あざなえる縄 その一
九 あざなえる縄
澤の郷曲輪の合戦から一年余りで、もう一縄正虎は郷巻興嶽に挑みかかるつもりになっていた。手ひどい敗戦で一時は意気消沈した正虎だったが、この頃は前にも増して威勢が良い。笠階宇木正以下の家人を集めて、次の合戦に向けた評議を始める。
「またも、山猿は鷹ノ巣山に出張って来て、物見砦を再建しておる。またぞろ、こっちの様子を高い所から見下ろすつもりだ。」
正虎には物見砦の存在が余程癇に障るのだろう。
「こちらを挑発しているつもりでしょう。余り気になさらない方がよろしいかと。」
静かに宇木正は答える。
「ふん!」正虎は伸びた無精髭を弄りながら、そっぽを向く。「相手の挑発な事くらい言われなくても分かっている。だからと言って、放っておいてはこっちの沽券にかかわるぞ。」
「澤の郷の合戦からまだ一年。我々の勢力はまだ、回復途上にあります。まずは周辺の武将を一縄の元にもう一度結集するのが肝要かと存じます。」
澤の郷の合戦で敗れた一縄勢からは繋がりの浅い家人が何人も離反していた。一縄の勢力を回復するには、まずはこれらをもう一度正虎の元に参集させる必要があった。
「もう良い!澤の郷の話は出すな。気分が悪くなる。宇木正に言われんでも、そんな事は百も承知だ。だがな、山猿だってそう思っている。それじゃ、山猿の裏はかけんぞ。あっと言わせる策を出せ。お前は知恵者だろ!」
正虎は宇木正を睨み付ける。
「そう言われましても、妙案は…」
戸惑う宇木正の表情を見て、正虎がフフンと鼻で笑う。
「できあがる前に、物見砦を攻める。」
正虎の言葉に、居並ぶ家人から驚きの声が漏れる。
「俺達が弱っているのは誰の目にも明らか。だからこそ。…だからこそ、今、やる意味があるのよ。」
正虎は、目をぎらつかせて家人達を見回す。
無謀だ。
直感的に宇木正は感じる。
「親方、どうやって…」
宇木正は口走る。
「そんなもの、前回と同じやり方をするに決まっている。」
「流石に、同じ手は二度通用しないのでは…」
「誰もがそう思う。だからこそ、勝ち目がある。山猿は、俺達が弱っていて、何もできないと思っている。そんな状態で攻めて来るとは毛程も心配していない。その上まさか、同じ手で物見砦を最初に狙って来るなど、微塵も疑っていないだろう。」
「いや、それだとしても…」
「宇木正!」正虎は大声を上げて、宇木正を睨み付ける。「もう良い。お前の用心は聞き飽きた。…お前は俺の親のつもりか。」
「いえ、けっしてそのようなつもりは」宇木正は慌てて、板の間に両手をついて、額を床に押しつける。「出過ぎた真似を致しました。」
下手をしたら、この場で切られてお終いだ。人の言葉に耳を貸すつもりは端から無い。少しでも正虎に逆らう素振りを見せれば、その場で打ち首にされかねない。そのくらい狂った目をしている。
「忠隆を呼び戻す。」
正虎は、さらりと言ってのける。
「な、なんと!」
宇木正は目を丸くして、正虎の顔を見る。宇木正の反応が思った通りなのか、正虎は満足気な笑みを浮かべる。
「親方は、忠隆のした事をお忘れか!あの者は、事もあろうに、味方である俺の屋敷に攻め入り、我が息子を殺した悪人ですぞ!」
「いつまでそんな事に囚われている!」
「そんな事…」
宇木正は余りの衝撃に体を仰け反らせる。
「攻めるとなれば、忠隆の力が必要だ。今回の物見砦攻略は、忠隆に任せる。あいつなら、四の五の言わずに、勇んで砦を落としに向かうだろう。お前は、麓でその様子を見学していると良い。他の者達は、郷巻側の斜面に土塁を設けて、救援に来る郷巻勢を押し返す。…いいか、ここからが、前と違う所だ。物見砦救援の軍勢が鷹ノ巣山の防護土塁まで攻め寄せたら、その知らせを受けて、宇木正、お前の軍は澤の郷曲輪を襲え!郷巻の軍勢は、物見砦の急を聞いて、またしても俺が物見砦を取りに来たと思うに違いない。同じ失態を繰り返すまいと、今度は全力で物見砦救援に来るぞ。その隙に、お前は澤の郷曲輪を落とせ!」
目玉が飛び出さんばかりに正虎は目を見開き、ギラギラと異様な光を反射している。
本当にどうかしている。
宇木正はのけ反ったままの姿勢で、ギラつく正虎の目を見つめたまま、薄ら寒い物を背中に感じていた。
宇木正は、一縄の屋敷から自分の屋敷に帰る間、馬の背の上でまた思案した。
正虎は自信満々だった。だがそれは、何の根拠もない。寧ろ必死になって、自分は完璧だと、自分自身に信じ込ませようとしている様に見えた。澤の郷曲輪で敗れ、持っていた物を全て失ってしまった衝撃が余りにも大き過ぎたのだ。何とかそのどん底から脱けようとする内に、現実が見えなくなったのだろう。あの自信満々な表情の下で、きっと恐怖と不安に深く深く苛まれているのに違いない。そうして、少しでも不安を呼び覚ます様な事を言う者は、徹底的に叩き潰すつもりだ。最早、一縄は終わりだ。冷静な判断ができない棟梁の元で戦えば、必ず負ける。
屋敷に着いて馬から降りる時、馬の轡を取ったのは作麻呂だった。
「作麻呂、ちょっと来い。」
宇木正はそれだけ言って、後は黙って自室に歩いて行く。何やら真剣な表情に只ならぬ物を感じながら、黙って作麻呂は宇木正の後ろに続く。子供組から郎党になった作麻呂は、今や中堅だ。元来落ち着いた性格で派手さは無いが、それだけに安心して任せられる。こんな時アカゲラが居れば、迷わずアカゲラを使っていただろう。無いものをねだっても仕方ない。作麻呂なら信頼がおけるうえに、まだ笠階の内輪以外には名も顔も知られていない。任務にはうってつけだ。
「良いか、これから先の話は他言無用だ。守れるか?」
部屋で二人対座すると、静かに宇木正は話し始める。そんな事を言われたら、いよいよ作麻呂の全身に緊張が走る。
「はい。」
「お前は流れ職人の姿になって、郷巻の領内に行け。…籠やたらい作りは得意だったな?」
「はい…、郷巻の状況を探って来るので?」
「いや、俺がこれから書状を一つ書く。それを持って、郷巻の屋敷に向かえ。」
作麻呂は喉まで出掛かった言葉を急いで呑み込む。
「笠階からの使者だと言っても、簡単には信用してもらえないだろう。」
宇木正は、部屋の隅に置かれた物入れまで行き、中から小刀を一つ取り出して、作麻呂の前に置く。柄の頭に見事な細工が施されている。
「これは、先の鷹ノ巣山物見砦を攻略した折に、物見砦の頭が持っていた物だ。この柄を外して持って行け。郷巻の者ならば、本物かどうか判断が付く者がいるだろう。良いか、物見砦を落とした一味と分かったら、仇だと怒って襲って来る奴がいるかも知れない。それでもけっして抵抗するな。只管に、興嶽殿に会って話したい事が有ると訴え続けろ。」
運が悪ければ、その場で嬲り殺されてしまうかも知れない。そうなったら、作麻呂には申し訳ないが、運が悪かったと諦めてもらうしかない。だが、同時に笠階の運命だって終わったも同然だ。
「もし、郷巻興嶽に会う事ができたら、書状を手渡せ。良いか、それまで、どんな事があっても、他の者に書状の事を言うな。どんな用事だと問われても、直接会って話さない限り言えないと、頑として突っぱねろ。良いか。」
切羽詰まった顔で作麻呂は黙って頷く。暑くもない時期なのに、全身汗まみれだ。
「明日、夜が明ける前に出発しろ。誰にも見られない様、今日の夕方までに竹林の館に行って、時を待て。」
土薙忠隆の乱で和正が亡くなった後、周囲が落ち着きを取り戻した頃を見計らって、山吹と露音は本屋敷に戻した。竹林の館は無人になっている。
「籠やたらいの修繕用の道具を持ったら、街道を正々堂々と通って、郷巻を目指せ。けっしてこそこそするな。刀の類いは置いて行け。刃物は、木を割く鉈だけだ。良いか、郷巻の屋敷に着くまでは、流れ職人だと言って通すんだ。怪しまれたら、その場で網籠でも作ってやれ。」
「…はい。」
漸く返事が喉から出る。
「では、下がっていろ。夕方出かける前に、もう一度ここに来い。その時、書状を渡す。しっかりな。」
そう言って、宇木正は作麻呂の肩を叩いた。
作麻呂が戻って来たのは、五日後だった。途中怪しまれる事なく、郷巻の屋敷に辿り着き、ひと悶着あった様だが、首尾よく書状を郷巻興嶽に渡す事ができた。作麻呂は早速、興嶽の返書を着物の衿に隠し持って帰って来た。
一縄正虎は、土薙忠隆の謹慎を解いた。一縄の屋敷に彼を呼び、鷹ノ巣山の物見砦をお前が落とせと正虎が直接命じた。流石に忠隆とて、状況は理解している。如何に正虎の温情で謹慎が解かれたからと言って、物見砦を直ぐに攻めるとは言わなかった。澤の郷曲輪攻めで手勢の大半を失い、その上笠階宇木正を攻める暴挙に及んだ事で、曲輪攻めで忠隆と行動を共にした中小の家人から白い目で見られる様になり、更に謹慎で行動の自由が利かない内に、自らの郎党からも離反者が出て、とても兵を起こす余裕はない。
「喜んで、その任受けるぜ。只、親方、俺ぁ、昨日まで屋敷に閉じ籠っちまってたから、戦の勘は鈍っちまってるし、俺の子分達も、俺が赦されるのはもっと先だと油断してたもんで、弓も矢も充分じゃねぇ。ちっと時間をもらえねぇだろうか。いや、鮮やかに手に入れて見せやすんで、俺に策を練る時間をくだせぇ。」
忠隆には珍しく、正虎の前で両手をついて、ペコペコと頭を下げた。正虎は、最初こそ渋い顔をしていたが、良い様に忠隆におだてられて、とうとう忠隆の願いを承諾し、彼に一年間の猶予を与えた。評議の場で正虎は、郷巻が油断している間に奇襲すると言っていたのに、これでは台無しだ。だが先延ばしにした事で機を逸したのか、或いは、拙速で攻める愚を回避できたのかは、実際に戦ってみなければ結論が出ない。今確かなのは、忠隆は先延ばしにできて、もっとましな作戦を考える時間を得たのと当時に、秘密裏に郷巻と交渉を始めた笠階宇木正も、貴重な時間を得たと言う事だ。