葉桜とカツサンド
「疲れた…」
引っ越したばかりの小さなアパートの二階。階段を登る手に持つスーパーのビニール袋の中には牛乳が2本と、特売だったトマトのホール缶が2つ。
重さで細くなった持ち手が指に食い込んで、指先が赤くなってる。
『細くて綺麗な指だね』記憶の中の夫がそう言った…
「くだらない…」
つい溢れてしまった呟きは仕方のない事だと思う。袋を持ち替えて、バッグの中から鍵を取り出し玄関の扉を開ける。
カチャリ…
必要最低限のものしか置いてない、寒々しく思える部屋に鍵を開けた音が響いた。
結婚して3年。私は菊池の姓に戻る事になった。
。。。
仕事関係で知り合った夫、孝宏。
「塙孝宏です」
よろしくお願いしますと差し出す名刺を受け取る。
真面目そうな人。というのが最初の印象だった。
一緒に仕事をしていくうちに周りに気を遣い、さりげなくサポートする優しさに気付く。
仕事も一区切りつき、もう毎日顔を合わせる事もなくなるのかと寂しさを覚えた頃…
「菊池さん」
帰り支度をする私の元へ塙さんが声をかけてきた。気まずそうな彼の顔に、トラブルでも起きたのかと身構える。
「どうしました?何かトラブルでも…?」
「いえ!仕事は無事に終わりました。菊池さんのおかげです。その…その、お礼と言ってはなんですが…この後食事でも行きませんか?」
力が抜けると同時に喜びが広がる。
「はい!行きましょう!」
私たちは連絡先を交換し、ほどなく恋人の関係となった。
それから一年ほどお付き合いしてから結婚。
旅行や外食もするが、帰ってくれば「やっぱり家が一番だね」と笑う。結婚生活は穏やかに過ぎていく。
出先で見つけた物や、食べた物などのメッセージを送り合う。
「美味しそう!」「今度は一緒に食べよう」
「これ可愛い!」「うん、似合うと思う」
毎日のたわいもないやり取りが、2年目を迎える頃から少しずつ減っていき…
「ごめん、今日遅くなる。夕食は先に食べておいて」
そんなメッセージが混ざり始めた。
「夕食は外で食べるから」もうとっくに深夜である。
「土曜出勤になった」「出張で…」日を跨ぐ頃に届くメッセージ。
そんなメッセージばかりが私の携帯の画面を埋め尽くすようになっていった。
家にいても片時も携帯を離さない孝宏。
夕食時に、出先で買ったという日本酒を出して一人で飲んでいたからか、食後すぐにリビングのソファーで寝落ちした孝宏。
その手に握る携帯が光った。
「旅行楽しかった」「また泊まりに来てね」「会いたい。大好き」
次々と光る画面から目が離せない。
「ねぇ、奥さんとはいつ別れるの?」
瞬間、心臓が粉々に砕けた感覚に襲われる。
自然に溢れる涙を手で拭い、急いで風呂場に向かう。
止まらない涙を流すため、嗚咽する声を隠すため、シャワーを流しっぱなしにし湯船に浸かる。
私はずっと裏切られていたんだ。
…本当はずいぶん前からわかっていた。そうじゃないかと。でも、信じたかった。
孝宏は私を裏切るような事はないと。
私は騙されていると認めるのが怖かった。
いつもより長いお風呂から出た時、孝宏はいなかった。
「ちょっと買い物に行ってくる」
そう私の携帯が光っていた。
。。。
私は離婚に向けて動き出した。探偵を頼むと証拠はすぐに集まった。
「今度の土日は仕事で帰れないから」
そう言われていた日に引越し業者を手配した。同時に弁護士から内容証明を孝宏の会社に二通送る。二人は月曜日に出社した時に気付くだろう。
昼に電話で孝宏は「違うんだ」「何かの間違いだ」「勘違いしないでくれ」怒ったような、迷惑のような声色で言い訳を並べた。
「今後は全て弁護士を通してお願いします」
「ふざけんな!おま」そこまで聞こえたところで私は電話を切った。
。。。
なかなか離婚に応じない孝宏。仕方ないので義両親に経緯を話し孝宏を説得してもらうと、やっと決着がつき離婚が成立した。
双方から慰謝料を一括で支払ってもらい、入金も確認。
私はちょっとだけお金持ちになった。
浮気がバレてからの孝宏の態度や言い訳を聞くたびに、愛情がなくなっていった。
こんなわからずやだったのかと呆れる。
あの時、あの時…と溢れる思いを何度もなぞり返した事だろう。
そこでハッとし、大きく息を吸う。
「……考えても仕方ない。もう終わった事だ」
また感傷に浸りそうになる自分にカツを入れる。
「よし!美味しいもの食べよう!」
買ってきた食材を取り出し調理にかかる。
豚肉に小麦粉を振り、たまご液にくぐらせパン粉をつける。パン粉がしっかり馴染むまでしばらくそのままにしておく。
その間にポテトサラダを作る。時短のためにジャガイモを角切りにし、イチョウ切りしたにんじんも一緒にレンジに入れる。きゅうりはスライス。
ハムではなく、カリカリベーコンを入れるのが好きなのでベーコンをカリカリに焼く。
熱々のジャガイモを潰し、冷ましている間に先に用意したカツを揚げる。
薄めの肉にしたのですぐに揚がる。程よいキツネ色になったらバットに乗せて冷ましていく。
冷めたジャガイモにきゅうり、カリカリベーコン、マヨネーズを加えて混ぜたらポテトサラダの出来上がり。
パンにマヨネーズを薄く塗り、キャベツの千切りを乗せてからカツを乗せ、ソースをかけてパンを乗せたら…
今夜の夕食、カツサンドとポテトサラダの出来上がり。
窓の外を見れば桜は散り、すでに葉桜。
今年の春は花を愛でる余裕もなく、満開の桜を見逃してしまった。
「来年はお弁当作って一人で花見でもしようかな〜」
撮り溜めたドラマを観ながら、ビールと共にカツサンドを頬張る。
そしてドラマの中で勝利を勝ち取ったチームと一緒に「乾杯」をした。
喝を入れるカツサンド。
求む。
ビールのおつまみ。