哀愁の夏
昼尚暗い鈍色の雲の下、梅雨の名残を惜しむ様な激しい雨に打たれ、颯太が肩を上下させて息をきらせる。
足は腰の辺りまで泥にまみれ、顔には敵の返り血を浴び、右手の太刀に纏わり付いた血糊を雨が洗い流す。
その俯き加減の顔にも、髪から伝う雨が流れ、顎から滴り落ちる。
颯太は時折、金の必要に迫られ、足軽として近隣諸国の小競り合いに参戦しているのだ。
颯太の腕前はこの方面では既に知れ渡っており、戦となれば必ず誘いが入る。常雇いの武士に取り立てると言う話しも、常になっていた。
しかし颯太はそれらを尽く蹴っていた。
欲しいのは食う為の金だけだ。
恩も地位も主君も必要無い。
颯太がついて行きたいのは、小太郎、ただ一人なのだ。
ある程度の金を稼いだら、それが尽きるまで小太郎と行動を共に出来る。
何の恨みも係わり合いすら無い者を斬り捨てる…。
その過酷さに立ち向かえるのは、後のその楽しみを想えばこそだった。
今回の戦は思ったより長引いている。
小太郎に初めて会ったのは去年の今頃…、いい女だった。
小太郎が恋しい…、あの綺麗な顔が見たい…、胸が締め付けられる様に痛んだ。
知り会って一年…、しかし、会えずにいるこの十日間の方がずっと長く感じる。
思わず鼻で笑った。
(俺はどうにかしちまってる…。まるで惚れた女想ってるみてえじゃねえか…………。
構うか! 俺は小太郎が好きだ、惚れてる…、あいつに逢いてえ。
このクソみてえな命でも繋げて帰りてえと思えるのは、あいつに逢いてえが為だけだ…………。
いい加減に、この戦……、終わらせてやる!)
颯太は鋭い目つきで遥か前方の敵陣を睨みつけた。
ゆっくり足を踏み出す。
太刀を両手で握りしめ、泥を跳ね散らして足を早めて行く。
その瞳にはもはや他の物は映っていない。視界に入って来る敵は全て一刀の下に切り捨てる…………、が、それは際限無く続くかの様に思え、目的の場所にはまだ程遠い。
降り懸かる返り血と激しい雨が競う様に顔を濡らし、颯太の流す熱い涙も儚く消されていく。
(まだまだ……)
「ぉらあぁぁぁぁ!!」
颯太は、込み上げるやる瀬ない思いを腹の底から精一杯吐き出して、泥にめりこむ足を更に早め、増えていく敵の中へ真っ直ぐ突き進んで行った。
辺りが一瞬青白い閃光に浮かび、地も振るう程の雷鳴が轟く。視界を歪める激しさの増す大粒の雨に、ふと思った。
(この雨が止んだら…………夏だ)
「あぢぃよぉ」
颯太が山の斜面に仰向けに寝転んだ。
木陰のひんやりした土や草が、はだけた背中の熱を吸い取る。手足を一杯に伸ばしてから、快感の深い溜息をついた。
「何だよ…、暑さで参ったか? 水、有るぞ…」
颯太はさっきから言葉少なげな小太郎が気になっていた。
湧き水の入った竹筒を差し出すが、首を横に振るだけだ。
「あっ! 月のもんか?」
いつもならすかさず声を荒げてきそうなところだが、今日の小太郎は、ふっと鼻で笑うだけだった。
颯太はいよいよおかしいと感じ、体を起こして、そのやや俯き加減の顔を覗き込んだ。
「小太郎…、どうした?」
二重の澄んだ綺麗な目が颯太を一瞥し、唇が、すまねえ…、と小さく動いた。
「待て!」
立ち去ろうとするその肩を強く押さえ込み、再び腰を下ろさせる。
「言え! 何があった……、言うまで帰さねえぞ」
「別に…、何も無い」
むきになる颯太とは対照的に、小太郎は淡々としている。
しかし、やがて力無く伏せていくその目に、颯太は多くは聞かず、それでも大事な何かは聞き出す覚悟を決めていた。
颯太の中には以前から案じている事があったのだ。
一人自由気ままな自分とは違い、小太郎は沢渡流と言う組織の一員だ。
外で頻繁に自分と会い、任務にまで同行させている…、そんな事が村に知れたら……。
いや、知られたのか…、もう、こうやって会う事は出来ないと告げに来たのか…。
颯太の胸に言い知れぬ不安が広がった。
(嫌だ…! 小太郎に逢えないなんて)
胸一杯になった不安が込み上げ、目頭を熱くした。その時。
「今日…、地蔵盆だろ」
小太郎の重い口がようやく開いた。
「地蔵…盆?」
颯太は、突然湧いて出たその言葉に一瞬頭が白くなった。
そして、ああ、と、ここまでの道すがらに見た、真新しい前掛けと供え物に囲まれた辻の地蔵を脳裏に浮かべ、漂う線香の香りを甦らせた。
「お袋が泣くんだ……、地蔵さんの前で……、仙太郎の名前書いた提灯つけて…、泣くんだ…。俺のせいだ…、俺が…………、死なせた」
十の声色を持つと言われる小太郎、その今の声は、鳴咽混じりにただ震えるものだった。
両手で抱えた膝に顔を押し付けて涙を隠し、肩を小さく震わせる。
初めて見る小太郎のその姿に、颯太は、弟を亡くした時のままの、微かに幼さの残る少年を見た。
止まっている…、いや、自ら止めている………。
小太郎の心の一部は、仙太郎と共に冷たい滝壺の底で、今も時を止めたままになっている。
颯太は悲しみともどかしさ……、そして惨めな程の哀れみを感じ、次の瞬間には頭にカッと血が昇るのを覚え、無意識に小太郎の腕を掴んだ。
「立て…! 俺を連れてけ! その地獄滝とか言う厄介な代物んとこ…、案内しろ!」
「ほぉ…、なるほどな」
颯太は崖っぷちに立って、暗い碧と白い水しぶきの滝壺を見下ろしていた。
崖の岩肌に反響して沸き上がってくる様な轟音の中、その呟きは後ろの小太郎には聞こえていない。
奥深い森に包まれ、滝の水しぶきに冷やされた空気は、さっきまでの暑さを嘘の様に感じさせる。
風に舞い上がるしぶきが、颯太の顔に水滴を滴らせた。
一旦は躊躇した小太郎だったが、体格と腕力では優る颯太が、ぐいぐい村に向けて腕を引っ張り、さすがにそれはまずいと渋々ここまで案内して来たのだ。
小太郎は滝壺を見る事が出来ずに、少し離れて颯太の逞しい背中を見ていた。
ふと振り向くその顔には、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。おもむろに着物を脱ぎ捨て、ふんどし一枚になると、今度は真剣な眼差しを向けた。
「見てろ」
その声は滝の轟音に飲み込まれて聞き取れない。と、次の瞬間、颯太は何の躊躇い(ためらい)もなく、真っ直ぐ伸ばした腕の先から落ちていった。
(えっ? 颯太…? 颯太…、今、何した? どこ行った…)
呆然と座り込んだ小太郎は、訳のわからないまま四つん這いで崖の下を覗き込んだ。
何も変わらない…、仙太郎が消えた五年前と、何も変わらない……。
頭の中心が音と水しぶきを拒絶して消し、脳裏に不気味な静けさをたたえる滝壺をあらわにした。
(颯太も…………、消え…た?)
小太郎は傍にあった颯太の着物をわし掴みにして、再び下を覗き込んだ。
(確かに居た…、今までここに居たのに…、颯太……)
軽い眩暈を覚え、深い滝壺が意識を飲み込もうと両手を広げているかの様に感じる。
呼吸するのも忘れた。
(いっそ、俺も…)
手元から転げ落ちる石ころを目で追った。その時。
颯太がプハァッと跳び出す様に浮かび上がり、水面に顔を出した。
両手で濡れた髪を撫で上げ、満面の笑みで手を振る。
小太郎は肩と胸ごとでようやく呼吸出来た。
颯太は腕の筋肉を隆々とさせ、力強く崖をよじ登って来た。手をついて座り込んだままの小太郎に額を突き合わせてニッと笑う。
「いなかったぜ」
「えっ?」
唖然とする小太郎の横に立ち上がり、滝壺を見下ろした。
「仙太郎…、もういなかったぜ…。成仏してあの世に逝ったんだ…。
お前もいい加減に上がって来い」
振り向く颯太の微笑みは、果てしなく大らかで暖かい。
小太郎の中で、思い切り張り詰めていた何かがはち切れ、涙がとめどなく溢れ出した。
それは、五年間溜めに溜めた悲しみと後悔と自責の念……、矛先の無い怒り…、その全ての結晶だった。
颯太は静かに頷いた。
「確かに地獄滝って名は伊達じゃねえ…。
俺でさえ一瞬諦めかけた。恐ろしい化けもんだ…。
だがな、小太郎…、仙太郎はそれを越えようとしたんだろ…。わずか十ニのガキが地獄滝越えようとした……、見上げた根性だ。
必死にお前追ってたんだよ…、仙太郎は…。
さすが小太郎の弟なんだよ…」
小太郎はハッとした。
その死と言う結果ばかりを見て、仙太郎の成し遂げ様とした、最後まで挑み続けた想いになど目を向けた事がなかったのだ。
颯太の言葉…、『さすが小太郎の弟』、仙太郎が聞いたらどんなに喜んだろうか…、いや、きっと聞いていた。伝わった……。
『兄者みたいになりたいんだ』
小太郎はようやく仙太郎の笑顔と笑い声を思い出せた。
「一つ言っとくぞ。お前…、泣いても怒っても綺麗だけど、落ち込んだ顔はどうも頂けねえ…、二度と俺にしけた面見せんな。もし見せたら……」
着物に袖を通して、颯太の動きが止まる。
「ん?」
「抱いちゃうぞ」
ニヤつく笑顔で言い残し、着物のすそをまくって逃げる様に走り出した。
「おらぁ! 待てぇ…、今すぐ勝負しろ!」
小太郎はその背中に笑顔で怒鳴り付けた。
「ったく…、無茶が過ぎるぞ」
颯太は少し先で腕組みして待っていた。
「小太郎よ…、俺は向こう見ずに命捨てたりはしねえ…。
だがな、これと思ったもんには命懸けで無茶してえ性なのさ」
「ふぅん…、酔狂な」
小太郎は何気ない風に颯太の前を通り過ぎる。
その顔は、背を向けてからほころんだ。
「ほっとけ」
颯太は小太郎が通り過ぎるのを待ち、いつもの様にその背中の後に続いて行った。
颯太が追って来る…、小太郎が前を行く…、二人の心は穏やかさで満たされていた。
しかし、二人に残された時間は、あまりに短いものだった。




