九. 甦る六文銭
再び、奥州白石。寛永四年(1627年)5月7日。
阿梅の長い回想が終わった。
弟の大八守信は、終始静かに耳を傾けていたが、話が終わると、
「我らが父は、誠にお強い方だったのですな」
大きく息を吐き、感嘆したように呟いていた。
「そうじゃ。強いだけではなく、優しい父上だったがのう」
「ありがとうございます、姉上」
「何の。そなたも、やがては片倉の殿にお仕えするであろう。それに……」
阿梅は、片倉の夫のさらに上にいる主を思い出していた。
伊達政宗。彼は阿梅を丁重に扱ってくれて、まるで実の娘のように接してくれた。戦が無くなった世の中で、政宗は政務に励み、仙台藩の基礎を築いていた。
そんな政宗を、阿梅もまた「父」と思うほど慕っていた。
阿梅には、
(恐らくは、父上のことじゃ。政宗公の性質を見抜いておったのやもしれぬ)
そう思うほどに、政宗は、そもそも「真田を買っていた」部分が感じられた。
「お館様は、我ら真田のことをよく見て下さっておる。案ずるな。それまで達者でな」
「はい」
こうして、阿梅と大八守信の会談は終わる。
その後。寛永十七年(1640年)、28歳の時に、守信は仙台藩伊達家に召し抱えられ、真田四郎兵衛守信を称した。
先の話のように、幕府から「逆臣の子を登用した」と詰問されるも、伊達家は「真田信尹の次男の子」と言い逃れをし、幕府側からお咎めはなかった。
しかし、この事もあり、早々に真田姓を憚って、彼は片倉姓に改め、片倉久米之介守信と改名して、仙台藩士として扶持360石を与えられたという。
守信より8代後、幕末期に、子孫の真田幸歓が真田姓に復し、仙台真田家として現在も続いている。
守信は、寛文十年(1670年)10月30日に死去し、享年59という。
阿梅は長生きした。
改名した夫の片倉重長を万治二年(1659年)に亡くし、二人の間に子は出来なかったが、重長の娘、喜佐と松前安広の子・三之助を養子とし、彼を実の子のように養育。
やがて、片倉景長として、彼が片倉家の家督を継ぐことになる。
主であり、阿梅が父とも思い、慕っていた伊達政宗はそれより先の、寛永十三年(1636年)に70歳で亡くなっており、さらに時が下る。
大坂夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文十二年(1672年)。『難波戦記』という軍記物が刊行された。
その書物には「真田左衛門佐幸村」の文字が初めて入ったという。さらにそれが「講談」となって、広まる。
世は、すでに江戸時代中期を迎え、庶民の間では、幕府に対する「不満」や「鬱屈」が溢れていた。
そんな折に敢行されたこの書物は、瞬く間に広まり、世に「真田幸村」が周知され始める。
すでに、74歳の老齢となっていた阿梅は、その書物に書かれた「六文銭」を見て、
(六文銭が甦りましたぞ、父上。真田幸村か。わらわにとって、父はあくまでも信繁じゃが、面白いものよのう。父上。あなたは、これからもっと有名になるやもしれません)
世の趨勢を見守りながら、慶安元年(1648年)に、阿梅自身が白石城下に、父の菩提を弔うために建てた月心院に詣でており、亡き父に報告していた。
真田幸村の名は、元禄時代には、民衆の間で周知されて広まり、やがて幕府編纂の書物や、信州松代藩の真田家までが「幸村」の名を採用し始めた。
阿梅は、その前の延宝九年(1682年)12月8日、84歳の長寿まで生き、天寿を全うしている。
時が下り、江戸後期には「真田三代記」が刊行され、ここに初めて「真田十勇士」の原型が描かれる。
さらに時が下り、明治時代末期から大正時代の初め頃。立川文庫が刊行した書物にも「真田十勇士」が描かれ、真田幸村には「ヒーロー」としてのイメージが出来上がる。
真田信繁から、幸村へ。
「真田幸村」は伝説となったのだ。
ということで、私の「真田愛」が詰まった作品です。池波正太郎の「真田太平記」も全部読みました。ちなみに、阿梅のことは昔から知ってましたが、数奇な運命をたどった女性ということで、印象に残っていました。なお、阿梅が片倉重綱(重長)に嫁いだのには2つの説がり、一つは大坂の陣で、乱取り、つまり「略奪」されたというもので、重長の侍女として仕え、後に真田信繁の娘と判明して妻にしたというもの。もう一つはこの話で書いた、真田信繁が片倉重綱を「男」と見込んで、陣に送ったというもの。まあ、略奪よりは「夢」があると思い、採用しました。ただ、現実的には恐らく「略奪」の方が信憑性は高そうです。また、阿梅は1604年生まれという説もありますが、それだと大坂の陣の時に11、12歳になるので1599年説を取ってます。ちなみに、真田信繁には、阿梅、大助、守信以外にも多くの子供がいて、八女や九女は名前すら伝わっていません。あと、もう少し毛利勝永を描いても良かったかもしれません。隠れた「名将」として、勝永は当時の武将にも褒められています。