戸惑いの秋
沢渡の里にも秋がやってきた。
子供達が秋祭りの為に練習する、笛と太鼓の調子いいお囃子が遠くに聞こえる。
小太郎も幼い頃、この時季には仙太郎と共に練習に通った。
仙太郎は、時々ふざけて笛で調子っぱずれな音を出して、太鼓に変えられた…。
小太郎は、渋々太鼓を叩いていた仙太郎の顔を思い出し、思わず一人微笑む。
夏、颯太と地獄滝に行った日から、小太郎の脳裏には、まるで扉が開くのを待っていたかの様な仙太郎の笑顔の思い出が次々溢れ出て来ていた。
その度に胸の暖かいものが顔をほころばせ、その度に颯太の笑顔が思い出された。
その日、小太郎は頭目の善吉に呼び出されていた。
任務の話しの時はいつもそうだ。それ自体珍しい事ではない。
珍しいのは、善吉本人が小太郎を呼びに来た事だ。いつもなら、善吉の孫・清吉の役目だった。
一瞬妙な感覚を覚えながらも、そんな事もあるかと半ば強引に納得し、言われた時間に訪ねて行った。
傾きかけた夕陽が、間もなく空を赤く染め始める時刻、大所帯の善吉の家には珍しく、気味が悪いくらいに静まり返っている。
その土間に片膝をついて頭を垂れた。
「小太郎…、参りました」
「おぅ! 上がれ」
座敷の奥で文机に向かったままの善吉が、顔だけを向ける。
歳の割に老けて見えるのは、ほとんど白くなった頭髪と深く刻み込まれた皺のせいか…………、小太郎は、知っていた。
それが、精神の限界まで神経を擦り減らせ、肉体に鞭打って苛酷な状況を何度も乗り越えてきた男、その証である事を。
「皆、祭りの櫓組みに行かせたんだ…。
静か過ぎて落ち着かねえなぁ」
座敷中央にあぐらをかいた小太郎は、机に視線を落とすその声色に微かな違和感を感じた。
(人払いしたのか…、ひょっとして…)
善吉がそこまでして、二人きりで話す必要のある事には覚えがある、いずれ来るとは思っていた…。
(覚悟は出来てる)
善吉が向き直り、柔和な表情を見せるが、小太郎はそこに微かな無理を見て取った。
「お前……、外に通じたもんが居るのか?」
穏やかな口調だが、小太郎の読み通りの問いが飛んで来た。
凛とした眼差しで善吉の目を見据え、はい、とだけ答える。
途端に、善吉の瞳が厳しさを帯びた。
「信用出来るのか?」
真偽を見極める様に覗き込んでくるその瞳にも、怯む訳にはいかない…、試されているのは小太郎自身だ。
「命を預けています」
瞳を輝かせ、きっぱり言い切った小太郎に、善吉は意外にも心からの笑みを浮かべた。
「ほぉ…、見つけ出したか」
「はい…、唯一無二、小天狗を獲らせます」
小太郎は颯太を想い口元を緩めた。
「ふぅん、そうか……、いいだろう…」
善吉の顔に一瞬寂しさがよぎった様に感じたが、小太郎の注意は、次の話しに集中した。
「話しと言うのはこれからだ……、一つ頼まれて欲しい、これだ」
文机の引き出しから、一通の手紙が出された。
「これを取り急ぎ俺の旧い友人に届けて貰いたい……、最重要機密だ。
賊の手に渡ってもいかん。
今から支度して夜明け前に出ろ。
お前にしか頼めん……。いいな」
「はっ! 承知」
ただならない様子の善吉に、小太郎も身を引き締め拳をついて頭を下げた。
しかし次の瞬間には、善吉は再び柔和な表情に戻って言った。
「すまんな…、祭りだってのに…。その分、余計に銭持たしてやる…。美味いもんでも食って来い」
「どうぞお気遣いありません様」
善吉の家を出た小太郎は、ふっと安堵の溜息をついた。
颯太を認めさせた…、沢渡の小天狗小太郎を獲る者として。
大きな肩の荷が下りた様な気がした。
世間に名が知れる…、それは、最期に及ぶまでの重責を伴う。
小太郎の様に流派の名を背負って名を馳せる者は殊更だった。
不様な死に方は、流派の名折れになるのだ。
しかし、内心、善吉ならわかってくれる気もしていた。
沢渡の頭目たる者だ、その勘の鋭さが人並み外れたものである事は小太郎も知っている。
颯太に会ってからの小太郎の微妙な変化などを敏感に察知し、会わずして颯太の人となりを見抜いたのだろう…。
(凄い人だ…)
小太郎は、改めて感服していた。
その頃善吉は、一人うなだれ、声を押し殺し人知れず涙を落としていた。
翌未明、小太郎は、まだ暗いうちに村を後にした。
行商人に扮したその後ろ姿を、善吉は陰ながら涙に濡れて見送っていた。
「すまねえ…、小太郎…、すまねえ…」
しばらく行くと、視界の隅で、色付き始めた森の中を影が走った。
影は木陰から木陰へ、途切れ途切れ走る。
小太郎が、ふっ、と微笑む。
「ここまででいいよ…、兄者…、見送りありがとう」
「ふむ、そうか…、祭りでお前と飲むのを楽しみにしておった。残念だ」
木陰の男が、溜息をついた。
「帰ったら一緒に飲もう。俺の分も祭り、楽しんでくれ。姉様にはくれぐれも腹の子に障らぬ様…」
「承知した。気を付けて行け」
「ああ、行って来る」
小太郎はほんの少し歩を緩め、背中の木箱を背負い直しながら言うと、真っ直ぐ前を見て再び歩き始めた。
手紙を届けるだけの任務に、多少気を楽にする小太郎だった。が、小太郎が、義兄と酒を酌み交わす日は来ず、次に帰った時、村は変わり果てた姿になっているのだった。
ようやく空がうっすら明るさを呈した頃、黄色味を帯びた神社の銀杏の木の下で、小太郎は天狗の絵馬を柵に結び付けていた。
そこには、漢字で二文字、喜多、とだけ書いた。
後でそれを見た颯太が、北を目指して追って来る筈だ。
と、背後に気配を感じた。
「ふぅん…、北に行くのか…」
漂う酒の臭いとふらつくその足元に、小太郎はカッとなった。
「今まで飲んでたのか……、俺はもう行く。ついて来るな」
身を翻す小太郎の腕を、颯太が、がっちり掴んだ。
「何だよ…、俺に来て欲しいからこんな事してんだろ」
人差し指が絵馬を弾く。
「それとも何か…? 俺は飲んじゃいけねえのか…、ん? 小太郎よ」
小太郎の肩を銀杏の幹に押し付け、顔を突き合わせる。
「もう夜明けだぞ…、前にも言った筈だ…」
小太郎は、睨む様に颯太を見つめた。
「酒は飲むもんだ、飲まれるな…だろ? よおく覚えてるぜ。
だがな…、俺にだって、飲んで紛らわしてえ想いがあるのさ…、誰かに抱かれてえ寂しい夜があるんだ…………。
わかるか? 小太郎…」
颯太がふいに額を付き合わせ、酒臭い熱い吐息が小太郎の唇を撫でた。
鼻先が、微かに触れ合う。
小太郎の鼓動が早まり、呼応するかの様に、颯太の息遣いも僅かに荒くなる。
短くて長い瞬間が、そこにあった。
溢れる程の切なさをたたえた颯太の瞳がゆっくり瞼に覆われ、その唇はまだ何か言いたげに言葉を残して固く噛み締められた。
「そ、颯太…?」
颯太が小太郎の肩から手を離し、身体を斜にして道を開ける。
「すまなかった…、行けよ……。
俺は酔い醒ましてから追いかける……。後でな」
戸惑う小太郎の背中を押した。
数歩行って、後ろ髪を引かれる思いに小太郎がふと振り向く。
銀杏に背もたれして腕組する颯太の、愛しげに見つめてくる真っ直ぐな瞳があった。
(あんな目をして俺の背中を見てるのか…)
小太郎の胸の中心が疼く……、込み上げる切なさに目頭が熱くなり唇が震える…。
とっさに踵を反し、足早にその場を去った。
小太郎にとっても、颯太はかけがえの無い特別で大切な存在になっている。
しかし小太郎は、それとは別の、身体を火照らせ胸を締め付ける程の熱く沸き上がる想いが、心に渦巻く事を未だ認められずにいた。
女装をしても小太郎は男、そして颯太もまた男なのだ。
常識と言う厚い壁が、もがく魂の前に立ち塞がり、その想いから目を背けさせていた。
鳥居をくぐり小太郎の背中が遠ざかる。
既に見えなくなった後もその背中を想い、颯太はただ見つめていた。
やがて両手で頭を抱えて力無くしゃがみ込む。
(何て馬鹿な事を……。
小太郎は明らかに戸惑っていた困っていた……。
小太郎が好きだ、愛おしくてたまらない……。
応えなどいらない筈なのに…、叶わない届かない想いを抱いたまま小太郎に逢うのが辛くなっている…。
しかし…、逢えなくなるのはもっと辛いのに……)
間柄がぎくしゃくし、小太郎に避けられる事が、今の颯太には一番恐く感じられていた。
高く晴れ渡る秋空とは裏腹に、小太郎の心は暗い雲に包まれている。
丸い石ころの河原に降りて、澄んだ川の流れに両手を差し込み、顔を洗った。
秋とは言え、こんな晴れた日中に歩き続ければ汗が噴き出る。
冷たい水が肌をさっぱりさせ、気分を爽やかに変えてくれた。しかし、それはほんのつかの間の事だった。
ここまでの道程を振り返る。
以前は気にもならなかった…、一人旅がこれ程寂しくつまらないものだとは。足が重く時が長い……。
颯太との旅は、それが例え暗い任務であっても、多くの会話がなくても、どこか楽しい、充実感と安心感のあるものだった。
脳裏に、朝の颯太の様子が思い浮かぶ。
来ないかも知れない…、それどころか、もう逢えない気さえする。
がさつでいい加減に見えて、その心は意外に繊細だ。
それ故、傷つくと自棄になって何をしでかすか分からないから恐い……。
それでも、根は正直で優しく情が深い…、いい奴だ。
急ぎなら馬を使わせてくれたらよかったのに……、それなら朝の颯太との一件はなかった。
などと善吉への恨み言を呟きながら、キラキラと陽の光りを反す、川面を眺めた。
出会って以来、共に酒を飲んだ事は何度もあったが、颯太が一人で飲んで来たのは初めての事だった。
考え始めると、颯太の事が気になって仕方ない。
(出来る事なら、今すぐにでも引き返して逢ってじっくり話しをしたい)
が、小太郎はそこでハッとする。
(話しをしてどうする…、己の気持ちにすら真っ直ぐ向き合えない者が、颯太の想いを聞いて何が出来る……。そんな事なら、いっそもうこのまま逢わずに…)
その時、川のせせらぎに混じって、時期を遅れた蝉の声が聞こえた。
それはまるで、過ぎ去った夏を呼び戻そうとでもするかの様に、高い秋空に力強く、けれど虚しく響き渡る。
(遅かったな…、可哀相に…。お前も独りぼっちか……、寂しいな)
小太郎は、涙を堪える様に空を仰いだ。次の瞬間。
「はあぁ! 気合い入ってんなぁ…、あの蝉…。
もう仲間もいねえだろうに、精一杯鳴いてやがる…、うるせーくらいだなぁ」
背後で焦がれ待ち侘びた声がして、颯太が雑草を掻き分け斜面を降りて来た。
見慣れた、いつものニヤつく笑顔を見せる。
「悪りい、遅くなっちまった……。
酒、ちょっとでも残すと小太郎恐えからな…。
今度は誘うから…、そう怒るなって、なっ?」
いつもの様に、小太郎の肩に手を回す。
小太郎も、いつもの様に、その手を振り払った。
「待っててやったんだ…、有り難く思え」
「はいはい、おありがとおございます」
互いを一瞥しあってから、光る川面に微笑んだ。
「小太郎…、寂しくて泣きそうだったろ」
(これでいい)
「ふっ…。静けさを楽しんでたんだ…」
(これがいいんだ)
二人の内心泣きたい気持ちと穏やかさを取り戻した心は、まさに同じものだった。
又、二人の旅が始まる。




