちゃんとしないと」


 羊佑ヨウスケくんは何も言えませんでした。


 三日前、お母さんが突然激昂して、羊佑ヨウスケくんのスマホを床に叩きつけました。画面は粉々に割れ、もう使えません。理由はわかりませんでした。お母さんの逆鱗は、どこにあるか分からないのです。


「……スマホ、壊れてて。家の事情で、すぐには使えなくて」


 川口先生は困った顔をしましたが、それ以上は聞きませんでした。羊佑ヨウスケくんは、学校貸し出しのタブレットを出してもらい、その場で課題を提出しました。


 さて、内科検診の後、保健室で養護教諭と佐々木医師が話していました。


「先生、羊佑ヨウスケくんですが……」


「ああ。あれは虐待を疑うべきだ」


 養護教諭は躊躇しました。


「実は、以前も……でも、お母さんは否定されて……」


「我々には通告義務がある」


 佐々木医師は静かに言いました。


「彼の身体が『証言』している以上、黙っているわけにはいかないよ。管理職に報告しよう」


 翌日、校長室で緊急の会議が開かれました。出席したのは、校長、教頭、川口先生、養護教諭、佐々木医師。そして、生徒指導主事の太陽先生です。


 太陽先生は四十代女性の体育教師です。厳しい指導で知られ、生徒たちから恐れられている存在でした。遅刻や服装違反に容赦なく、職員室で太陽先生に呼ばれることは、生徒にとって最も避けたいことの一つでした。

 

 しかし、生徒指導の本来の目的は生徒を縛ることではありません。生徒のよりよい発達を促すための支援を行うのです。太陽先生は、生徒指導部の長として、羊佑ヨウスケくんへの対応を考えました。


羊佑ヨウスケのことは、私も気になっていました。欠席が多い。提出物も出さない。先日、課題の件で川口先生が注意したとき、私も横で聞いていましたが……スマホが壊れている、家の事情で使えない、と」


「はい。課題から逃げるための嘘をついているのかとも思いましたが、そうでもないらしくて」


 川口先生が答えました。


 佐々木医師が検診での所見を説明しました。複数の時期のアザ、位置、形状。


 太陽先生は顎に手を当て、考え込みました。


「母親は……」


「PTA会長です」


養護教諭が小さく言いました。


「小学校の。地域でも教育熱心で通っています」


「だからこそ、周囲の大人は母親の言葉だけを信じたんだな」


 太陽先生は呟きました。


「だが、今回は母親にも『困って』もらう。まず、中学校の記録を確認したい。校長先生、中学校との情報共有を許可して下さい」


 そして、中学校の森田先生とつながりました。電話口の声は震えていました。


「やはり……羊佑ヨウスケは高校でも苦しんでいたんですね。彼には小学生の妹さんがいます。そちらも心配です」


 太陽先生は再度緊急会議を開きました。


「小学校、中学校、児童相談所、すべて連携して、ケース会議を開きましょう」


 太陽先生はすぐに電話連絡をして、ケース会議を設定しました。


 後日、会議室に集まったのは、高校の関係者、中学校から森田先生、来夢ラムの小学校から担任と教頭、児童相談所の児童福祉司、そしてスクールソーシャルワーカーです。


 太陽先生が資料を配付し、会議を進めます。


「情報を共有します。羊佑ヨウスケ、欠席日数増加、成績低下、友人関係希薄化。スマホが使えず、課題提出に支障。身体には複数のアザ」


 森田先生が続けました。


「中学時代も同様の兆候がありました。しかし母親は『反抗期』と説明し、学校は動けませんでした」


 来夢ラムの担任が発言しました。


来夢ラムさんも、最近登校しぶりがあります。保健室の利用が増え、表情が硬い。気になっていました」


 児童福祉司が資料を見ながら言いました。


「母親は地域で『良い母親』の評判。PTA会長。過去の相談記録も、すべて『子供の問題行動』として処理されています」


 佐々木医師が静かに口を開きました。


「私は今年から校医になったばかりですが、三十年医師をしています。あのアザは事故ではありません。これを見過ごせば、私たちは加害者になる」


 太陽先生は深く頷きました。


「児相として、どう動きますか」


 児童福祉司が答えました。


「緊急性が高い。一時保護を視野に入れます。ただし、まず本人の意思確認が必要です」


「緊急一時保護となると、学校には登校できなくなりますよね?全日制高校では欠課が多いと進級できなくなるのです。羊佑ヨウスケはただでさえ欠席がちです。彼ができるだけ早く高校に戻れるような道筋が必要です」


 川口先生は、授業の出欠記録を示し、心配そうに言いました。


「わかりました」


 太陽先生は立ち上がりました。


「私が羊佑ヨウスケと話します。森田先生、同席をお願いできますか」


 その日の放課後、相談室。

 羊佑ヨウスケくんが緊張した面持ちで入ってきました。太陽先生に呼ばれる。それは普通、叱られるときです。


 だから、森田先生の姿を見た時は、本当に驚きました。


「久しぶりだね、羊佑ヨウスケ


「森田先生……」


「もう一度だけ、本当のことを聞かせてくれないか」


 羊佑ヨウスケくんは黙っていました。


「どうせ……」

 

 本当のことを言えば嘘つきと言われる。また嘘でごまかすしかない。


羊佑ヨウスケ


 太陽先生が言いました。


「森田先生だけじゃない。多くの人達が、お前の言葉に耳を傾けようと集まっている」


 羊佑ヨウスケくんの中で何かが崩れました。堰を切ったように、言葉があふれ出ました。


 母の暴力。いつから始まったか、もう覚えていない。殴る、蹴る、物を投げる、包丁で脅す、首を絞める。優しいときもある。だから母として好きでもあるし、余計に怖い。いつキレるかわからない。


「でも、お母さんも苦しんでるんだと思います……キレてないときは、優しいから……」


 羊佑ヨウスケくんは震える声で続けました。


「僕がいなくなったら、来夢ラムが……妹が心配なんです」


 太陽先生は、羊佑ヨウスケくんの肩に手を置きました。


「よく話してくれた。大丈夫だ。妹も、お前も、私たちが守る。そして、お前の言うとおり、お母さん自身もきっと困っている。問題解決の方法を、皆で考えるんだ」


 それからすぐに、児童相談所が動きました。学校も全面協力しました。


 母親との面談では、児相、学校、医師が同席しました。


 はじめ、母親は激しく否定しました。


「また息子の作り話を信じるんですか!私がどれだけ苦労してきたか!」


 しかし、医師の診断書、複数の学校からの記録、客観的な証拠が積み上げられ、母親の態度が変わりました。


「私は一生懸命育ててきたのに……誰も私の大変さをわかってくれない……」


 その姿を見て、太陽先生は難しい顔をしました。


 そして、兄妹の一時保護が決定しました。

 二週間後、羊佑ヨウスケくんは高校に復学しました。来夢ラムちゃんも新しい小学校に転校しました。二人は児童養護施設から学校に通うことになりました。


 放課後、森田先生が高校に面会に来ました。


「先生……ありがとうございました」


羊佑ヨウスケが何度も『助けて』って言ってくれたから、今回気づけたんだ。君の声は嘘じゃなかった」


 太陽先生も隣にいました。


「これからも、何かあったら言え。私が怖いなら、森田先生にでもいいぞ」


 にやりと笑う太陽先生に、羊佑ヨウスケくんは子供らしい笑顔を見せました。


 夜遅くまで書類をまとめてから、太陽先生は帰宅しました。


「おかえり、麻衣ちゃん」

 

 夫の日向ヒナタの笑顔に、太陽先生は連日の緊張がゆるみました。


「子供たちはもう眠ったよ。ご飯、食べるでしょ?」


「ありがとう。ごめん、ここ数日残業ばかりで、家のこと任せきりで」


「それで、うまく行った?」


「うん、日向のアドバイスのおかげで」


 日向先生は、特別支援学校の教頭として勤務しています。今回の件で、外部連携のノウハウを事前に太陽先生へレクチャーしていたのです。


「僕もチームの一員というわけだね」


 日向先生は、温め直した料理を並べました。


「…私には日向がいる。仲間もいる。でも、あの母親には、支えてくれる人がいなかった。父親は無関心で、こんな時にも出てこなかった」


 太陽先生は悲しそうに目を伏せました。


「そうだね。子育ては、母親だけがするものじゃない。社会全体でするものだ。羊佑ヨウスケくんのSOSが、お母さんを支援につなげたんだよ」


 太陽先生は穏やかな夫の声を心地よく聞いていました。この人が伴侶でよかった、心からそう思いました。


「…あの、チンパンジーの赤ちゃんが生まれたんだって、昔よく行った動物園」


 急にそわそわと話題を変えた妻に、日向先生は首を傾げました。何やら言いたいことがある様子です。


「今度の考査期間に、休みが取れそうなんだけど、その、忙しかったらいいんだけど」


 会議ではあれだけ堂々としていた太陽先生が、口ごもっています。


「…久しぶりに二人でデートしようか」


 相変わらず口下手な妻に、日向先生は微笑んで言いました。太陽先生は顔を輝かせました。

 

 二人は遅い夕食をとりながら、お出かけの計画を立て始めました。

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