三. 翻る六文銭
結局、豊臣軍は、城外にいくつかの砦を築き、そこを中心に小競り合いを展開するも、衆寡敵せず、あっという間に敗北を重ね、城内に逃げ込んでいた。
(情けないのう)
気が強いと同時に、戦を知らない阿梅は、そんな味方勢に不甲斐なさを感じながらも、父のことも案じてはいた。
(父上は何をしておるのじゃ)
その真田信繁は、数日前から毎日のように、大坂城の南端に向かって行き、何やら慌ただしく動いていた。
だが、父は彼女には何も告げなかった。
城内には、挟間と呼ばれる四角や三角の小さな窓があり、元々、鉄砲や弓矢を放つ場所だが、ここから時折、城外の様子が見て取れた。
むしろ、銃弾や流れ矢が飛んでくることもあるため、義理の母でもある竹林院から、
「おやめなさい。危ないですよ」
と止められながらも、阿梅は時折、挟間から外の様子を眺めていた。
戦には出れない女子のもどかしさ、そして自分より若い14歳の弟の大助や、毛利勝家までもが戦っているのに、という気持ちが彼女の中にはあった。
12月2日。
敵の総大将、徳川家康が城外南側の茶臼山にまで進出してきた。そこは、もう大坂城とは目と鼻の先で、挟間から見ていた阿梅の目からでも、遠目でかすかにだが「葵」の旗が見えるほどだった。
12月3日。
大坂城外南端の「平野口」と呼ばれる辺りから少し先の辺りに、六文銭の赤い旗が翻った。赤地に白で丸い銭が6個描かれている。
それは、もちろん阿梅にとっては初めて見る「真田の戦」の合図でもあった。
この時、真田信繁は城外の地に、通称「真田丸」と呼ばれる砦を築き、5000の兵と共に入った。
真田の旗は「不惜身命」を意味し、三途の川の渡し銭とも言われる「六文銭」の旗印。これは「死ぬ覚悟」で戦うことを意味していた。同時に、鎧から兜、旗指物まで深紅の、明らかに目立つ軍装は、「赤備え」と呼ばれていた。
元々は、甲斐武田家の山県昌景が装備しており、後に徳川家の井伊直政も踏襲している。
(まるで赤い花みたい)
女子として、戦場に咲いた「真っ赤な花」にも見えていた阿梅。
そこで、彼女は、信じられない物を目撃することになる。
真田丸の前面には、加賀の前田家の兵士がいた。当主は、前田利常。加賀藩二代藩主で、前田利家の四男に当たる。これが1万2000もの兵を抱えていた。
さらに、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千が控えていた。
近くの八丁目口・谷町口には、井伊直政の子、井伊直孝の兵4000、松平忠直の兵1万、その他数千が布陣していた。
一方、豊臣軍の八丁目口・谷町口には木村重成、後藤又兵衛(基次)、長宗我部盛親など、兵1万2000以上が配置されていた。
だが、真田丸前面に限れば、5000対1万2000である。倍以上の兵数だ。
実は、家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、真田丸を攻撃しないよう指示していた。
真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、ここにも真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害し始めた。
「放てぇ!」
という合図と共に轟音が響いていた。
それも執拗だった。
細く、甲高い「ダーン」という銃声が、ひっきりなしに天地に轟き、その度に、前田の兵が倒れていた。射撃は正確だった。
12月4日。
前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため、この日、篠山の奪取をもくろんだ。
前田勢の先鋒部隊が夜陰に乗じて奇襲をかけようと、篠山に攻め上がったが、真田勢は真田丸に撤収しており、すでに笹山はもぬけの殻だった。
早朝、夜が明けてすぐに、阿梅はまたも挟間から見守っていた。
見ると、真田の兵士たちが、盛んに前田兵たちを「挑発」していた。さすがに遠くて何を言っているかまではわかなかったが、明らかに敵を「馬鹿にしている」ことはわかった。
前田勢はその挑発に乗り、真田丸に突撃を敢行していた。
「かかれ!」
前田家の組頭と思われる武将の合図が早朝の城外に響く。
ところが。
真田丸の前面には、空堀が作られており、そこに前田勢が一斉に乱入。
さらに、後方からは井伊直孝の軍勢も迫り、前田勢は、退くに退けない状況になる。
つまり、「格好の餌食」になっていた。
前田勢が城壁に十分近づいた所で、真田丸からは一斉に火縄銃による集中射撃が行われた。
「放てえ!」
その指揮、統率ぶりは鮮やかで、とても「牢人」が率いているとは思えない、一糸乱れぬ徹底した銃撃だった。
阿梅が見ていると、前田の兵士たちが、将棋倒しのようにバタバタと倒れていくのがわかった。前田兵は完全に真田一隊に翻弄されていた。
だが、戦はこれだけでは終わらなかった。
前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故が起こったが、その音を聞いた幕府軍は、内通していた南条元忠の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えていた。
真田丸からの銃撃で、前田だけでなく、井伊や松平まで損害を出す始末。
これらの惨状を知った家康は退却を命じた。しかし、竹束や鉄楯などの防備を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航。その間にも真田丸からはひっきりなしに銃撃が浴びせられて、死傷者が続出していた。
(すごい。徹底した銃撃。父上の兵がこんなに強いなんて)
阿梅の目には、初めて見る「六文銭」の赤い旗が、戦場を縦横無尽に駆け回り、暴れ回るようにも見えていた。
幕府軍は、15時を過ぎて、ようやく撤退を完了。
やがて、城内に戻って、家族と対面した、父、信繁の精悍な真紅の甲冑姿を見た阿梅は、
「すごいです、父上! 父上は誠にお強いのですね」
と、興奮気味に父に言葉をかけていたが、その信繁は、いつものように柔和な笑みを浮かべたまま、特徴的な鹿角がついた前立ての兜を脱ぎ、
「私が『弱い』などと誰が言った?」
と、阿梅を挑発するように明るい笑顔を見せていた。
そんな、明るい表情の父の態度に内心、嬉しくなり、阿梅は、
「誰も申しておりませんわ」
咄嗟に嘘をついていた。
(父上が「弱い」と思ったなどと口が裂けても言えません)
なんだかんだで、優しい父のことが大好きだった、阿梅は、内心では「弱い」と思っていたのだが、最後の最後まで口には出さなかった。
むしろ、「父が強い」ことをこの時、初めて知ったのだ。
だが。
12月10日。徳川方から、降伏を促す矢文が届けられ、さらに12月16日。
和睦交渉が決裂したことに、業を煮やした、徳川軍から、「雷」のような砲声が一斉に轟いた。
徳川家康が、わざわざ海外から取り寄せた、イギリス製のカルバリン砲やセーカー砲、オランダ製の半カノン砲と言われている。
さらに国内の国友製大砲も入れて、100門近くが火を噴いたと言われる。
それらが本丸北側の奥御殿に打ち込まれ、また、南方の天王寺口からは本丸南側の表御殿御対面所にも打ち込まれたという。
幸い、阿梅や信繁いた場所には、打ち込まれなかったものの、
(さすがにこれは、怖いです)
初めて聞く、大筒の音に、阿梅は生きた心地がせずに、父や母に抱き着いていた。
12月18日~20日にかけて、徳川方と豊臣方の間で和睦交渉が行われ、20日に合意。ようやく砲声は止まった。こうして「大坂冬の陣」は終結する。
そして、運命は、阿梅をさらなる悲劇へと導いていく。