無償の想い
冷たい秋雨が止む時を忘れた様に、しとしと降り続く。
日もとっぷり暮れてしばらく経った頃、颯太はようやく涙の涸れ果てた様子の小太郎を、自らの定宿へと連れて帰った。
狭くて古い家屋だが、安くて飯が美味く、何より主の気のいい親父が颯太は気に入っている。
常連の颯太には大いに融通をきかせてくれるのだ。
普段は他人と雑魚寝の大部屋だが、今夜は事情が違う。無理を言って、個室を空けて貰った。
ここまで小太郎はただ反射的に足を運び、颯太に引きずられる様にして連れて来られた。
赤く泣き腫らした目は、虚に土壁を見つめ、時折ポロッと涙を流す。
「ほら、着替えろ」
颯太が放り投げた手ぬぐいと着物は、力無く座り込む小太郎の肩に当たり、ストンと落ちる。
しばらく哀れむ様な眼差しを向けた颯太が手ぬぐいを取り、まだ水滴の滴る小太郎の頭と身体を拭き始めた。
されるがままに着物を脱ぎ、背中を向け腕を上げ下げする小太郎に、颯太の目が涙で潤む。
(これが……、これが小天狗か! 変幻自在、神出鬼没、東西一と謳われた沢渡の小天狗小太郎か! 違うだろ…………、違うぞ、小太郎! 戻って来い! お前は沢渡の小天狗小太郎なんだぞ……、俺の運命の宿敵…、沢渡の小天狗小太郎なんだ。戻れ! 小太郎! 俺んとこに戻って来い!)
ハッと気が付くと、涙一杯の小太郎の瞳が颯太を見つめていた。
心の叫びは、無意識に小さく唇から漏れ出ていた。
そして、小太郎の心に強烈に響いていた。
「颯太……、ずっと傍に居てくれたんだな」
二人の目から堰を切った様に涙が溢れ出た。
「ああ…、お前獲るまで付き纏うって言ったろ」
小太郎が笑った……、ふっと小さくだが笑った。
「そうだったな」
「そうだ」
颯太にもようやく笑みが戻った。
ギシギシ階段をきしませて、颯太が親父に頼んで作らせたにぎり飯を運んで来た。
小太郎の腹が、グゥっと鳴る。
(そう言えば、今日は何も食ってない)
「ここの親父の飯は結構食えるぞ」
颯太に促され、にぎり飯を手に取り口に運んだ。
温かく程よい塩加減が、空っぽの胃と心に染み渡り、又涙を呼び起こす。
「こんな時でも美味いもんは美味いんだな」
込み上げる鳴咽に負けじと口を動かす。
その様子を、颯太は、ただ見守った。
(食え! 小太郎……、お前は生きてるんだ。生きる為に……、もっと食え)
翌朝、颯太はほんの微かな音に目を覚ました。
しばらく天井を見つめてから、荷物を持って出て行った小太郎を追う。
恐らく一睡もしていないだろう…、それは、颯太も同じ事だった。
小太郎は一人で行く気だ……、背後に大きな忍組織があると言う。俗に言う、負け戦なのだ。
(俺を虚仮にしやがって…)
白み始めた空の下、小太郎は神社の銀杏の木の下に居た。
雨は一晩降り続き、空気を綺麗に澄み渡らせた。
空にはまだ暗雲が立ち込めているが、それもやがて、向きの変わった乾いた風が押し流すだろう。
新しい一日が始まる。
三日前の朝、柵に結んだ天狗の絵馬は、雨に打たれて色褪せた。
(あの日に戻れるものならば…………)
小太郎の唇が悔しさに震え、瞳は涙で覆われ視界が歪む。
全ての矛盾には理由が有った。
小太郎は、祭に居てはいけなかったのだ。
しかし、馬では戻りが早すぎる。
颯太の言った通り、小太郎を祭から遠ざけ、事が済んでから読ませる為の手紙……、善吉、最後の謀だった。
懐から出した手紙を読み返す。
『御屋形様を討て』
最後のその一文は、大きく字が震えている。
涙の痕か、紙が数ヵ所よれていた。
善吉の震える背中が瞼に浮かぶ。
(殺ってやるさ……、言われずとも殺ってやる。
徳田だろうが相生だろうが…。例え何が来たって殺ってやる。
俺は、沢渡の小天狗小太郎…。
御屋形様に向けられた、最初で最後の刺客。命に代えても…………、獲る)
「いい目だ…。やっぱりお前はそうでねえとな…」
銀杏に肩をもたれかけ、薄笑いの颯太がいた。
「颯太…」
小太郎は振り向きざまに脇差しを抜いた。
「お前は来るな」
「ざけんな…、てめぇ今まで散々人を利用しといて今更何ぬかしやがる…、寝ぼけんのも大概にしろ」
「今までとは訳が違う」
「ぼけが! なんも変わんねえぞ小太郎。お前が行くなら俺も行く…、簡単な話しだ」
颯太は相変わらず腕組みしたまま薄笑う。
小太郎の瞳が殺気に充ちた妖しい光りを放った。
「刀を抜け…、今なら負ける気がしない」
颯太は不服そうに唇を尖らせ、肩で息をついた。
「俺は勝てる気がしねえ」
大らかで暖かい眼差しの瞳が微笑む。
「悪いな、颯太…」
背中を向け、脇差しを収めた小太郎の瞳が涙に潤んだ。その時。
背後で颯太が脇差しを抜き、振り向きざま小太郎の刃がそれを受ける。
冷たく光る刀身は、どちらも切っ先を鞘に残したまま半身でぶつかっていた。
「連れてけ」
「ならん」
間近に突き合わせ瞬きも無く睨み合う瞳は、手元の刃よりも鋭く輝き、どちらも一歩たりとも引くつもりの無い強い意思を漲らせる。
「又ここでお前を見送らせるのか…」
颯太の瞳に切なさが宿り、その手が緩んだ。
あの日、小太郎の背中を見つめていた颯太の目。
愛しげに溢れる程の想いをたたえた真っ直ぐな目…、それがまさしく今、小太郎の瞳の中心を貫いていた。
「颯太……」
その応えを求めないひたむきな眼差しに、応える事の出来ない頑なな胸が震える。
小太郎の目がゆっくり伏せられた。
脳裏に、あの日聞いた蝉の声が蘇る。
時期を遅れた独りぼっちの哀れな蝉。
小太郎は可哀相に寂しかろう、と考えた。
しかし、颯太は精一杯気合いの入った蝉だと感心した。
それこそが颯太の生き方なのだ。
与えられた命を精一杯、例え短くとも全力を込め、想いのままに鳴き叫ぶ。
誰にも……、止める事など出来ないのだろう。
想いを込めて差し出された命の前では、道理も常識も余りに無力だ。
「死ぬぞ」
小太郎が刃を収める。
「承知」
颯太が刃を収める。
「阿呆が」
小太郎が背を向けてから顔をほころばせる。
「何とでも言え」
颯太が苦笑いで後を追う。
雲がちぎれ、昇る朝陽が遥か彼方の稜線にうっすら虹を描き出す。
見つめられる安心感…、見つめる悦び……。
恐いものはなかった。
二人で一つを目指すのだから……。




