ピメコ
ピメコ
一章
私は何でこんなお屋敷に一人でいるのかしら。
キャサリンの生命力は赤々と燃えているのに。
アウタのお母さん、ピメコはいつもそう思っていたそうです、ええ、聞いた話ですが。
ナザリーは力なくそう答えた。
ピメコはマルウェイのお屋敷に住んでいました。
マルウェイというのは膨大が原にほど近い寂しい土地です。それも嵐が丘に似通っておりました。
嵐が丘です。え? キャサリンもご存知ない? 原作も映画も? それは失礼しました。嵐が丘に出てくるキャサリンは永遠の愛を誓って今も嵐が丘近くにいるそうです。
そこでピメコはヒギンズと会うのですが、それは初めからお話しした方がいいですね。
「荒野をめざせピメコよ」これはピメコの父の言いつけのようです。
それを真に受けてピメコは膨大が原に、馬の遠乗りにでも出かけるようによく行ったそうです。
膨大が原にはピンクと緑の沼地があり、それも嵐が丘に似通っております。
そこにヒギンズは原発事故の調査に訪れていました。ピメコを見かけたヒギンズは原発事故の証拠を掴んだといって「僕と君だけ逃げよう」と言ったそうです。
そこにはトンボリ原発という原発があったのです。なぜそんな名前かって? さあ、それは存じ上げません。
ともかく、愛を囁かれたことのないピメコはすっかりその男に夢中になってしまいました。
今となっては分かりませんが、ヒギンズはそれなりに金を持ってると思いピメコに近づいたのかも知れません。蜘蛛の巣にとられたのです。
早速、ピメコは屋敷に帰って家を出てもいいかと父に言ったそうです。
父は一言、「本当にいいのか?」と。
同じ男同士、もう見抜いていたこともあったのでしょう。だが、馬鹿なピメコは心を曲げませんでした。ピメコは恋に必要なのは精神の自由さだと思っていたのです。
ピメコとヒギンズは逃げました。屋敷からも膨大が原からも。
ヒギンズの非道については私は言うに事欠きません。アウタはピメコに何百回となく聞かされたと言ってましたから。全てアウタから聞いた話です。
二章
ピメコは毎日嘆いていました。「ご飯作らないじゃん」だの、ヒギンズはピメコにひどい仕打ちをしてから「懲らしめた」と言うのです、それに舌打ち。獣かそれ以下にするように。今から思えば、自分より利発な妻がうらめしかったのでしょう。
根が「いい子」であったピメコはその度に自分が悪いのだと、そうやって洗脳がされていくんですね。ヒギンズはそれはそれは粘着質な男でしたから。
その長い暮らしも終わりを告げました。
ピメコはよく、アウタに私はキャサリンになれなかった。「イザベラになってしまった」と言っていたようです。イザベラというのも嵐が丘に出てくる可哀想な役柄の女です。
要約すると悪い男につかまって逃げて子を残し家族とも縁を絶って若くして死ぬ、そんな役柄です。その通りになったのです。
その頃、ピメコとヒギンズはマルウェイのお屋敷とは似ても似つかない貧しいサクラメントに住んでいたのですが、・・その時のことを思うと、今でもアウタは蛇に咬まれたようにブルブルと青くなって震えていました。
これはアウタから聞いた話ですが、ピメコがヒギンズと別れ、ヒギンズは追ってはこなかったそうです、ブリュワーズに逃げてからアウタを産み、トマト鍋をつついていた時のことです。
ピメコはおもむろに口を開き、ヒギンズの罪状を並べ立て始めたといいます。それまではただアウタはお父さんと別れたお母さんとでも思っていたそうです。
ヒギンズは借金をしていた事を隠していたのです。聖書で罪とは借金のことですから敬虔なピメコはそれが許せなかったのです。アウタの目からは嘘だらけだと分かっていたのですがお嬢さま育ちのピメコは自分の愚かしい夢に浸っていられたのです。
それからは毒を二言目と言わず毎日毎日、ヒギンズへの呪詛をアウタは聞かされたそうです。ある時は激し、ある時は嘆き、洗脳もそんなようにできるものですね。笑ってしまうくらい毒づいて。
日一日と秋の日が落ちていくようにピメコの命は短くなっていきました。騙されたことがないと強弁していたピメコはナチュラルキラー細胞がやられて生きる気力もなくしてしまったのでしょう。
楽しかったことが鱗のように花びらのようにアウタの心からも散ったようです。
「夜の闇になりたい」
甘い風をたくさん味わって死にたい、とピメコは言ったようですが、それは叶いませんでした。
ほどなくしてアウタの横でピメコは息を引き取ります。
そこで言った最期の言葉、それが今でもアウタの心を縛り付けているのです。
「いつか人のことも運のことも気にしなくなって本当の恋ができるかしら」これまでなくしていた優しい笑みを浮かべ、そっとアウタの手を取ります。
「アウタあなたはもう立派な大人よ。生まれ変わってお母さんと恋に落ちてね」
何と残酷なことでしょう。トマトの木が二本、空はむやみやたらと晴れわたっておりました。
そうして息を引き取ったピメコは安らかな寝顔をしておりました。
三章
アウタはとても大きな目を持った少年でした、虫が入りそうなくらい。
その頃、アウタはピメコが亡くなってからブリュワーズの施設に預けられていましたが、そこで私と出会いましたんですよ。古い板敷きの学校でした。
私の家はそれなりに裕福で、山もいくつか持っておりました。その炭鉱にアウタが施設の義務労働で訪れたのです。天の川みたいな雲が広がっておりました。
古い板敷きの駅に向かうその朝の、私の母の言葉を今でも覚えております。母はこう言いました。
「いつもパセリ買うんだけど、取らない内に終わっちゃう」
アウタは蛇の夢をよく見ると言っていました。それはそれが最も怖いからだと。
その前にアウタと私の出会いですね。炭鉱部で来たアウタは、・・その人は私に馴れ馴れしく話しかけてきたんです。きっと私がソバージュにしていたためですわ。その内に私もかわいそうになって・・。
ええ、ピメコもソバージュにしていたそうです。私はボンネットで隠しておりましたが。
黄昏が当たった木々が燃えているようでした。キリンのような枝が山の肌で揺れていました。
私はアウタに「鳥や虫たちに愛される人」と言われたことがあるんですよ。そう言うとナザリーは頬を赤くした。夕焼けに赤くなる心のように。
私はアウタにお母さんの呪縛から覚めてもらいたかったのです。そんなものどこにもいないのに・・。
私とアウタが出会った時には薄れた葉にうっすら露がおりていました。そんな夏だったのです。思いは秋のようでしたが。
落ち葉もいつか風に紛れ、霜が降りたらあなたに会いに行くから・・。私とアウタとは約束しました。何度も何度も。
ええ、この床も冷たいですわね。アウタを思うといつも身を切られる気持ちがします。
その日も床は凍り付くように冷たく、秋の切れるような空気が身を刺すのでした。窓を開けたアウタはこう叫びました。
「お母さん、もう私を解放してくれ! この不幸な運命から!」
煙色の四角い夜でした。
アウタはお母さんの声が、「ゆりかごみたいに優しいんだ」と言っておりました。私とピメコとの間で心は揺れ動いていたのでしょう。
アウタは私と別れるためにやったのかも知れませんわ。
刑事はアウタの行動を話し過ぎない程度に話した。
「なぜそんな所に一人で」ナザリーはそこで絶句した。
何か食べた方がいいわ、げっそりとしちゃって。と私が言ったばかりだったのに。
「僕が死ななかったらおかげかい」とアウタは言っていましたけど。
私とアウタでマルウェイの古いお屋敷を訪ねたことがあります。そこに、恐らくピメコの父が書いたのでしょう、「荒野をめざせ若者よ」とかけてありました。
ピンクと緑の沼地にはアウタが「蛇石」と言うような飛び石が通っておりました。沢の音が聞こえていました。
どんな時だって礼儀を忘れないのがアウタです。そんなことはしないはずですわ。
ともかく読んでみてほしい、と男暮らしの刑事はずいとアウタの書いた手紙をナザリーの前に置いた。
「愚かな天の邪鬼さいっつもこうなんだ頬から睫が開いているよカーテンが少しだけ開いているよ僕は体を冷やさないように動いてる泣いているよナザリーウッナザリー君だけは狂っちゃいないお願い分かってこれから最後に言うことを君は僕だけのための君なんだからねナザリー早く助けに来て! 君がどこにいようとも誰も分かってくれないけどイカロスの羽根で飛ぶよ分かれないよって分かったこと」
ナザリーがパタンと便せんを閉じた時にサッシの遠くの風に耳が鳴いた。




