パンと、はじまりの朝
パンの焼ける匂いって、どうしてこんなに人の心を落ち着けるんだろう。
パチパチと薪がはぜる音。立ちのぼる蒸気、ふくらんでいく生地。
こんがりときつね色に焼けた表面が、ふわっと膨らんで、香ばしい香りを立てる。
「……よし、今朝も良い焼き加減だな」
俺の名前はユウト。かつては王都の役人として、机にかじりつくような生活をしていた。
早朝から深夜まで、帳簿と報告書と小役人どものくだらない言い争いに付き合わされる日々。
心がすり減るって、ああいうのを言うんだと思う。
そして俺は、ある朝ふと悟った。
「このままじゃ、パンを焼けなくなる」と。
パンは、俺にとって特別だった。
子供の頃、母が焼いてくれた素朴なライ麦パン。
王都の隠れた名店で食べた、バターたっぷりのクロワッサン。
夜中にこっそり自分で焼いてみた、見よう見まねのシナモンロール。
焼いてるときだけ、心が楽になれた。
だから俺は、役人の地位も、安定した生活も全部捨てて、パンを焼くことにした。
王都を出て、地図の端っこにある小さな村——リトベル村に移住してきた。
今は、ここで小さなパン屋を営んでいる。
名前は……まあ、ひねりもなく《パン屋ユウト》。シンプルでいい。
「さて、今日の第一号は……」
オーブンの扉を開ける。湯気と香りが一気に押し寄せてきた。
ふっくらとした丸パン。表面にはオリーブオイルを軽く塗り、岩塩をひとつまみ。
村の農家から仕入れた全粒粉と、ミレナの家の山羊ミルクで練り上げた素朴な味わいだ。
こうして毎朝、少量ずつ丁寧に焼くのが俺のスタイル。数は少ないが、その分、ひとつひとつに気持ちを込めている。
「ふふん、今日も悪くないな……!」
うっかり声に出して独り言を言ってしまう。けど、誰もいないから問題ない。……いや、正確にはひとりいるか。
「なあ、グラム。どうだ、今日の焼き加減は?」
俺が声をかけたのは、厨房の隅にある石造りのオーブン——いや、正式には“古代魔導石窯グラム”。
見た目はただの古ぼけた石窯だが、村の外れにある遺跡から拾われてきた代物で、曰くつきの一品。
どういう原理かは不明だが、魔力を通すと勝手に火加減を調整してくれるという優れもの……らしい。
ただし、噂によれば「しゃべる」らしい。
まだその姿を見たことはない。俺の前では沈黙を守り続けている。
「どうせなら、パンの焼き加減とかコメントしてくれたら楽なんだけどなぁ」
軽口を叩いてみたが、もちろん反応はない。
まあいい。黙ってても、こいつはちゃんと仕事してくれるし。
俺は焼きあがったパンをトレイに乗せ、店の棚に並べた。
素朴な丸パン、ハーブ入りのロールパン、ベリージャムを包んだ小さなパイ。
棚の上には、手書きの値札と「本日焼き立て!」の札。小さいながらも、どこか温かみのある空間だ。
そして、その香りに誘われたように、店の扉がカランと音を立てて開いた。
「おっ、おはようございまーす!」
勢いよく入ってきたのは、金髪の三つ編みが揺れる少女。
まだ幼さの残る表情だが、その瞳はキラキラと輝いていた。
「おはよう、ミレナ。今日も早いな」
「だって、パンの匂いがもう我慢できなくて……!」
そう言って彼女——ミレナ・カーベルは、カウンターに駆け寄ってきた。
村の雑貨屋の娘で、俺の見習い店員……というか、ほぼ毎日遊びに来てそのまま働いてるだけ、というか。
でも、やる気と明るさは村一番だ。
「今日は、どれをお手伝いすればいいですかっ!?」
「じゃあ、棚に札を並べるのを頼む。あと、トレイのふき取りもな」
「はいっ! 任せてください!」
元気に返事をして、彼女はぴょこぴょこと店の中を動き始める。
そう、この店にはまだ他に従業員はいない。ミレナがいなかったら、俺は朝からてんてこ舞いになっていただろう。
「ねえユウトさん、今日のパンってこの前のとちょっと違う?」
「鋭いな。今日は全粒粉をちょっと粗めに挽いてもらった。食感に変化が出るはずだ」
「へぇ……なんだか、口に入れるのがもったいないなぁ……」
でも結局、彼女はすぐに試食用のパンをちぎって口に入れた。
ふわっと笑顔になって、ほっぺたを手で押さえる。
「ん〜! これ、最高ですっ!」
その反応だけで、今日もパンを焼いてよかったと思える。
のんびりした空気の中、二人で開店準備を進めていると、また扉が開いた。
カラン、と鈴の音。今度は、見慣れない顔。
長いマントに旅装束、整った顔立ちの少女。年はミレナより少し上くらいだろうか。
「……ふむ。やはり、ここだったか」
彼女はゆっくりと店内を見回して、俺の方を見た。
「この香り……焼きたてパンですね。ひとつ、いただけますか?」
「ああ、もちろん。どれがいい?」
「おすすめをひとつ。できれば、しょっぱめのものを」
「じゃあ、これかな。ハーブ塩の丸パン。外はパリッと、中はふわっとしてる」
彼女は黙ってパンを受け取り、ゆっくりとひと口かじった。
「……これは、いい。とても、いい」
パンをかじりながらも、なぜか背筋を正す彼女。ちょっと品があるというか、育ちがいいというか。
「ところで、ここはいつもこんなに……のどかなんですか?」
「まぁ、村だからな。戦争もないし、魔物も出ないし。パンでも食べながら、のんびりしてってくれ」
「……いいですね。気に入りました。しばらく、ここに通おうと思います」
そう言って微笑んだ彼女の名は——そのときはまだ、知らなかった。
こうして、俺のパン屋に新たなお客が加わった。
ミレナが笑い、グラムが黙り、見知らぬ旅人がパンを食べる。
たったそれだけの、何でもない朝。
だけど、それが俺にとっては、何より大切なはじまりだった。
パンと、静かな暮らし。それが、俺の選んだ新しい生き方なのだ。