都詣で・都落ち その三
各務織家で宴が開かれると言う日の夕方に、舎人の鉾磯と言う者が、離宮に柘植山殿を訪ねて来た。
女房が来訪者の到着を告げに来る。
「三品様、先日お申しつけになった薬子の件、舎人の鉾磯と言う者が報告に参りました。」
「おお、そうか。通してくれ。」
それまで退屈そうに庭を眺めていた柘植山殿は、跳び上がらんばかりに喜ぶ。
「それと、私共は、これから各務織様の屋敷に伺おうと思います。留守になりますが、良いでしょうか?」
「ああ、構わない。楽しんで来ると良い。」
「いえ、私共は、手伝いに行くのです。遊びに行く訳ではありません。」
「そうだった、そうだった。それじゃ、しっかりお役に立つよう頑張って来てくれ。」
「はい。夕餉の支度は、隣の部屋に準備しておきます。」
「すまないね。」
鉾磯と言う男は、どじょう髭を生やした、やけに顔が縦長に見える男だった。鉾磯が部屋に入るために開けた板戸の向こうで、女房達がひと塊になって、何やらぺちゃくちゃと話しながら、楽しそうに出掛けて行く姿が見える。
やっぱり楽しみなんじゃないか。女房達こそ、いつも柘植山殿の世話ばかりで変化の無い日常を送っているのだ、たまの息抜きがあっても良いだろう。
柘植山殿は一人ほくそ笑む。
「ご依頼がございました、薬子の件でございますが…。」
「ん?ああ。」
柘植山殿の様子など気にもせずに、鉾磯が事務的に話し出すのを聞いて、柘植山殿も彼との話に注意を向ける。
「先代の帝の時に薬子をしておりました者は、貞影と言う女官でした。今は辞めて行方が分かりません。」
「行方が分からないって、どういう事だ?」
「はい、顔見知りだった者の話では、職を辞して故郷に帰ると言っていたそうです。」
「その者の郷里とは?」
「さあ、そこまでは…。顔見知りだった者もそこまでは聞いていなかった様で、調べようがございません。」
「ふーん。」
柘植山殿は、不満気な顔で腕を組む。
ああ、そうですか…と納得できる話ではない。少なくとも内裏で働いていた女官だ。誰も薬子の出身地を知らないなんて事が有り得るのだろうか。
「その薬子に繋がる身内や遠い縁者でも良いから、宮中に居ないのか?」
「はぁ、寡聞にて知りません。」
じゃあ、都を探せば知り合いくらい居るのじゃないか?とも思ったが、鉾磯だってそのくらい考えるだろう。知らないとだけ言うのは、そういう探索をやっても無駄なのか、やりたくないのかのどちらかだ。先帝の毒見役が既にいなくなっているとは、更に怪しくなってくるが、今はこれ以上打つ手がない。
暫く放っておいて、やっぱり気になる様ならば、また、方策を考えてみるか…。
「鉾磯とやら、わざわざ調べた上に、報告に来てもらい、すまなかった。何か褒美をと思うのだが、今しがた女房達が出掛けてしまった。追ってお主の家にでも持って行かせるので、すまないが、今日は手ぶらで帰ってくれ。」
「いえ、そのようなお気遣い無用にございます。これも役目でございますれば。」
鉾磯はそそくさと立ち上がり、こそこそと離宮を後にした。
取り敢えず、薬子をしていた者の名前は知れた。僅かだが前進したじゃないか。
柘植山殿は気を取り直して、隣の部屋に用意してあると言う夕飯を冷め切らない内に食べて、後は酒でも飲んで寒さを紛らわせようと立ち上がる。隣の部屋を覗けば、藁の円座の前に膳が据えられている。すたすたと円座まで進み、どっかりと腰を下ろす。
いつもは、女房にかしずかれて食事をする。それも悪くはないが、常に食べている様子を監視されている様でもあり、親王として無様な姿は見せられない。こうして一人で食事をするのは、寂しくもあるが、どこか解放感があるのも確かだ。
焼いた肉は、鳥だ。魚は川魚だ。ちょっと小骨が多い。
気紛れに箸でつつき、口に運ぶ。
こっちの蓋が被せてある椀の中身は、なますか煮凝りか…
蓋を開けて中身を見るなり、持ち上げた陶器の蓋を放り出す。
「う、わぁぁあぁぁ!」
両足をばたつかせて、膳から後ずさる。驚きの余り腰が立たない。
椀の中には、青大将の首が入っている。首元でばっさりと断ち切られ、流れ出した真っ赤な血が椀の中を満たしている。僅かに開いた口からは、蛇独特の細い舌の先が覗いている。虚空を睨む黒い目に、油灯の光が妖く映っている。
柘植山殿はその光景から目が離せなくなった。体が硬直し、息をする事すら忘れているのに気付いて、慌てて息をする。今度は、吐き気が襲って来る。その場で床の上に、今食べた物を吐き出す。
漸く衝撃から我を取り戻す。それと同時に恐怖が全身を走る。
「誰か!誰かいないか!」
女房達が出掛けて留守なのは承知している。それでも助けを叫ばずにはいられない。
「誰か!誰か!」
冬の日はとうに暮れ落ち、部屋に灯された油灯以外は真っ暗だ。離宮の暗い空気に柘植山殿の声が吸い込まれていく。
いや、誰かいたら、その方が恐ろしい。
周囲に視線を走らせる。油灯に照らし出される板戸の陰に、あるいは、炎の揺らめく光の中に、見えない眼が潜んでいて、じっとこっちの様子を窺っているのじゃないか。
全身が震えて来る。寒さばかりじゃない。震えが止まらない。
柘植山殿は、部屋の隅に丸くなり、震えながら女房達が帰って来るのを待った。各務織の屋敷から戻って、柘植山殿と膳を見付けた女房達は、上を下への大騒ぎになった。女房達の顔を見て、漸く落ち着きを取り戻した柘植山殿が、むしろ彼女等を宥め、この事は伏せる様にきつく言い付けた。
これは、警告だ。
冷静さを取り戻した柘植山殿は状況を理解した。触れてはいけない闇に触れようとしたから、これ以上詮索するなと言う警告だ。やろうと思えばいつでもお前を毒殺できる。簡単だと言っているのだ。自分が軽率だった。気楽に女房達を使って大っぴらに調べるなんて、馬鹿も良い所だ。
『毒に気を付けなされ。』
つまり、あれは本当だった。本当に自分の知らない誰かが、母と自分を陰から見張っていて、何かおかしな動きをしたら、口を封じる陰謀があったのだ。そして、それは今も生きている。
『そんな事を軽々に口にするものではありません。災いを呼び寄せてしまいますよ。』
山寺であった母は、厳しい表情でそう言った。あれは、母ができる精一杯の注意喚起だったのだ。もしかしたら、最早取り返しのつかない沼に、自分は片足を突っ込んでしまったのかも知れない。
五十条帝は、先代の菩提を弔うため、山寺を訪れていた。本堂で二人の僧侶が読経する後ろに一人座し、瞑目する帝は、異母弟の柘植山殿の様な中性的な雰囲気は無いが、生まれの良さが色白の肌のつやに感じ取れる。切れ長の目にうりざね顔、肉付きの良い体は、絵巻物にある貴族を彷彿とさせる。
一人の若い僧が、何気なく彼の隣に来て座る。人の気配に、帝はちらりと僧を見遣った後で、あらためて驚いた顔を僧に向ける。
「お前…、柘植山か?」
墨衣を着て頭を丸めているが、女と言っても通りそうな優しい顔立ちと華奢な体は、彼を知る者ならば、直ぐそれと分かる。
「なんだ、その恰好は。」
「出家致しました。」
場を憚って互いに顔を寄せ合い、小声で話す。
「何を馬鹿な事を言う。悪戯でも質が悪い。」
「いえ、本当です。この数日で決意しましたので、報告が後になり失礼致しました。僧名を頂きました。悟正と申します。」
「何があった。どうして先に相談しなかった。」
「言えません。言えば、兄様にも危険が及びます。」
五十条帝は目の玉だけを動かして、周囲の様子を探る。怪しい人影は無い。あるのは、読経を続ける二人の僧と、五十条帝、柘植山改め悟正の姿だけだ。どこの国の宮中でも、陰謀が渦巻いている。その中で暮らしていれば、そういうものに対して鼻が利く様になる。無頓着に生きて来た柘植山殿の方が特殊なのだ。
「そうか…。それで、どうする。」
「都を離れます。修行僧として国中を回り、自らを鍛え直したいと思います。」
「…ふん、それも良いだろう。旅立つ前に、お前の母上に挨拶して行けよ。」
柘植山改め悟正の母は、同じ山寺の庵に居る。歩いてすぐの場所だ。
「いえ…、やめておきます。いずれ時期を見て訪ねます。」
「間違っても母上より先に死ぬなよ。どんな時でも諦めるな。」
「そう思って、出家したのですが…、これでも駄目ならば、御仏の思し召し。天命と諦めます。」
「馬鹿な。」
「明日には都を発ちます。」
「供は?」
悟正は黙って首を横に振る。
「一つ、余の願いを聞け。」
「それは、帝のお指図で?」
「そうだ。」
「何でございましょう。」
「諸国を回ると言うのなら、その土地で見聞きした話を持ち帰り、余に伝えろ。良いか。」
「かしこまりました。」
「良いか、必ず、都に帰って来て、余に会うのだぞ。」
「仰せに違わぬ様に。」
悟正は静かに頭を下げた。
悟正は、早朝、まだ夜も明けきらない内に、一人都を後にした。当然、見送る者など誰もいない。墨衣を纏い、深々と網代笠を被り、片手に錫杖、片手に鉢を抱えて、霜を踏みしめて足早に行く。身の回りの事全てを女房共に任せていた生活を捨て、ここから先は、日々の糧すら己で手に入れなければならない世界が待っている。これまでの人生で経験した事の無い苦難が待っていると予感しながらも、悟正の瞳が寧ろ生き生きと見えるのは気のせいだろうか。
数刻後、郷巻興嶽の一行が都を後にした。沢山の土産を乗せて来た馬は空になった。その馬に鞍を載せて郎党が乗り、騎馬の一団となって都を下る。
「親方、急ぎましょう。」
急使を担った郎党は焦っている。
「分かっとる。なら、駆け比べをしながらの旅としようぞ!我に続け!追いついてみせろ!」
興嶽は、言い終わらない内に馬に鞭をくれる。郎党達も、走り出した主の馬に遅れまいと、我先に馬を駆る。
駆けながら、興嶽は後ろを振り返る。
待っていろ。必ず戻って来て、俺を認めさせてやる。
遠ざかる城門の屋根瓦を、走る馬の背の上から興嶽は睨み付けた。