鷹ノ巣山物見砦 その三
物見砦奪取の知らせは、夜明け前に一縄正虎の元に届けられた。
「おう!」寝所で知らせを聞いた正虎は、勢いよく立ち上がる。「鷹ノ巣山に押し出すぞ。支度をせい!家人共にも触れ回れ!即刻支度をして付き従え!」
従者達が正虎に戦支度をするのも待ち切れず、太刀をひっつかむと、馬に飛び乗り、山に向けて走り出す。正虎の屋敷に住まう郎党は、支度もそこそこに主人の後を追う。家人達がついて行くのはとても無理だ。まだ知らせが届いていない所もある。彼等は、東の空が白々と明けて来る頃になって漸く主の後を追った。
郷巻勢も状況は似たり寄ったりだ。郷巻興嶽の留守をあずかる叔父の門守が物見砦の急の知らせを聞いた頃には、夜が明け始めていた。知らせを持って来た者は、砦を馬で出たが、途中の山道を一縄勢が塞いでいたので馬を捨て、山の中を歩いて来たと言う。一縄は、郷巻の反撃に備えていると言う事だ。短兵急に砦に駆け付けようとすれば、逆襲に遭うだけだ。
門守は眉間にしわを寄せ、唇を噛む。
油断した。一縄正虎の代になってからは、一度も郷巻領に攻めて来なかった。だから今度も何も無いだろう。鷹ノ巣山に物見砦もあるから、知られずに戦支度をするのは無理だ。物見砦からの知らせがあってから動けば、充分間に合う。そう思っていた。まさか、その物見砦に奇襲をかけて来るとは。一縄勢は周到に準備して、機が熟すのを待っていたのだろう。
郷巻門守は、郷巻の一族、家人に知らせ、しっかりと戦の準備を整えてから救援に向かうと決めた。騎馬武者と雑兵を揃えている内に時間が過ぎる。軍が門守の指揮で郷巻本領を発った時には、すっかり周囲は明るくなっていた。昨夜、郷巻本領も襲った風と雪はやんだ。空はまだ鬱陶しい雲に覆われているが、雪は地表をうっすらと白く染めただけに留まっている。行軍の支障にはならない。鷹ノ巣山の中腹まで行くと、土薙忠隆の陣に出くわす。山中の一本道、沢にかかる橋が外され、向こう岸の笹藪の中に、弓を携えた武者が見える。昨日の雪は、里よりも山の中の方が多く残っている。白い雪を薄っすら被った笹の間に、黒々とした武者の陰がはっきりと見える。迂闊に近付けば、こっちの動きが向こうに丸見えとなる。更に沢に降りれば、遮る物のない丸裸の状態だ。良い様に射られては一溜まりもない。
どうしたものか。
沢の手前のブナ林の中で馬を止めたまま、郷巻門守は動かない。門守の指示がなければ、軍も動かない。隊列の後ろで、事情も知らされず待たされる事に業を煮やした一人の武将が、馬を降りて門守の所にやって来る。鳴戸成泰。郷巻と一縄の先代同士が戦った百足原の合戦を知らない血気盛んな若武者だ。
「門守殿、どうなされた。」
「沢の向こう岸に一縄が陣を敷いておる。」
「陣?」
成泰は沢近くまで行って、向こう岸を窺う。確かに弓を持った武者の姿が、ちらほらと見え隠れする。
「どのくらいの勢でしょう。」
門守の所に戻って来て、成泰が尋ねる。
「分からないから困っておる。」
門守の眉尻が下がっている。重たそうな上まぶたと相俟って、情けない表情に見える。
「こうやっていても分かりはしないでしょう。試しに何人か、沢に押し出してみれば。」
「直ぐに射掛けられるに決まっている。試しで味方に犠牲を出す訳にはいかない。」
「そうは言っても…。それじゃあ、どうするおつもりで。」
「…だから困っておる。」
話が進まない。どう言えば、門守に通じるだろうと思い悩んで成泰は黙る。
「私が様子を見て来ましょう。」
二人の傍に、一人の男が寄って来て声を掛ける。二十代の若者、頭抜けて背が高い。ぼさぼさの頭と黒々とした太い眉も印象的だが、何より、常人より一回り大きな黒い目が人目を引く。その両目で見据えられたら、動けなくなりそうな妖しさが漂っている。
「土蜘蛛か。だが、沢に隠れる場所は無いぞ。どうするつもりだ。」
門守が馬上から背の高い男に問い掛ける。男は、郷巻勢の中で土蜘蛛と呼ばれる興嶽直属の郎党だ。普段は興嶽の屋敷に居るが、必要とあれば、間者として一縄領にも潜入する。今回の興嶽の都行きには随伴せず、留守役の一人になっている。
「もっと上流に遡って、人気のない所で沢を渡ります。木の上から奴等の陣を覗いて来ましょう。少し時間はかかりますが、お待ちいただければ、探って参ります。」
「ああ、是非頼む。」
門守は、これ幸いと直ぐに承知する。先を急ぎたい鳴戸成泰は、不満気にしながらも黙っている。
「では。」
言うなり土蜘蛛は行動を起こす。ブナ林の下に広がる笹の上には、昨日の雪が積もっている。それをかき分けて、道無き斜面を上流へと登る。幼い頃から慣れ親しんだ東国の山の地形は心得ている。土蜘蛛は、人目の届かない上流まで登って沢を渡る。沢は上流で深い谷を成しているが、その分幅が狭い。沢にせり出したブナの枝から向こう岸へと、雪で滑らない様に注意しながら飛び降りる。今度は、一縄方の陣に向けて慎重に斜面を降りて行く。陣の近くまで気付かれずに辿り着くと、頃合いなブナの木によじ登る。葉がすっかり落ちたブナ林は、枝の隙間から、陣の様子が辛うじて見通せる。昨日降った白い雪のおかげで、その上の黒い人影がはっきり把握できる。
弓を手にした武者が等間隔に並んで、笹の陰から沢の向こうを窺っている。思ったよりも数は少ない。両手の指にも満たない数しか確認できない。その上、甲冑を付けてない。切り合いになれば、郷巻勢が有利だ。これなら沢を渡って突進すれば、多少の犠牲が出るが、一縄の奴等を蹴散らせる。
「忠隆!」
郷巻勢がいる方角の反対側、山頂に続く山道を、一騎の騎馬武者が駆け下りて来るのが見える。一縄正虎だ。一縄の屋敷に忍び込んだ時に、土蜘蛛は顔を覚えた。甲冑を着けず、片手に太刀を握り、もう一方の手で馬を操り駆けて来る。
「親方!」
忠隆が出迎える。正虎は、その傍で馬を止めた。
「どうだ?」
「郷巻の奴等、沢向こうまで来ちゃいる様だが、一向に攻める気配がねぇ。矢合わせになるとふんだんだが、藪に隠れてばかりだ。」
「ふん。やはり、援軍が出て来おったか。」
「砦の方は?」
「宇木正が落とした。」
「そんじゃ、俺もひと暴れ…」
「まあ、待て。わざわざ仕掛けるな。」
「…そうですかい。」
忠隆は、恨めしそうに沢の向こう側を見遣る。
複数の馬の音。雪を被った山道を踏み外さない様に注意しながら、一列になった騎馬武者が、正虎を追って山道を降りて来るのが見える。流石に正虎よりは支度ができている。背中に矢筒を背負い、弓を手にしている。
土蜘蛛はそこまで見ると、するすると木を降り、元来た道を戻った。
「沢に向けて弓を構えている武者は十人足らずです。」門守の前に戻ると、土蜘蛛は敵情について報告する。「後ろに控える者を含めても、百もいません。ただ…」
土蜘蛛の言葉を聞いて、鳴戸成泰は目を輝かせる。
「では一気に押し渡りましょう。」
「まあ、待たれよ。まだ、話の途中だ。」郷巻門守は気が逸る成泰を制すると、土蜘蛛に顔を向ける。「ただ、何だ?」
「はい。援軍が到着し始めています。恐らく、敵の本隊が迫っているかと。」
「ふん。」
門守の表情があからさまに曇る。
「それに、物見砦は落ちた由にございます。」
「なに!」成泰が土蜘蛛に向かって、身を乗り出す。「何故、そんな事が判る。」
「敵陣に一縄の棟梁が到着したところでした。」
郷巻の将兵にどよめきが起きる。
「棟梁が部下に対して、砦は落ちたと申すのを聞きました。」
「そ、それは、武者を鼓舞するための虚言かも知れないだろ。」
成泰は慌てて言い募る。
「確かに。」土蜘蛛は落ち着いて応える。「ですが、敵の棟梁は馬で山を下りて来ました。その後からも、騎馬武者がつながって山を下って来ています。それだけの馬が山頂側から山道を通って来るには、砦が無力になっていなければ無理でしょう。」
成泰はもう何も言わない。
「うーん…。」
門守は、そう言って考え込む。周囲の者は、門守の次の言葉を待っている。
「勢力はこちらが上だが、狭い正面で戦わなければならない。」門守は静かに話し始める。「多くの者は正面に出られずに、戦う者の後ろで遊兵と化すだけだ。勢の多寡が勝敗に活きない。ましてや地勢は、坂を下から上に攻めるこちらに不利。犠牲が多く出るだろう。そもそも、物見砦が落ちてしまったのであれば、何のために戦うのだ。ここで敵陣を破ったとしても、支えるべき味方は、最早その先に居ない。小さな物見砦に拘って、大軍を失う愚を犯すより、敵の挑発に乗らず、しっかりと郷巻の領土を守る事こそ肝要。」
郷巻門守は、言うだけ言ってしまうと、他の者の意見になど耳を貸さず、さっさと兵を返す。血気に逸る鳴戸成泰は、門守に食い下がるが、皆が山を下りて行くのを一人ではどうにも押し留められず、渋々引き上げていく。土蜘蛛は一人その場に残り、郷巻勢が撤退するのを見届けてから、笹藪に分け入って山頂を目指した。
山道は、一縄の武者が行き来しているに違いない。見つかれば捕まる。土蜘蛛は敢えて道の無い険しい斜面を選んで登って行く。窪地には昨日の雪が吹き溜まっているが、巧みにそれを避けて身軽に駆け登る。物見砦が見渡せるブナの木の上で様子を窺う。一縄に落とされたと聞いたから、火矢を射掛けられて黒焦げになっているかと思いきや、綺麗なままだ。もしや本当に虚言であったかと言う思いが頭を過ったが、どうもおかしい。物見の兵の姿は見えず、いつもは閉まっている門は両方とも開いている。
土蜘蛛は用心しながら、開いた門を通して砦の中が見通せる位置までブナ林の中を移動した。砦の中は踏み荒らされて雪が解け、ぐちゃぐちゃの一面泥の海だ。その中にいくつも死体が横たわっている。ここで戦いがあったのは間違いない。戦いが終わったばかりで、死体を片付ける余裕もないと言う事か。暫くすると、視界に数人の武者が現れる。
あの男、知っている。
他の者に比べ背は低く、突き出した腹、丸い顔。きっと食うものに困った事など無いのだろう。
笠階宇木正、いつかお前を殺してやる。
ブナの木陰から砦の中の武者を見つめて、土蜘蛛は奥歯を噛み締めた。