導きの冬
「いいか…、この村は閉鎖的で、よそ者を嫌う……。絶対表に出るな」
志乃は、小太郎に何度もきつく言った。
身も心も衰弱しきった小太郎だったが、数日の内には、その立ち居振る舞い等から、志乃とこの村の秘密に気付いた。
(志乃は女忍…、とすれば、この村は忍びの里。
見付かれば志乃もろとも殺される…。
俺は出て行かねば…、志乃の為にも…)
その夜遅く、小太郎は志乃を向かいに座らせ、出て行く事を告げ礼を述べた。
しばらく黙って俯いていた志乃がようやく顔を上げ、小太郎を睨む様に見て言った。
「ざけんな! てめぇそんな弱った身体引きずってったって、その辺で野垂れ死ぬのが落ちだぞ…。
救われて有り難てえと思うなら、きっちり身体治してから出て行きやがれ…。ふざけやがって…」
「お前は優しいな」
小太郎が穏やかな笑みを浮かべ愛しげな眼差しを向けると、志乃は突然涙ぐみ顔を背けてしまった。
「ここは忍びの里、お前は女忍……。見付かれば二人共殺される」
呟く様な小太郎の言葉に、志乃が顔色を変え、懐刀を抜いた。
「お前……、何者…」
「雪山に迷い込んで行き倒れた小間物問屋の三男…、若狭隆三郎」
突き付けられた刃に怯む事なく、平然と答えた小太郎の見え透いた嘘に、志乃はプッと小さく吹き出して笑った。
「女だと思ってなめやがって…」
志乃は、そうは言いながらも、この男の素性を追及しようとは思わなかった。
出会ってからたった数日で、この男の涙をどれだけ見ただろう…、眠りに就いてさえ、まだ尚泣いていた。
その心がよほどに傷付き疲れ果てているであろう事は、想像にたやすい。
志乃には、心の痛みに涙出来る者が、悪い者である筈がない様に思えた。
隆三郎と名乗るのならば隆三郎でいいのだ。
懐刀を収めた志乃は、ふと寂しげな表情を見せた。
「もうしばらくだけ…、居てくれないか?」
十六になったばかりの志乃は、数年前に父親を亡くし、共に暮らした母親も半年前に亡くしていた。
村中に嫁いだ五つ上の姉は、男の身なりをする妹を恥じ近寄らない。
志乃も孤独だったのだ。
その孤独を紛らわせる為に、時折裏山をぶらついていた。
そんな中、小太郎を見つけたのだった。
雪にも負けない程の白い肌、薄い紫になった唇…、そして涙の痕…。雪と共に解けてしまうのではないかと思える程に、儚げで美しかった。
やつれ痩せ細ったその身体は、女の志乃でも家まで負ぶって帰れた。
母が死んでから、部屋で独り言ばかりだった志乃は、応える者のいる喜び温もり安心感と張り合い…。
忘れかけていたそれらを噛み締める様に味わい、二度と失くしたくないと感じていた。
「しかし……」
小太郎は迷い悩んだ。
確かに志乃の言った通り、行く宛ても金も無いまま癒えきらない身体で冬空の下、出て行ってどうする。
もう死ぬつもりは無い…、だからこそ迷い悩んだ。
しかし、志乃にこれ以上の迷惑はかけられない。
と、その時、俯き考え込んだ小太郎の両腕を、志乃がひしとすがる様に掴んだ。
「お願い…、行かないで…。
春まで…、せめて雪が無くなるまで一緒に居て…」
小太郎が初めて聞いた、志乃の女らしい言葉だった。
「お前…、何故男のなりをする?」
その問い掛けは、小太郎が尋ねたいと思いながらも尋ねられず、志乃がいつか尋ねられると思いながらも触れなかった事だった。
ゆっくり俯いた志乃が力無く語り始める。
志乃には姉・和栄との間に、二つ上の兄が居た。しかしその兄は、七つの時に肺を患い亡くなった。
『たった一人の男の子だったのに……!』
うずくまり嘆き悲しむ母の、幾度ものその叫びは、五つの志乃の耳には違って聞こえていた…。
(女の子は二人もいらないのに……)と。
それ以来志乃は、村の男達を真似、ついて回り、母の為に男になろうとした。
それは既に、幼いながらもの志乃の女の意地だったかも知れない。
母も姉も、志乃を批難したが父は違った。
不用意な母の言葉に幼心を傷付けた志乃を、暖かい眼差しで見つめて言ったのだ。
「お前は心根の優しい女の子だ」
志乃は父に抱き着き、声を押し殺して泣いた。
兄を慕い、兄者兄者と懐いていた志乃が、その死後初めて見せた涙だった。
志乃・十歳…、任務中の父が敵の手に落ち、帰らぬ人となる僅か三日前の事だった。
そして志乃は女に戻るきっかけを失くした。
話し終えた志乃が小刻みに肩を震わせ、膝に置いた手の甲に涙を落とす。
小太郎は、志乃の姿に以前の自分を見た。
弟・仙太郎を亡くし、代わりに自分が死ねばよかったと、己の生を恨んだ日々…、生きる悦び楽しみ…、それらをまるで罪の様に感じた辛い日々……、颯太に出会うまでそれが癒される事はなかった。
颯太は命懸けで小太郎の心を救い出してくれたのだ。
そして今、颯太を感じさせ、小太郎に再び生きる気力を与えた目の前の志乃が、両親を亡くして尚その苦しみの中に居る。
志乃の悲しい程の純情が手に取る様に感じられ、小太郎の胸が締め付けられる様に痛んだ。
次の瞬間、小太郎は思わず志乃を抱きしめていた…、女としての志乃を、きつく抱きしめた。
「健気で優しい……、いい女だ…」
髪を撫でる小太郎の囁きに、腕の中で震えていた志乃は、その胸に顔を埋め鳴咽を漏らして泣き始めた。
志乃も又、男の身なりをしながらも、女として認めてくれる誰かを求めていたのだ。
いつだったか颯太が言った……、神様仏様と言うのは、えらく気まぐれな方々だ。
女装を得意とした小太郎と男の身なりをした志乃…、そしてその二人を引き付けたのは、小太郎への一途な想いを抱いたまま旅立った颯太なのだ。
気まぐれに操られた人生の皮肉か…。
やがて二人の唇は自然と重なり、小太郎に優しく抱かれた志乃は、心底から女の悦びを初めて知った。
小太郎も志乃も、見つかるその日まで、短くとも命の限り共にあろうと、互いの真っ直ぐな瞳に願い誓い合ったのだ。
腕組みして目を閉じて聞いていた孫七が、心まで覗き込む様な険しい目を、一呼吸小太郎に向けてから口を開いた。
「お前…、沢渡の…、名を何と申す」
「はい…、天城小太郎と申します」
「沢渡の…、小太郎……!」
孫七の目が驚きに見開く。
「あ…あの小太郎か…! 沢渡の小天狗…小太郎! 闇に紛れ人に紛れ、七つの顔と十の声を持ち、目にも留まらぬ太刀捌きで風と共に消えていく…、変幻自在、神出鬼没……、あの小天狗小太郎か…」
小太郎は静かに俯いた。
「はい…、名ばかりが尾鰭を付けて独り歩き……、その実このていたらく……、お恥ずかしい限りにございます」
「沢渡の小天狗小太郎……、何故今になって素性を明かす?」
孫七が身を乗り出したと同時に、小太郎はガバッと手をつき平伏し、訴える様に言った。
「どうか御頭様…! 志乃だけはお見逃し願いとうございます…。
わたくしは如何様にでもなさって頂いて結構です…。
しかし、志乃だけは…、志乃だけは何卒……、あれはただただ優しいだけの純粋な女子でございます。
わたくしを匿う事で自分がどうなるかさえ考えてなかった。
わたくしの素性を御頭様にだけお話する事で、志乃の無実を信じて頂けないかと考えました…。
何卒志乃だけは…………、志乃の腹には……、わたくしの子がおります」
「何! 志乃は…、お前の子を身篭っておると…」
孫七の驚きに充ちた声色に、小太郎は地に額をこすりつけて涙声で言った。
「何卒お許し願います!
全て失ったわたくしに再び与えられた家族でございます…。
この命に代えて…、どうか…、志乃は…、志乃と腹の子だけは…、何卒お見逃し願います!」
平伏したままの小太郎の肩が震える。
孫七は短く唸って考え込んだ。
志乃の父親は孫七の弟分だった。
志乃の事は生まれた時から見ているのだ、人となりはよく知っている。
小太郎の言う通り、表も裏も無い心に素直なだけの女だ。
そしてこの小太郎……、噂に聞いた沢渡の謎の消滅と、その主君・秋山兵庫の突然の病死……、つじつまは合う。
何より、固い決意を漲らせ輝く瞳に見えたのは、真実以外の何物でもない……、乞うているのは自らの命ではなく、志乃と腹の子の命なのだ。
そして面識は無いが、沢渡の頭目が、いや、全員が自らの命と引き換えに遺していった男、沢渡の小天狗小太郎……。沢渡の宝であり、誇りであり、象徴であり…、その全てなのだろう。
孫七は我が身に置き換え、思いを巡らせた。
残念ながら今の草月には、小太郎に匹敵する者が見当たらない…………。
微かに羨む気持ちをよぎらせながら孫七は意を決した。
断つ訳にはいかないのだろう。
忍びが忍びの里に流れ着き、二つの流派の血を併せ持つ子が産まれようとしている。
今、己の胸一つに委ねられた、何かとてつもなく大きなものの意図を感じていた。
「小太郎…、いや隆三郎……、お前と志乃は裏山の炭焼き小屋に監視を付けて住まわせる。
そして産まれた子は、志乃の姉、和栄夫婦に育てさせる。
よいか、お前達どちらか一人でも我等を裏切る様な事があれば、真っ先に子を殺す……。肝に銘じておけ」
「あ…、御頭様……、何と……」
孫七の寛大さに、感涙にむせぶ小太郎は言葉を失い、ただ泣き伏した。
「沢渡の小天狗との異名をとった程の男の子……、どんな珠になるか、儂も見てみたくなったわ…」
孫七は自分自信に納得した様に何度も頷き、土間に降り立つと、小太郎の肩に手を置いた。
「辛かったな…」
その眼差しは、哀れみに充ちながらも敬意の念を込めた厳かなものだった。
小太郎は、ようやく沢渡の皆の想いが報われた気がしていた。
沢渡の血はこの草月の里で息づいていく……、命を繋いでいく…。
それは、沢渡や小太郎の名を知る者が無くなった後も、ずっと永遠に繋がり続けるだろう。
小太郎は、全身の血が悦びに騒ぐのを鳥肌が立つ程に感じていた。




