百足原合戦顛末 その二
自分の領地に逃げ帰れた者は、元の勢力の半数に満たなかった。雑兵共の多くは、どこへともなく姿を消し、有力な家人の内、数人は戦場で命を落としていた。郷巻勢も深追いできなかった。朝から続いた合戦で、将兵は疲れ果てていた。郷巻青鷹は戦果の拡大を求めず、この一戦に勝利した事で良しとした。一縄の勢力は大いに削がれた。これで当分一縄は再起できない。その間に版図を広げられる。こうなってしまえば、いずれ一縄は我が軍門に下るだろう。青鷹は腹の内でそう考えていた。
郷巻が領地拡大を思うままに行なっている間、逃げ帰った一縄勢は、目の前の課題の対処で精一杯だった。最も大きな衝撃は、敗戦からひと月と経たない内に訪れた。
一縄の屋敷に笠階宇木正が飛び込んで来る。突然の騒ぎに皆が驚く中を、笠階宇木正が若い正虎の前まで駆け抜ける。
「若!師谷上野が寝返りました!」
「どういう事だ、説明しろ!」
「上野から郷巻に宛てた密書にございます。」宇木正は、正虎の前に一通の文を差し出す。正虎は目の前に差し出された文を睨むが、手を出そうとはしない。崩し字で書かれた手紙は、十三歳の少年には手に余る。
「失礼致します。」
脇から目付け役の男が文を取り上げて目を通す。
「我が領内を通り、郷巻領に抜けようとした早馬を捕らえたところ、この文を持っていました。」宇木正が説明を加える。「奴め、郷巻と謀って我々を挟み撃ちにするつもりにございます。」
家人は棟梁としての一縄と主従関係を結んだ間柄だが、一縄直属の一族郎党と違い、夫々が家来と領地を持っている。明確な契約書がある訳ではない。日本らしい義理人情で繋がっている様でありながら、根底には冷徹な利害関係が存在する。
戦に負けて兵力を大きく毀損した上に、一縄雷が亡くなって、若年の正虎が棟梁になるのでは一縄に未来は無いと、上野は見限った訳だ。師谷上野の領地は、郷巻領から離れている。郷巻と内通しようとすれば、他の家人の領地を通らねばならない。領地内を横切った密使を、運良く笠階宇木正が捕らえたと言う事だ。もし、郷巻と師谷の同盟がなれば、一縄勢は、郷巻と師谷に挟み撃ちにされる運命にある。
「…確かに。これは師谷から郷巻に宛てた書状。離反の証拠にございます。」
目付け役が文から目を上げ、正虎に報告する。
「おのれ、師谷…。」
正虎が呻く。奥歯を噛み締めるその眼には怒りの焔が輝いている。
「なんだぁ、何、騒いでる。」
事情を知らない土薙忠隆が、たまたま一縄の屋敷を訪れて、屋敷に満ちた只ならぬ気配を感じながら正虎の前に顔を見せる。
「師谷が寝返りおった…。」
目付け役が文を忠隆に渡す。忠隆は、眉間にしわを寄せて文に目を通す。どこまでちゃんと読めているのやら、当てにならない。
「えーと、…なんて書いてあるんで?」
やっぱり、忠隆にはちょっと難しい。
「師谷上野が郷巻青鷹に加勢を要請している。」
目付け役が解説する。
「加勢って、上野の野郎、郷巻に付くって事か?」
土薙忠隆は、周りの男達の顔色を見回す。
「若、直ぐにご決断を。」宇木正は、忠隆を無視して若い正虎に迫る。「今なら、策略が露見したのを上野はまだ知りません。郷巻も動けない筈。」
「分かっている。」正虎が力強く立ち上がる。「宇木正、忠隆、力を貸せ。直ぐに集められる兵で、師谷を討つぞ。」
「は。」「おう!」
宇木正と忠隆は勢いよく応じる。
「宇木正、もう俺を『若』と呼ぶな。今の俺は、一縄の棟梁だぞ。」
「はい。」
力強く返事をした宇木正は、口角を上げた。
笠階宇木正と土薙忠隆は急いで自分の屋敷に戻ると、一族郎党を集められるだけ掻き集める。夕暮れまでに集められた兵を率いて、理由を言わずに屋敷から出陣する。合流地点に定めた神社の前で、一縄正虎の兵に合流する。正虎は甲冑で身を固め、良く手入れされた葦毛の馬に跨っている。まだ少年の華奢な体ながらも、若武者らしく凛々しい。一縄、笠階、土薙の兵を集めて、およそ千騎余り。それに付き従う雑兵を含め三千余の武者集団は、一気に師谷領に雪崩れ込む。夕暮れの闇の中、不意を突かれた師谷は、何の備えもしていない。突然の蹄の音と大勢の人の気配に驚いた村人が、家を飛び出して呆けた顔で見ている。軍勢は、師谷の屋敷を目指し一直線に突進する。異変に気付いた師谷の郎党が、慌てて屋敷の門を閉めようとするも、一番乗りの武者に蹴散らされ、軍は一塊となって雪崩れ込む。師谷に縁あると思しき者は問答無用、例え女子供であったとしても、容赦なくその場で殺される。そうしなければならない。主だけを処分すれば、一族郎党の誰かが、いずれ敵討ちと称して仇を返す事になる。只管逃げ惑う下男、下女。何人かの武者は急襲に応じて武器を取って戦うが、ものの数ではない。数人に取り囲まれて、各個討ち取られる。
「上野を探せ!上野の首を取れ!」
誰とも知れない声が乱れ飛ぶ。屋敷の隅々まで探すが見付からない。上野の妻と思しき女は、自ら首を切って自害している。
「確か、子供がいた筈だ。」
師谷上野には、十歳前後の息子と娘がいる。
「探せ!子供が一緒では、そう遠くには行っていないぞ!」
誰の仕業か、調べ尽くした屋敷に火が放たれる。兵はそれを遠巻きにし、飛び出して来た者を誰何もせずに切り殺す。それまで屋敷のどこかに隠れていた者は、外に出て切り殺されるか、屋敷の中で焼け死ぬか。師谷の一族の屋敷も同じ運命が待っている。その一方で、消えた上野親子の捜索が進められる。暗闇が親子に味方する。捜索は夜明けまで続けられたが、遂に親子を発見する事はできなかった。
郷巻青鷹は結局動かなかった。郷巻と師谷の密約はまだ成立していなかったし、これは一縄勢の内紛だ。郷巻が首を突っ込めば一縄との抗争が再燃するし、下手をすれば、朝廷に対する郷巻の評価を落とす結果になる。要は、一縄を攻める大義名分をでっち上げている暇がない。先の百足原の合戦で事を治め、東国の争いが終焉したと言う体で、朝廷の中では郷巻青鷹を評価する動きが出てきているのに、ここで事を荒立てたくはない。
一縄勢としても、今は郷巻に構っている余裕は無い。彼等が動く気配を見せないと分かるや、徹底的な師谷殲滅に注力する。逃げた師谷親子をそのまま放置する訳には行かない。裏切り者に対して厳罰を以って当たらなければ、第二、第三の師谷を防げない。親子の行方は執拗に追い続けられた。
師谷上野とその子供達は、一縄勢の襲撃を知るや、混乱に乗じて屋敷の抜け道から外に逃げた。山の中を迂回して、村外れの信頼できる農家の納屋の藁山の下、地面に掘られた穴の中に身を隠した。一縄の兵達は、師谷領内の家を一軒一軒、虱潰しに捜索したが、藁山の下に隠された地下空間まで見つける事はできなかった。親子は、師谷領内の捜索が終了するまで、そこでじっとしていた。ある夜、親子は闇に乗じて北へ向かった。虫の声の中、けもの道を選んで、一縄も郷巻も勢力が及ばない蝦夷の支配地を目指す。
出掛けに農家で貰った食料は、直ぐに底をついた。子供二人を連れての逃避行は、思うに任せない。沢の水で喉の渇きを潤し、野草を噛んで空腹を誤魔化す。何処に追手がいるか分からない。僅かでも人の気配がすれば、じっと草陰に身を潜めて過ぎ去るのを待った。
突然、山間に隠れ里が現れる。師谷上野は、歩けなくなった娘を背中から降ろして、子供二人を木陰に休ませると、見晴らしの利く高台から村の様子を窺う。
まだ蝦夷の集落がある程北には来ていない。かと言って、こんな山の中に隠れ里があるなど、聞いた憶えは無い。恐らく、一縄にも郷巻にも属さない他の領地の民なのだろう。煮炊きをする煙が家から上がっているところを見ると、ちゃんと人が住んでいる。何かしら食べ物がある筈だ。せめて、子供達の分だけでも盗み出せれば…。
一人の女が家の中から出て来るのが見える。手に野菜を抱えている。水場で洗うつもりだろう。それを追って、子供も出て来る。一人、更にその後ろからもう一人。母親と思しき野菜を抱えた女にすがる子供の顔が見える。ひときわ大きな目が目立つ。常人では有り得ないくらいに大きな目。あれはユニ族だ。また別の家から老人が出て来る。真っ白な髪の毛の老人も、目立つ大きな目をしている。女と何か一言二言、言葉を交わす。その時、女の横顔も見える。やはりひと際大きな目を持っている。
ここはユニ族の隠れ里だ。
ユニ族は常人と違い、闇夜でも目が利く。僅かな光を捉え、常人では真っ暗にしか思えない場所でも、周囲を見る事ができる。そのための、常人より一回り大きな黒目と瞳孔を持っている。その目立つ大きな両目を備えた容貌で、直ぐにユニ族と分かる。視線を合わせれば、何か憑りつかれそうな、或いは、呑み込まれそうな瞳が気味悪く、暗闇で彼等と会えば、僅かな光を受けて暗闇にぼんやりと光る二つの眼だけが宙に浮かんでいる様で気味悪く、害悪は無いのにも関わらず忌み嫌われてきた。彼等は、常人からの迫害を逃れ、常人との交流を断ち、この村で自分達だけの社会を作り暮らしていた。
そうか、ユニ族をすっかり見なくなったと思ったら、こんな山奥に隠棲していたのか。それならば、彼等は一縄と関係していない。コソコソせずに村に行って、休息させてもらえるように交渉しよう。今のままでは子供達が限界だ。
師谷上野は、木陰に休ませた子供達の元に戻り、娘を背負い直すと、村に向けて斜面を降りて行く。村の入り口から隠れる素振りも見せずに、姿を晒して入る。静かだ。昼日中、男達は野良仕事に出かけているのか、それとも狩か。家々からは人の気配がするが、村の通りに人影は無い。上野は用心深く、周囲に注意を払いながら、ゆっくりと進んで行く。
突然、一つの家の戸が勢いよく開いて、子供が飛び出してくる。手に粽を握りしめている。
「こら!シラ!何持って行った!」
家の中から女の声が追いかけて来る。後ろばかり気にして前を見ずに走って来た男の子が、上野にぶつかってその場に尻餅をつく。
「…おい、大丈夫か。」
娘を背負ったまま軋む体を折り曲げて、男の子に手を差し出す。男の子は、上野の顔を見上げたまま固まっている。
「シラ!」
中年の女が戸口に顔を覗かせる。女と上野は、視線を合わせたまま、両者とも一瞬動きが止まる。
「ひゃあ!」
天地がひっくり返ったかの様な大袈裟な悲鳴を上げて、女は上野の傍まで走り寄り、地面にへたり込んでいる男の子の腕を掴んで、無理矢理引き摺って行く。
「た、大変、大変だよぉ!みんなぁ、助けておくれ!」
女の叫ぶ声を聞いて、家々から人の顔が覗く。四方から声が飛び交い、あっと言う間に大きな騒ぎになる。家から出て来る者達は、皆、老人や女ばかりだ。興味本位で顔を覗かせる子供を家の中に押し込める姿も見える。
「長、長を呼べ!」「おさぁ!おさぁ!」
村人が上野と子供を遠巻きにして、彼等の僅かな動きも見逃すまいと身構えている。上野は、彼を取り囲む人々の顔を見回す。村人達の目には、恐怖と怨嗟が宿っている。常人では有り得ない程に大きな目が、何か不気味な力で上野の動きを押しとどめる。
「父上…」
異様な雰囲気に飲まれ、それまで文句も言わずに付き従って来た息子が、上野に擦り寄る。上野は息子の肩に手を添える。
「なんだ、何事だ。」
声と共に一人の老人が現れる。村人が彼に道を空けるところを見ると、きっと彼が長と呼ばれるこの村の長老だ。覚束ない足元。僅かな歩幅でトボトボ歩く。何が気に入らないのか、眉間に皺を寄せて、口元を醜く歪ませている。
「ふん…。」
上野親子の姿を目にして立ち止まるが、それ以上何も言わない。上野は村人を刺激しない様、ゆっくりと背中の娘を降ろし、その場に片膝をつく。筋肉質の体が窮屈そうだ。
「俺は…」
「言うな。」
上野が口を開いた途端、長老がそれを制する。
「お前達の話を聞けば、関わりを持つ事になる。儂等は何も知らない。何も関わらない。」
長老の強い口調にも上野は諦めない。一縷の望みでもあるならば、今はそれに賭けるしかない。
「危害を加えるつもりは無い。俺がここに居る事を知る者もいない。…済まないが、暫くここに居させてもらえないか。」
武将として活躍していた頃の、自信に満ち溢れた姿は想像もできない。伸び放題に伸びた髭だらけのやつれた顔で、力ない言葉が口元から洩れる。二人の子供はその場にへたり込んでいる。
「それはできない。」
師谷親子が何故この山村を訪れたか、ユニ族の者は事情を知らない。この親子が誰なのかも知らない。だが、たとえどんな事情があったとしても、常人と一度関われば、世間の流れに巻き込まれずには済まされない。それは、ユニ族に必ず不幸を招く。長い苦難の経験から彼等はそれを悟った。
「ほんの二、三日で良い。」上野は、地面に両手をついて言い募る。「この子達が動ける様になるまで、軒先を貸してもらいたい。」
「済まないが諦めてくれ。お前達と関わる事はできない。」
「せめて今夜だけ。納屋で構わない。我々が勝手に入り込んだと言う話でどうだ。…疲れ果てていて、この子等はもう歩けないんだ。」
子供ばかりではない。そう言う上野にしても同じだ。それは彼等を囲む村人の目にも明らかだ。
「駄目だ。儂等とは住む世界が違う。ただ…、今日これから、村の者達で山の神の祠に供え物を運ぶ予定だ。一度供えてしまえば、供えた物がその後どうなろうと知った事ではない。それに…、この村の外ならば、どこにどんな生き物が居ようと知った事ではない。…立ち去れ。」
「…すまない。」
背中に娘を背負い上げ、息子の手を引いて、とぼとぼと上野はユニ族の村を後にする。供え物を運ぶ村人の列の跡をつけて、祠の場所を探し当て、彼等が去った後、供え物を三人で食べた。その夜、親子はユニ族が祀る山の神の祠で一夜を明かし、次の朝には、更に北を目指してユニ族の地を去って行った。
結局、親子に安寧の地は無かった。一縄の追手は執拗に親子の行方を追い求め、蝦夷の支配地の手前で師谷上野は捕らえられた。蝦夷は、大和朝廷の支配下に入っていない人々を指す。東人との違いは、大和朝廷の支配を受け入れているか、いないかの違いだけでしかない。両者は昔から戦いもするが、交流もしている。上野は、もう少しで蝦夷の支配地に逃げ込める所まで来ていながら、そこに留まっていた。
捕らえられた時、彼は山の中で一人きりだった。抵抗する素振りも見せなかったと言う。二人の子供の行方を問うた時、彼は焦点の定まらない虚ろな目をして、「もういない」とだけ答えた。一応周囲の探索が行われたが、二人の子供の行方は結局つかめなかった。
上野は、その地から一縄の屋敷まで、縄に繋いで連行された。両手を縛られ、そこに括りつけた縄を馬に乗った武者が曳いて行く。上野は馬の速さに合わせて歩かなければならない。山道の石に足を取られて倒れれば、引き摺られる運命だ。こうして、逃げて来た道を逆にたどり、一縄の屋敷に着いた頃には、別人の様に痩せてみすぼらしい姿になっていた。一縄正虎の前に引き出された上野を正虎は一瞥し、「ふん」と言ったきり、顔をそむけて見ようともしない。上野も命乞いも申し開きもせず、抜け殻の様になって一縄の庭にへたり込んでいる。仕方なく、上野は一縄の屋敷の座敷牢に入れられた。彼はもう、何も話さず、出される食事に手を付ける事もしない。結局、何も語らず、捕まってひと月もしない内に、牢の中で死んだ。下人によって彼の骸は運び出された。荼毘に付す前に、骸の懐から遺髪と思しき髪の毛の束が二束見付かったが、最早誰もそれに関心を示さなかった。