時代はまわる
オフシーズンのイベントの一つに、プロ野球選手がリトルリーグの一日コーチをする、というものがあった。
その日、リカオンズは、県内のリトルリーグのグラウンドに来ていて、わらわらと人気選手に群がる子供達の相手をしたり、サインをねだる子供に、練習の後で、と断ったり、いつもと違う体力の使い方をしていた。
漸く落ち着いてきた子供達に、さあ練習だ、と、それぞれのポジションを確認し、適当に選手を割り振った後、グラウンドのあちこちでコーチを始めた。
出口は、今やすっかり中堅となった高橋と組み、投手、捕手それぞれ二、三人の子供に付いて、基本フォームなどを見てやる。そうして暫くしてから、まず、捕手の子供に、高橋の球を受けさせた。
出口はその横で、おおまかなアドバイスをしたり、誉めてやったりしながら、その度ににこにこと満面の笑みで返事をする子供達を見て、何となく幸せな気分になってくる。
野球が、好きだなあと、改めて思った。
次に、投手の子供の球を、出口が受ける。皆、この年齢にしてはそこそこに球威もあり、それなりにコントロールも良かった。
そして、最後に順番の回ってきた子供の球が出口のミットに収まった瞬間、なんとも言えない違和感を感じ、思わず出口は、返球を忘れた。
違和感。
今、ここで、この球が受けられる筈がない。
球速はないが、ストライクゾーンにきれいに決めてくる制球力。だが予測したコースを辿らず、思わぬところでボールは沈んだ。
以前、こんな球を、自分は受けていた。ほんの、一シーズンだけの間だったけれど。忘れることなどできない、そして、二度と受けることのない筈の、あのストレート。
もちろん子供の投げる球だ、全く同じという訳ではないが、何故か、あの球を思い出させる雰囲気を持っていた。
ボールを返してこない出口を怪訝に思ったのだろう、高橋が声を掛けてくる。
「出口さーん、ボール!」
はっと意識を戻し、ごめんごめん、と、不安気に出口を見ている子供に、ボールを放った。
その後、二、三球、その子供の球を受けたが、やはりどうしても渡久地の球を思い出させた。
練習を終え、整列した子供達が、ありがとうございましたっ!、と元気な声を上げて、ぺこりと頭を一斉に下げる。お疲れさまでした、今からサインタイムだよ、と、コーチが言うと、待ってましたとばかりに歓声を上げ、サイン帳を取りにベンチに走り出した。
出口はその子供達の中から、あの子供を探し、声を掛けた。
「ちょっと、いいかな?」
出口に呼び止められたとわかると、その子供は途端に顔を輝かせ、
「はい! なんですか?」
と、嬉しそうに頬を紅潮させた。
「君は、誰にピッチングを教わったの?」
と尋ねると、
「お父さんです」
少しはにかみながら、でもはっきりと、誇らしげに答えた。更に、
「俺、渡久地東亜みたいなピッチャーになりたいんです!」
こんな子供が、知っている筈もないだろう選手の名前を挙げる。
出口は一瞬息を詰まらせ、なんとか絞り出すように、次の質問をした。
「…渡久地、を、知ってるの」
うん!、とその子は答え、言葉を続けた。
「お父さんが、試合のビデオを見せてくれました」
渡久地かっこよかったなー、とにっこりと笑い、
「お父さんが教えてくれたんだ。渡久地はね、」
リカオンズの優勝のためだけに投げたピッチャーなんだよ、って。
その台詞が耳に届いた瞬間、出口の五感の一部が、あの頃に戻った気がした。
「…、それ、お父さんが?」
ごくりと唾を飲み込みながら出口が訊くと、彼はうん、と首肯し、
「だから俺、渡久地みたいな、チームのために投げられるピッチャーになりたいんだ」
と、また満面の笑みを見せた。そして、
「出口さんって、あの時渡久地の球を受けてたでしょ? だから今日は、その出口さんに、俺の球を受けてもらえて、ほんとに嬉しかった!」
ありがとうございました!、と、帽子を取り、頭を下げた。
出口は、ああ、喜んでもらえたなら、俺も嬉しいよ、と、
「じゃあ、これからも頑張ってね」
なんとかそれだけを言い、柔らかい感触の頭をぐりぐりと撫でた。
喉に、大きなしこりがある気がする。
目の奥がなんだか熱い。
忘れたつもりでいた沢山のものが、腹の底から湧き上がってくる。
今はそこに無いのに、確かにそれは、存在する。
そして、きっと誰かに伝わっている。
人が生きる、ということは、こういうことなのかもしれない、と、泣き出しそうになっている自分を懸命に堪えながら、出口は思った。
モチーフ曲
中島みゆき『時代』