百足原合戦顛末 その一
三 百足原合戦顛末
郷巻興嶽の予想に反し、一縄正虎は、鷹ノ巣山の物見砦を落とした後、それ以上兵を進めなかった。物見砦を鮮やかに落とし、郷巻に手も足も出させなった事で、一縄正虎は満足してしまった。ここまで見事に策が上手くはまれば、もう少し行けるのではないかと言う欲が出そうなものだが、正虎はそんな考えをおくびにも出さなかった。
一方、急遽帰り着いた郷巻興嶽も反撃しなかった。鷹ノ巣山物見砦の喪失による実害は無いに等しい。影響があるとすれば、将兵の士気だ。それも興嶽の留守に付け込んだ、謂わば火事場泥棒の様な所業では、相手方のやり方に憤慨する者は居ても、意気消沈してしまう者はいない。つまり、今回の物見砦失陥は、大した問題ではない。むしろ重要なのは反撃の一手だ。今度は郷巻興嶽が指揮する。完膚なきまでに打ちのめし、一縄に完全勝利しなければならない。興嶽は、そう考えて周到な準備と情報収集に力を注いでいる。
ならば、次は郷巻興嶽の手番となるのだろうか。そうとは限らない。相手に主導権を握られるなど、一縄正虎にとって、悪夢の再来でしかない。彼にとって、力こそが絶対であり、正義だった。勝ち続ければ、人も土地も自分に付いて来る。強い者に誰もが従う。郷巻との勢力差が逆転すれば、朝廷すら自分に味方する。その思いは、彼が子供の頃に経験した出来事に根差していた。
今から二十年前。一縄正虎十三歳の時、父の一縄雷と、興嶽の父・郷巻青鷹の間で合戦が行われた。長きに渡り東国の覇を争う両家は、一介の豪族から始まり、周囲の豪族を家人として糾合して大きくなり、正にこの戦いで雌雄を決せんとしていた。
時は六月、場所は百足原。休火山の麓に広がる開けた高原に、両軍合わせて十万の軍勢が対峙する。勢力はほぼ互角。夜明け前から周囲を覆っていた朝霧が、日が高く昇るにつれて晴れると、互いの眼前は見渡す限り敵勢で埋め尽くされている。
将の合図を待つ。緊迫した両軍の間を風が抜けていく。
この時が正虎の初陣でもあった。父・雷と共に、旗本勢に守られて、陣の中央、床几の上に腰を下ろして戦場を見渡す。
「親方、準備が整いました。」
甲冑姿の一人の武者が、雷の前に膝をついて報告する。四角いえらの張った顔が黒々と日に焼けている。筋肉質の如何にも堅牢な体を、棟梁の前で窮屈そうに屈める。彼の名は師谷上野。一縄勢一の勢力を誇る家人だ。
「よし!」雷がやおら床几から立ち上がる。「射掛けろ!存分に手柄を立てよ!」
時は来た。両軍の将兵が鬨の声を上げて突進する。馬の蹄が巻き上げる砂塵に日射しは翳り、雄叫びと鉄のぶつかり合う音が空気を震わせる。一縄の左翼が押し込むが、郷巻は中央が負けじと圧してくる。突出した郷巻の中央を、一縄の両翼が囲い込もうとすれば、郷巻の両翼が必死で巻き返す。両軍死力を尽くした一進一退の攻防は、勝敗が見えないまま、時ばかりが過ぎていく。朝に始まった合戦は、互角に組み合ったまま、既に正午を過ぎた。業を煮やした雷が遂に動く。
「馬を持て!討って出るぞ!」
近侍の郎党が雷の前に馬を牽く。偉丈夫の雷が鐙に足を掛け、軽やかに馬上に身を躍らせる。
「父上、俺も。」
正虎はじっとしていられず、床几から腰を浮かして声を上げる。
「待て。お前はまだだ。腕を振るう場は作ってやるから、待っていろ。」
そう言われては、それ以上言葉は無い。
「それ、者共続け!」
大声で言い終わるか終わらない内に、雷がばったりと馬の上にうつ伏せに倒れる。何が起きたのかと周囲が驚いている内に、雷の体は馬からずり落ち、大地の上に大の字になって転がった。
「親方!」
旗本達が雷に駆け寄る。意識が無い。体を揺すっても反応しない。外傷は?傷は見当たらない。流れ矢が当たった訳ではない。
「父上!」
正虎も駆け寄り、兵をかき分けて、雷の傍らに座り込む。
目を閉じているが、息はしている。やおら雷がいびきをかき始める。急な変わり様に、誰もが顔を見合わせるばかりで何もできない。
雷斃れる。
実際にはまだ息があったが、その知らせは戦場を駆け巡る。俄かに一縄の将兵が浮足立つ。
一縄雷の首を取られる訳にはいかない。屈強な郎党が背中に雷を背負って、縄で縛り付け、三人がかりで郎党ごと馬に跨らせる。
「若も急ぎませ。」
旗本達に急かされて、正虎は馬に跨ると、旗本の騎馬に守られて戦場を後にする。
陣を後にする旗本達の動きを見て、雷の死を信じられずにいた武将達は確信する。如何に兵力が残っていようとも、大将が居なくなれば戦いは負ける。それが古代から中世の戦の形だ。それまで互角に戦っていた多くの一縄勢にとっては、ここで奮戦して敵の首級を上げたところで、恩賞に与れないのならば戦う意味は無い。一人、二人、十人、百人と、次々戦場から離脱を図る。瞬く間に形勢は郷巻に傾く。形成を立て直す大将が居なければ、状況はどんどん悪化する。一縄勢の一角が崩れる。手遅れにならない内にと我先に戦場から将兵が逃げ出し、見る間に総崩れへと変わっていく。
敗走は潰走に変わり、戦場は屠殺場に成り下がる。馬で逃げる武者は背中から矢を浴びせられ、落馬したところで止めを刺される。逃げ切れず雑兵に取り囲まれた武者は、四方から槍で仕留められて憤死する。雑兵共は騎馬武者の太刀に薙ぎ払われ、名のある将と思しき者は、首を取られて躯を原野に晒した。
一縄雷、正虎と旗本二十騎余りは、只管駆けた。残りの旗本は戦場に残り、追撃しようとする敵を防いで犠牲になる。家人と違い、旗本は子飼いの一縄直属の配下だ。主のために死ぬ覚悟はできている。旗本の防御戦をすり抜けた騎馬数騎が、逃げる一縄に追いすがる。雷、正虎に付き従っていた旗本数騎が取って返して迎え撃つ。そこで時間稼ぎをすれば、一縄雷、正虎は逃げおおせるが、食い止めた旗本は、やがて多勢の敵に囲まれ死ぬ運命だ。
残った一縄一行は、国境の山の中で休憩を取った。背中に括り付けられていた一縄雷を三人がかりで注意深く土の上に横たえる。既に息をしていない。
「…父上!」
正虎は、土の上に寝かされた父にしがみ付き、両目から溢れ落ちる涙を拭おうともしない。
「峠を越えれば、その先までは追って来ないと思いますが、万が一、若にまで何かあっては一大事。一刻も早く一縄本領に帰り着くため、雷様は、首級のみ持ち帰りましょう。」
「馬鹿者!」正虎は、勢いよく立ち上がり、家臣の申し出を言下に否定する。「貴様達は、一縄の者の筈。主に刃を向ける気か!」
「決して、そのような…、申し訳ありません。血迷っておりました。」
提案した者は、土下座して許しを請う。
「そこに直れ!冥途まで父の供侍にしてくれる!」
「申し訳ありません!」「若、御堪忍下さいませ。」「若!」
土下座した者は只管平身低頭、他の者は、正虎に取りすがって諫める。
こんな事をしている場合じゃない。それは頭で判っていても、正虎にはどうにも抑えきれない。
そんなやりとりを暫くした後、正虎は、どっかりと地べたに腰を下ろす。顔には疲労が滲んでいる。
「…もう良い。支度をして、里に戻るぞ。」
雷を背負い直した男を馬に乗せ、周囲を警戒しながら山道を一縄本領に向けてひた走る。一縄の屋敷に辿り着いた時、正虎に付き従う者は、僅か七騎になっていた。