別れの森
追っ手は無い……。
深まる秋、ちらちらと風に落ち葉舞い散る深夜の森で、小太郎は足を緩めた。
背後の颯太の息が荒い。と、その右膝がガクッと地に落ちた。
「颯太! どうした。
傷を負ったのか…、どこだ!」
小太郎が、その身体をまさぐり見えない傷を探す。
「すまねぇ小太郎…、足が痺れて…」
立ち上がろうとする颯太だったが、脂汗に濡れそぼつその身体は、太刀を杖にしてかろうじて起きている状態だった。
ハッと何かを思い出した小太郎の見開いた目が、颯太の虚ろになった目を覗き込む。
「毒…か…」
颯太が穏やかで寂しげな笑みを見せる。
「ふっ…、くそが吹き矢に毒仕込んでやがった…」
「どこだ! 颯太…、どこだ!」
半泣きの小太郎が、颯太の袖を引き破り、紫に腫れ上がる傷口に唇を宛てがい吸い付く。
「止めろ!」
小太郎を押しどけた颯太は、反動でドサッと仰向けに倒れた。
「小太郎…、もういいんだ。
それより顔…、見せてくれよ。
何か…、目が霞んで…、よく見えねえんだ。来てくれよ…、見えねえ…、見えねえよ…。
小太郎…、小太郎…? どこだ? 小太郎?」
力無い手が宙をかきわけて泳ぐ。
「颯太!」
鳴咽に息の乱れる小太郎が、倒れたままの颯太の手を取り自らの頬に押し当てた。
「何だよ…、泣いてんのか……」
空を見つめる颯太の震える指が、小太郎の涙をたどる。
「くそ…、最後にお前の綺麗な顔…、見てえなぁ」
「颯太…、俺を殺れ。
お前、死ぬ前に俺を獲るって言ったろ……」
小太郎が慌てて太刀を握らせようとするが、颯太の冷たい手は、既に閉じる力を失っていた。
「て…てめぇこの野郎…、どこまで俺を…虚仮に…しやがる……。
お情けで…お前獲って……成仏できるか……。
お前は…生き…ろ…、いいか…、小太郎……、命を……繋げ…」
「駄目だ! 颯太、俺を置いてくな! 颯太! 俺を……」
膝に抱き起こすと、焦点の定まらない颯太の目が微かに微笑み、一筋の涙を流した。
「小太郎……、俺……、お前が……好き…だ……」
「知ってるよ颯太! ずっと前からわかってた……、俺もお前が…」
その瞬間、颯太の瞼が閉じられ、首が力無く垂れる。
「えっ? 颯太? 颯太…、颯太…? 颯太! 颯太ぁ!」
小太郎は泣きうろたえながら、すがり付く様に颯太の身体を抱きしめ、揺り動かした。
「ふざけんな! 颯太!
てめぇ、人おちょくんのも大概にしろ! 目ぇ開けろ! 今すぐ勝負しろ!
颯太! …承知しねえぞ! ……逝くな! 颯太、颯太…颯太ぁぁぁぁぁ!!」
応える者を失った小太郎の叫びは、闇に包まれた森の木々にこだまして虚しく消える。
「颯太…」
小太郎は、もう決して開く事の無い颯太の唇に、涙ながらの長い口付けを交わし、汗でまだ額に纏わり付くその髪を愛おしげに撫で上げた。
「俺も…、お前が好きだ…、颯太……、お前が…………、大好きだ…」
涙が視界を奪い、鳴咽が言葉を奪う。
ありったけの想いを込めた颯太の瞳が、小太郎を見つめる事はもう無い…。
優しさの滲み出る乱暴な言葉も…、気を軽くしてくれるいい加減な口調も、もう聞く事は無い。
肩を抱くニヤつく笑みも、屈託の無い笑い声も……、全て消えた…、永遠に…。
小太郎は、颯太をただ抱きしめた……、小さく身体を揺らしながら……、頬と頬を擦り合わせ…、ただ抱きしめていた。
その身体が冷たく強張っても…………、ただただ…、抱きしめていた。
夏祭りで買って来たのだろうか…、赤い天狗の面を持って、友人達を追い回す少年がいる。
八歳のこの少年の名は、子安犀蔵。
そして今、玄関先の縁台に腰掛け、この犀蔵の姿を、暖かい眼差しで追う一人の中年の男がいた。
一見ありふれた農村にしか見えないこの村は、草月流忍者の里であり、小柄ながら着物の上からも見て取れる程筋肉質な身体のその男は、頭目・須賀田孫七である。
孫七は、犀蔵の持つ天狗の面に、九年前のある男の面影を脳裏に浮かべていた。
九年前の春先、桜の枝にようやく蕾が付き始めた頃だった。
夜、孫七を訪ねて来た者があった。
「頭…、隆三郎が取り急ぎ頭に話したい事があると…」
「隆三郎が?」
隆三郎は、三日前、牢屋に入れた、地方の小間物問屋の三男を名乗る男だった。
冬の雪山で行き倒れていたところを、村の女忍・志乃が発見して連れ帰り、ふた月以上も匿っていた。
しかし、三日前、貧血で倒れた志乃を、姉・和栄が見舞い、その時、隆三郎の存在が明るみとなったのだった。
忍の里でよそ者を匿う事は、裏切り行為であり、処刑にも相当する。
即座に二人は引き離され、志乃には監視が付けられた。
土間に跪づき頭を下げた隆三郎は、青白い肌に無精髭をたくわえても、その顔立ちの良さが際だつ二十歳前後の青年だった。
瞳は強い意志を示すかの様に凛と輝き、その表情には、孫七の方が一瞬たじろいだ程の鬼気迫るものがある。
孫七は反対する手下を表で待たせ、二人きりで話しを聞く事にした。
「話しとは?」
口調は穏やかながらも厳しい目付きの孫七を、隆三郎がしかと見据える。
「はい…、実はわたくしには、志乃にも明かしていない素性がございます」
「素性?」
「はい…、かつてはわたくしも忍びの端くれにございました……。
お頭様は、沢渡流と言うのをお聞き及びではありませんか?」
「沢渡……、半年程前一夜にして謎の内に消滅したと言う、あの沢渡か!」
驚きを隠さない孫七に、隆三郎は淡々と答える。
「はい…、わたくしは、その唯一の残党にこざいます……。
沢渡は主君の裏切りに会い、自ら絶命を余儀なくされました…。
わたくしは沢渡の名の元に、主君をこの手に掛け仇をなした後、最愛の友も亡くし、生きる意味を見失い死に場所を探してさ迷っておりました」
「それで雪山に入ったか…」
「はい…」
小太郎はふらふらさ迷っていた。
帰る場所も、仲間も任務も無い…、生きる気力さえ失った。
民家の洗濯物を盗んで身に纏い、畑や果樹園から盗った物で飢えを満たし、寺社や廃屋の軒先で雨露を凌いだ。
何度自ら命を絶とうとしたか……、しかし、その度に脳裏で颯太が微笑んだ。
『生きろ小太郎……、命を繋げ…』
ふと笑顔になって振り返る……、が、やはり颯太はいない…。
灰色の空が舞い散らす、この冬初めての雪が、冷たい北風に吹き流されて行くだけだった。
(颯太…、まだ生きなきゃ駄目か? 背中が寒いんだ…、お前のいない背中が寒い…………。
颯太…、お前に逢いたい…)
汚れた身なりでぼろぼろに泣き濡れ、ふらふら歩く小太郎に、すれ違う人々は忌み嫌う目を向け遠巻きに足早く去って行く。
これが沢渡の小天狗小太郎、その人だとは誰も思わない……、いや、沢渡が消滅し小天狗小太郎も死んだ……、人々の記憶にもその名はもう無いのだろう。
沢渡の小天狗小太郎は、颯太が獲り、代わってその名を世に知らしめる筈だった……、それが小太郎の望む最期だった。
しかし、獲る者を失った小天狗は、もはや色褪せた魂の抜け殻と成り果てた。
吹雪が止んだ深夜、何かに憑かれた様に宛も無く歩く小太郎の目の前に山道が現れた。
その周囲の趣は、沢渡に続くそれを彷彿とさせる。
小太郎は懐かしむ様な笑みを浮かべて足を踏み入れた。
既に膝程までもある雪が、素足に草履履きの小太郎の足を痛い程に冷やし、身体の芯から熱を奪っていく。
しかし、色も音も全てを雪に覆い隠された真っ白な静寂は、小太郎の疲れ果てた心を穏やかにした。
薄雲から月灯りが漏れ、凍てついた雪の表面を煌めかせる。
それはまるで優しく囁きかける様に艶めき、小太郎を誘った。
『さあ、いらっしゃい……。もう充分…、私の中で眠りなさい……。
安らかに、心地良く…、ゆっくり……、殺してあげる』
歩みを止めた小太郎は、雪の真綿の中にうずくまり、丸め込んだ身体を預けた。
そっと目を閉じ流す涙は、冷え切った肌が痺れる程に熱いものだった。
『くそが! 何してやがる…、起きろ! 立て! 小太郎! 俺が追い続けたのは、そんなしょうもねえ男じゃねえぞ!』
(颯太……、もう勘弁しろ…………、お前の傍に行きたい…)
脳裏の颯太が呆れた様に笑った…、大らかに包み込む様な暖かい眼差しを向けて…………。
眠りに落ちる小太郎の顔にも僅かな笑みが浮かんだ。
温かい…、瞼に明るい陽射しを感じる…、小さく聞こえる鳥達のさえずり。
小太郎は胸一杯の息を吸い込んで、虚ろに目を開けた。が、直ぐにハッと目を見開き跳び起きた。
(ここはどこだ…、どうやってここへ…………、この女は誰だ!)
見知らぬ部屋の布団に、裸の女と抱き合う様に眠っていたらしい。
浅黒いが滑らかな肌のその女は、パチッと目を開け背を向けて起き上がると、ぼやきながら男物の着物に袖を通した。
「ぼけが! 死ぬんなら他でやれよな……。お陰でつまんねえもん拾っちまったじゃねえか……、くそが……」
「颯…太?」
聞き慣れた、耳に心地良い程の荒い口調に、小太郎の目が涙に潤む。
「あぁ? 俺は颯太じゃねえ…ぞ……、な…何…泣いて……」
小太郎は思わず振り向きざまの女を抱きしめていた。
一瞬身をすくめた女だったが、次の瞬間、その手は小太郎の涙に震える背中を優しく摩っていた。
小太郎はわかっていた。
(颯太じゃない…、これは颯太じゃない……)
それでも女をきつく抱きしめ、ひとしきり泣いた。
人と言葉を交わす事自体が久しかった…、生きていると言うにはあまりに無気力だった小太郎は、人々から目を背けられ無視され、己の存在すらが朧げになっていた。
しかし、その颯太に似た口調の女は、確かに小太郎の呼び掛けに応えた。
小太郎の存在を認めたのだった。
「あのさぁ…、何かよっぽどの事あったんだろうけど……、命、粗末にすんな。
わかんねえけど……、あんた綺麗な顔してんだしさ…、勿体ねえぜ」
小太郎の背中をぽんぽん叩いて、女がニヤッと笑う。
「俺は、志乃……、颯太じゃねえぞ。寝ぼけんな」
女は、呆然と立ちすくむ小太郎の腕からスルッと抜け出し、箪笥から着物を出した。
「あんたのは捨てた…、ひっでえ汚れてたから。
これ…、死んだ親父のだけど、ねえよりは増しだろうよ」
小太郎は胸に込み上げる熱い物に生命を実感した…、そして微かな喜びを伴う確信を得ていた。
(颯太だ…、颯太が志乃に巡り逢わせた)
志乃の言葉の端々に颯太の面影が浮かぶ…、気遣いと思いやりを隠す様な乱暴な物言いは、まさに颯太のそれだった。
(颯太は居た…、ちゃんと見ていてくれた)
小太郎には、堕ちて行く自分を見兼ねた颯太が、志乃の口を借りて目を覚まさせようとした…、そう思えてならなかった。
膝を落として泣き崩れるる小太郎に、志乃は何一つ尋ねようともせず、その拳に落ちる綺麗な涙をただ見守っていた。




