表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
娘が見た六文銭  作者: 秋山如雪
9/9

九. 甦る六文銭

 再び、奥州白石。寛永四年(1627年)5月7日。


 阿梅の長い回想が終わった。


 弟の大八守信は、終始静かに耳を傾けていたが、話が終わると、

「我らが父は、誠にお強い方だったのですな」

 大きく息を吐き、感嘆したように呟いていた。


「そうじゃ。強いだけではなく、優しい父上だったがのう」


「ありがとうございます、姉上」

「何の。そなたも、やがては片倉の殿にお仕えするであろう。それに……」

 阿梅は、片倉の夫のさらに上にいる主を思い出していた。


 伊達政宗。彼は阿梅を丁重に扱ってくれて、まるで実の娘のように接してくれた。戦が無くなった世の中で、政宗は政務に励み、仙台藩の基礎を築いていた。


 そんな政宗を、阿梅もまた「父」と思うほど慕っていた。


 阿梅には、

(恐らくは、父上のことじゃ。政宗公の性質を見抜いておったのやもしれぬ)

 そう思うほどに、政宗は、そもそも「真田を買っていた」部分が感じられた。


「お館様は、我ら真田のことをよく見て下さっておる。案ずるな。それまで達者でな」

「はい」

 こうして、阿梅と大八守信の会談は終わる。



 その後。寛永十七年(1640年)、28歳の時に、守信は仙台藩伊達家に召し抱えられ、真田四郎兵衛(しろうべえ)守信を称した。


 先の話のように、幕府から「逆臣の子を登用した」と詰問されるも、伊達家は「真田信尹の次男の子」と言い逃れをし、幕府側からお咎めはなかった。


 しかし、この事もあり、早々に真田姓を憚って、彼は片倉姓に改め、片倉久米之介(くめのすけ)守信と改名して、仙台藩士として扶持(ふち)360石を与えられたという。


 守信より8代後、幕末期に、子孫の真田幸歓(ゆきよし)が真田姓に復し、仙台真田家として現在も続いている。


 守信は、寛文十年(1670年)10月30日に死去し、享年59という。


 阿梅は長生きした。


 改名した夫の片倉重長を万治二年(1659年)に亡くし、二人の間に子は出来なかったが、重長の娘、喜佐きさ松前安広まつまえやすひろの子・三之助さんのすけを養子とし、彼を実の子のように養育。


 やがて、片倉景長(かげなが)として、彼が片倉家の家督を継ぐことになる。


 主であり、阿梅が父とも思い、慕っていた伊達政宗はそれより先の、寛永十三年(1636年)に70歳で亡くなっており、さらに時が下る。


 大坂夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文十二年(1672年)。『難波なにわ戦記』という軍記物が刊行された。


 その書物には「真田左衛門佐幸村」の文字が初めて入ったという。さらにそれが「講談」となって、広まる。


 世は、すでに江戸時代中期を迎え、庶民の間では、幕府に対する「不満」や「鬱屈」が溢れていた。


 そんな折に敢行されたこの書物は、瞬く間に広まり、世に「真田幸村」が周知され始める。


 すでに、74歳の老齢となっていた阿梅は、その書物に書かれた「六文銭」を見て、


(六文銭が甦りましたぞ、父上。真田()()か。わらわにとって、父はあくまでも信繁じゃが、面白いものよのう。父上。あなたは、これからもっと有名になるやもしれません)

 世の趨勢(すうせい)を見守りながら、慶安元年(1648年)に、阿梅自身が白石城下に、父の菩提を弔うために建てた月心院げっしんいんに詣でており、亡き父に報告していた。


 真田幸村の名は、元禄時代には、民衆の間で周知されて広まり、やがて幕府編纂の書物や、信州松代藩の真田家までが「幸村」の名を採用し始めた。


 阿梅は、その前の延宝九年(1682年)12月8日、84歳の長寿まで生き、天寿を全うしている。


 時が下り、江戸後期には「真田三代記」が刊行され、ここに初めて「真田十勇士」の原型が描かれる。


 さらに時が下り、明治時代末期から大正時代の初め頃。立川たつかわ文庫が刊行した書物にも「真田十勇士」が描かれ、真田幸村には「ヒーロー」としてのイメージが出来上がる。


 真田信繁から、幸村へ。


 「真田幸村」は伝説となったのだ。

ということで、私の「真田愛」が詰まった作品です。池波正太郎の「真田太平記」も全部読みました。ちなみに、阿梅のことは昔から知ってましたが、数奇な運命をたどった女性ということで、印象に残っていました。なお、阿梅が片倉重綱(重長)に嫁いだのには2つの説がり、一つは大坂の陣で、乱取り、つまり「略奪」されたというもので、重長の侍女として仕え、後に真田信繁の娘と判明して妻にしたというもの。もう一つはこの話で書いた、真田信繁が片倉重綱を「男」と見込んで、陣に送ったというもの。まあ、略奪よりは「夢」があると思い、採用しました。ただ、現実的には恐らく「略奪」の方が信憑性は高そうです。また、阿梅は1604年生まれという説もありますが、それだと大坂の陣の時に11、12歳になるので1599年説を取ってます。ちなみに、真田信繁には、阿梅、大助、守信以外にも多くの子供がいて、八女や九女は名前すら伝わっていません。あと、もう少し毛利勝永を描いても良かったかもしれません。隠れた「名将」として、勝永は当時の武将にも褒められています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ