旅人と、パンの約束
カラン。
鈴の音が、小さな店内に再び響いた。
「おはようございます」
昨日の旅人の少女が、静かに店の扉をくぐる。
淡い水色の上着に、肩までの艶やかな黒髪。整った目鼻立ち、真っすぐな立ち居振る舞い——まるで王都の貴族のような雰囲気すら漂っている。
「おお、もう来たのか。早いな」
ユウトはカウンターから顔を上げ、焼きたてのパンをひとつ持ち上げた。
「ちょうど今、焼けたところだ。今日のおすすめはチーズパン。ミレナが昨日頑張って生地をこねたやつだ」
「……ありがたく、いただきます」
少女は、パンを両手で受け取ると、小さく息を吸って——ふわりと目を細めた。
「……いい香り。まるで、故郷の朝みたい」
その一言に、ユウトの手が止まった。
彼女が、ほんのわずかに寂しそうな顔をしたからだ。
「……そっか。遠くから来たんだな」
「ええ。かなり、遠くから」
彼女はパンにかぶりつきながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑みは、どこか安心したようで、見ているこっちもつられて微笑んでしまう。
「……ところで、名前。聞いてもいいか?」
「あ、はい。失礼しました。私は——」
「セレスティア・アルベインです」
その名前を聞いた瞬間、ミレナが「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
棚のパンを並べていた手が止まり、目をまんまるにしてセレスティアを見る。
「……その名前、どっかで聞いたことが……」
「たぶん、王都の貴族名簿とかに載ってるんじゃないかな」
ユウトは適当に答えつつ、内心ちょっとだけ驚いていた。
『アルベイン』という姓は、確かに王都の中でもかなり格式の高い家名だ。
(まさか、そんなお嬢様がこんな辺境の村に来るなんてな……)
けれど、セレスティア自身はそのことに触れる様子もなく、静かにパンをかじっていた。
その様子を見て、ユウトは肩の力を抜く。
——まあいい。ここでは、誰でもただのパン屋の客だ。
「ねえ、セレスティアさん」
ミレナが、パン屑を手で払いながら口を開いた。
「もし、ヒマだったら……この店で手伝ってみない? あたしみたいに!」
「え?」
「え?」
「え?」
まさかの提案に、全員の声が重なった。
ユウトも目を丸くしていたが、何より一番驚いていたのはセレスティア本人だった。
「い、いえ、わたしはそんな……手伝いなんて。料理もできませんし」
「大丈夫大丈夫! あたしも最初はぜーんぜんできなかったから! 今も失敗するし!」
元気に言いながら、ミレナは先ほど落としたパンくずを素早く掃き取る。
手際は……まあ、それなりだが、その笑顔には妙な説得力があった。
「うーん……そうですね。もし迷惑でなければ、少しだけ……」
「やったー! ユウトさん、もうひとり見習い増えましたよ!」
「勝手に決めるな。でもまあ……いいか。手が増えるのは助かるしな」
こうして、パン屋ユウトにもう一人、奇妙な見習いが加わった。
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「ここを、こう押さえて……そっと折る。指先の力を抜いて」
「こ、こう……ですか?」
「そう、それで軽く転がす。生地に優しく、だ」
「はい……っ!」
セレスティアは額に汗を浮かべながら、小さなパン生地を丸めていた。
普段はどこか冷静な彼女が、必死な表情を見せているのがなんだか新鮮だ。
ミレナは横で応援団のように「がんばれー!」と声を上げ、猫のルヴァンは窓辺でふてぶてしく寝転んでいる。
いつもの、のどかで静かな朝。でも、少しだけ違う。
人が増えて、会話が増えて、笑い声が増えて。
パンの匂いの中に、あたたかい音が混じるようになった。
「ユウトさん」
焼きあがったパンを並べながら、セレスティアがふと口を開いた。
「この村は、とても静かで、心が落ち着きますね」
「ああ。うるさいものは何もないからな。パンの音と、薪の匂いと、笑い声と……それだけで十分だろ」
「はい。……私も、少しだけここにいたくなりました」
彼女は、静かに微笑んだ。
その笑顔を見て、ユウトは「ここでパン屋をやってよかった」と、心から思った。
パンと、静かな朝と、少し不器用な仲間たち。
スローライフは、こうして少しずつ、色を変えていく。