再びの眼差し
小太郎は目の前で三杯目の蕎麦をすすっている男を無言で見ていた。
「ばあちゃん、お代わり」
どんぶりを両手で持って豪快な音と共に最後の一滴まで汁を飲み干し、へへっ、と人懐っこい笑顔を見せた。
小太郎は右頬だけで苦笑いする。
山道を下る途中、小太郎に追い付いた颯太は、昼飯を奢らせろとしつこく食い下がった。
小太郎は、飯が済んだらついて来るなと約束させて、渋々麓の蕎麦屋に入ったのだった。
四杯目の蕎麦を平らげた颯太が更に老婆を呼び付ける。
「なぁ、ばあちゃん…。握り飯って無いの?」
老婆が含み笑いして答える。
「兄さん可愛いから、特別に作ったげようね」
その、皺に埋もれた目線は小太郎に向けられていた。
微笑んで会釈を返す小太郎に、老婆は微かに頬を染めた。
その様子に、颯太は眉をひそめ口をポカンと開け、驚き呆れた様子で、老婆が奥に消えるまで、その姿を目で追った。
そして小太郎を見つめる。
小太郎は敢えて視線を逸らしていた。
「俺…、颯太…。日向颯太……。あんたは?」
その穏やかな声色には、ほんの僅かだが怯えがあった。
小太郎が目を向けると今度は颯太が目を逸らす。
小太郎は迷っていた。
その時々で七ツの顔と名前を使い分ける小太郎だ。
今のなりで言えば、小間物問屋若狭屋の三男坊・隆三郎なのだ。
しかし……、目の前の男、颯太は余りに真っ直ぐだった。
自らも真っ直ぐ応えてみたい……。そんな衝動に駆られていた。が、『沢渡の小天狗』、その異名がそれを邪魔する。
沢渡の小天狗小太郎を獲ったとなれば、一躍時の人になれる。
名乗った途端に刃を向けられた事も一度や二度ではない。
(この男はどうだろう……)
疑心暗鬼にしか人を見られなくなっている小太郎にとって、颯太の素直さは眩しく感じられ、偽る事を躊躇わせた。
「俺は…、俺の名は……、天城…小太郎…」
「小太郎さんか…、歳は? 俺は十七」
答えの遅い小太郎に不安を感じていたのだろう、颯太はホッとした様な笑みを浮かべた。
ホッとしたのは颯太だけではなかった。
「俺はもうじき十九になる」
小太郎の声が明るく響く。
(ひょっとして……、沢渡の小天狗を知らない?)
ふとそんな考えさえが頭をよぎった。その時。
「沢渡の小天狗……、小太郎…、小太郎さんか?」
うつむき加減で呟く様な颯太の言葉に、小太郎は頭から血の気が引くのを感じ、同時に手を脇差しにかけた。
次の瞬間、颯太がガバっと顔を上げる。
「あの沢渡の小天狗小太郎だ…、風より速く走り雲より高く飛び水よりしなやかに泳ぐ、七ツの顔と十の声色を使い分け、変幻自在・神出鬼没……、沢渡の小天狗小太郎…」
輝く凛々しい目が無言の小太郎を真っ直ぐ見据える。
「いつか…、いつか獲りたいと思ってた」
言葉とは裏腹に、その瞳に殺気は無い。あるのは尊敬・羨望・そして…………、とてつもない対抗心…。
小太郎は脇差しから手を離した。
邪気の無い、ありったけの想いを向けてくる眼差し…、以前に知る、それと似た眼差しが脳裏をかすめる。
三つ年下のたった一人の弟・仙太郎…、いつも小太郎の後を追っていた。
小太郎は十五の時、村では異例とも言える早さで大人達と共に初めての任務に就いた。
「見込みがある」
「筋がいい」
何度かの任務をそつなくこなした小太郎は、それらの褒め言葉にいい気になってしまった。
少し前まで共に訓練に励んでいた仙太郎が、急に子供じみて見えたのだ。
その日の午後、訓練を終えた仙太郎が背中に声をかけてきた。
「兄者ぁ…、今夜、稽古つけて貰えないかぁ?」
「今夜は駄目だ」
小太郎は目もくれずに素っ気なく言った。
大人達が遊郭に連れて行ってくれると言うのだ。
大人として認められた…、いつまでも仙太郎のお守りはしていられない…、意識的に距離を置きたかった。
「そうか……、駄目か…」
仙太郎の沈んだ声色に小太郎は苛ついた。
いつも理由も聞かずにすんなり引き下がる仙太郎の素直さをもどかしく思っていたのだ。
深夜になり、ほろ酔いで村へ戻った小太郎を待っていたのは、信じ難い報せだった。
仙太郎が地獄滝に落ちた……。
地獄滝とは、裏山の奥深いところにあり、凄まじい落差と水量を誇る。
落ちた者は、その勢いに深い滝壺の奥底まで押し込められ、決して浮かび上がる事は出来ないと言われる、文字通り地獄の様な滝なのだ。
「まさか…」
薄笑いを浮かべた小太郎だったが次の瞬間、泣き伏す母とその背中に被さる様にして鳴咽を漏らす姉の姿を見つけ呆然と立ち尽くした。
「仙太郎!」
突然取り乱して駆け出した小太郎を大人達が押さえた。
「小太郎! しっかりしろ! 行ったって仙太郎は上がっちゃこねえ」
「可哀相だが、どうしようもねえんだ」
「嘘だ! 何で…、何で落ちたって決め付ける!」
傍に居た男の胸倉を掴んで唇を震わせる。
「見回りのもんが仙太郎の悲鳴を聞いた…。駆け付けてこれを見つけたらしい」
脇に居た頭の善吉が差し出した手には、黒い長手ぬぐいあった。
「あっ…」
小太郎はそれを手に取り顔を埋め、膝から落ちて泣き崩れた。
『兄者みたいになりたいんだ…。お守りにこれ貰うよ』
小太郎が頭巾にしていたのを、半ば盗む様に持って行っていつも首に巻いていた物だった。
翌朝、地獄滝の対岸の木に垂れ下がる仙太郎の鉤縄が発見された。
滝を越え様として誤ったのだろう…、怖かったろう、苦しかったろう…。
自分が付いていれば、そんな危険な事はさせなかった……。
仙太郎は今も生きていた…、笑っていた。
小太郎は己を呪った。
思い上がって大切な弟を死に追いやった愚かな兄・小太郎。
生きるに値しない、自分が死ねばよかった。
寂しがり屋の仙太郎が暗い滝壺の底で泣いている夢ばかり見た。
変装して全くの別人になっている間は、幾分気が紛れる。
しかし皮肉な事に、その想いが変装の腕を上げさせ、名が知れ渡る度に顔と名前が増えていった。
次第に己自身の影が薄くなり、今ではどれが本当の自分なのかさえ危うくなっていた。
そんな中での颯太との出会いだった。
小太郎に追い付き追い越す…。その意欲に満ちた力強い眼差しは、心の奥深くにしまい込んだ、懐かしく愛しい者を呼び覚ます。
小太郎は、知れ渡る名と引き換える様に失くしていった何かを颯太の中に見つけた。
それは、紅く激しくどこまでも燃えあがる可能性を秘めた蒼い静かな炎を想わせる。
ただひたすらに燃え尽きる時を夢見、ただひたむきに燃え続ける。
かつて小太郎の中にも、そんな炎があった。あの日、仙太郎の死を境に消えていった…。いや…、消したつもりでいた。
心の中の炎。
しかし今気付かされた。
心の奥まで覗き込む様な颯太の瞳は、小太郎が目をそむけ続けたものを否応なしに突き付けてきた。
それは消えてなどいない…、種火の様にほんの小さくだが、心の中でこの日を待って密かに燃え続けていた仄暗い炎。
ただひたすらに、ただひたむきに、真っ直ぐ追って来る純粋な目に、再び逢う日を待っていた。
そして、その目を向けて来るのが目の前の男…………、颯太だった。
小太郎は込み上げる熱い何かに確信した。
(仙太郎と同じ輝きの瞳を持つこの男…、この男の手に掛かるのなら…………、本望だ)
小太郎は一人穏やかに微笑んだ後、わざとらしく鼻で笑った。
「獲れるもんなら獲ってみろ」
「ああ…、あんたを獲るのは、この俺だ」
颯太は張りのある声でそう言うと、老婆が持って来たにぎり飯にかぶりついた。
やがて覗き込んでくる様なその瞳を、今度は小太郎も真っ直ぐ見つめかえした。
颯太が口元に手を当て声をひそめる。
「すまねえが…、あんた…、金、持ってるか? 俺の金…、あいつらに取られたみてえだ」
小太郎は呆れて、思わず目をとじ薄笑った。
「姉さん…、お勘定」
「姉さん?」
颯太は、一瞬片目をつぶって見せる小太郎を、目を丸くして見ていた。
いそいそと出て来た老婆は、いつの間にか紅をさしていた。
「握り飯のお代は結構ですよ」
微笑みを向ける老婆の頬に軽く指先で触れ、小太郎も微笑みを返す。
「よくお似合いですよ」
老婆は皺だらけの顔を更に皺くちゃにして、嬉しそうに笑った。
「やだ…、兄さんったら…、お代頂けないじゃない」
颯太はただ唖然としていた。
小太郎と颯太は、結局ただ飯をご馳走になったのだった。
表へ出た途端、二人は顔を見合わせ吹き出して笑った。
屈託の無い颯太の笑顔に、小太郎はふと思った。
(こんなに笑ったのは…、誰かと顔を見合わせて笑ったのは…、いったいいつの事だったろう…)
こうして二人の奇妙な関係は幕を上げた。




