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NLP ーNecromancy Laid Programmingー  作者: 七里田発泡
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 その日はいつもより月が大きく見えた気がした。満月の夜だった。ガラス窓から差し込んでくる青白い月の光が、殺風景な部屋を明るく照らす。(おびただ)しい量の赤黒い血だまりの上には、光の筋が落ちている。


 血だまりの中心には、センセイが仰向けに横たわっていた。すぐ横には先ほど僕が投げ捨てた包丁が床の上で所在なさげに転がっていて、刃先には赤黒い血に混じって黄色いシミのようなものが付着していた。それは人間の脂肪だった。


 ぶぅーんと唸り始めた冷蔵庫の音で、ふと我に帰る。そうだ。センセイが本当に死んだかどうか確かめなくてはいけない。動かなくなったセンセイのもとに近づき、覗き込むようにじっと目を見る。死んだ魚のような生気のない目が天井の一点を見つめ続けている。目の前で手を左右に動かしてみてもまばたき1つすらしなかった。


 どうやら本当に死んでいるらしい。疑惑が確信に変わると、全身から急に力が抜けていった。張り詰めていた緊張の糸がここにきてプツッと切れてしまったのだ。人を殺したという実感がいまいち湧いてこないのも興奮よりも疲労が勝っているからに違いなかった。


 きっかけはほんの些細な思い付きだった。センセイを殺せば何かが変わるかもしれない。その考えが浮かんできた瞬間、僕の頭は男を殺す段取りを猛烈な勢いで組み立て始めていた。


 身体中に這い巡らされている血管が熱く煮え滾り、正常な思考は徐々にそぎ落とされていった。そして本能が命ずるまま僕はセンセイを殺した。後悔はなかった。達成感もなかった。いつもと変わらず、空っぽな人生をおくる空っぽな自分がその場に立ち尽くしているだけだった。


 気晴らしに外に出かけてみようかと考えたが、流石にこの恰好のまま外に出るわけにはいかないので、まずは全身に纏わりついている血の臭いを洗い流すことにした。シャワーを浴びるために居間を横切り、風呂場に向かう。薄暗い廊下には血の足跡がべっとりとこびりついた。


 ぼんやりした頭で血塗れの衣服を脱ぎ、裸になる。その時、ふと誰かの視線を感じた。誰かが僕を見ている。視線をあちらこちらに彷徨わせてみたものの特に異変は見当たらなかった。


 きっと感覚過敏になっているだけだろう。なんせたったいま人を殺したばかりなのだから。そう結論づけて、風呂場のドアに手をかけた瞬間、視界の端で捉えていた洗面台の鏡に何かが写り込んでいたような気がした。


 僕の視線は瞬時に洗面台の鏡へと吸い寄せられた。違和感の正体を突き詰めようとよく目を凝らす。月明かりに照らされて青白く光る鏡の中に誰かの影が浮かび上がってきた。


 鏡の向こう側にいる人物の視線が、僕に問いかける。


 殺したのか?と。


 僕はその問いに答えた。


 ちゃんと殺したよ。《《兄さん。》》


 ◆◆◆◆


 電車に乗って隣町の竹澤市まで行った。竹澤駅前の交差点は今日も大勢の人だかりで埋め尽くされている。信号が赤から青に変わり、鮮やかな色とりどりの傘を手にした人々が一斉に動き出す。


 大勢の人波が眩い街の明かりのなかに溶けて1人、また1人と消えていく。何だかひどく馬鹿馬鹿しいことが目の前で繰り広げられているような気持ちになってきて心がざわついた。


 疲れ切った表情でトボトボと歩くサラリーマンもギターケースを抱えたまま駅前のロータリーをうろつく金髪男も、親子連れも、若いカップルも、視界に入る全てのものが気に食わない。全部壊れてなくなってしまえばいいのに。


 逃げ去るようにして駅前から立ち去り、適当にブラついているといつの間にか街灯もまばらな暗い裏通りに足を踏み入れていた。僕はこの道を知っている。この道は祖母との思い出がたくさん詰まった公園に続いている道だ。今の今まですっかり忘れていた。鳥や虫が遠く離れたところから自分の古巣に戻ってくるように、人間にも動物の帰巣本能のようなものが備わっているのかもしれないなと僕は思った。


 市営住宅横にある小さな公園に辿り着いた。誰もいない真夜中の公園は海の底のような静けさに包まれていた。


 完璧な静謐の中で僕は自動販売機横の古びたベンチに腰を下ろし、目を閉じた。


 暗い闇のなかで肉を切り裂く音が聞こえた。分厚い脂肪の深奥にある太い血管を断ち切った時の、あの感覚が呼び起こされ、人を殺したという実感が今になって沸々と湧き上がってくるのを感じた。


 目を開いて、膝の上に置いている自分の右手を見つめた。握りしめた拳から血の匂いが漂ってくるような気がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 丁寧な文ですね。 期待させる冒頭ですね!
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