ぼくと先輩の間接お汁粉
「私にキスをしなさい」
ぼくの先輩は往々にして説明不足のことがある。
「先輩。頭を打ったんですか」
ぼくが説明を求めると先輩は応じてくれた。
「明日、保健の授業なのよ。実技なのよ」
「生命保険加入書類への模範的記入例を示せ、とかですか」
「高等学校の教育課程に保険の授業はないのよ。保健よ。保健体育よ。そして実技とは応急手当に当たる胸部圧迫と人工呼吸のことよ」
「それが開口一番の言葉とどう繋がるんですか」
「結論を急ぐものではないわ。落ち着いてお聞きなさい。人工呼吸というのは健常者に施すべきものではないの。だから人形を使って練習をするの。一つのグループにつき一体の人形で。大問題よ」
「どこに問題があるんですか」
「人工呼吸なのよ。そして人形は使い回しなのよ。グループの子たちと間接キスになるじゃない」
「人形にティッシュを被せたりしないんですか」
「するけどティッシュ如きがいかなる効果をもたらすと言うの。気休めも甚だしい、あろうがなかろうが同じじゃないの」
「でもきっとグループは男女で分けるでしょう。先輩のグループは女子だけですよ」
「女子同士でも間接キスは間接キスじゃないのよ。駄目よ。許さないわ。だから今日、私にキスをしなさい」
「何が〝だから〟なんですか」
「あら。しまった。この私としたことが。言い間違えたわ。そう、私と間接キスをしなさい。こう言いたかったのよ」
「輪をかけて意味が不明になりました」
「私はまだ間接キスというものを経験したことが無いのよ」
「はい」
「つまり明日の授業での人工呼吸が私のファースト間接キスとなるの」
「はい」
「初の間接キスの相手が女子って。初の間接キスの場所が何の面白みもない教室って。媒介が人工呼吸練習用人形って。夢はどこ。ロマンはいずこ。ファーストなのにっ!」
先輩が珍しく大声を出したのでぼくは驚いてしまった。
「せ、先輩のお気持ちはよくわかりました」
「よろしい」
「そして先輩の目指すファースト間接キスなるものは、いかなるものか教えて頂けますか」
「よろしい。重要なのは場所、何を使って間接キスをするのか、この2つよ。ゆえに相手は、まあ、この際あなたでいいわ、うん」
ぼくは「この際」で選ばれたらしかった。
「して、場所と言うのは」
「通天閣か京都タワーがいい」
「先輩、もう夕方です。ここは奈良県です。間に合いませんよ」
「…………」
「夕暮れ時の公園と言うのもロマンチックだと思いますよ。ワビサビですよ。千利休の生まれ変わりを自称する先輩にピッタリですよ」
「公園へ行くわよ」
こうしてぼくと先輩は近所の公園へ移動した。
「間接キスは缶入りの飲み物で行うべきなのよ」
そう言って先輩は自販機の前に仁王立ち、散々迷ってから、温かいコーンスープ缶のボタンを押した。
「冬の公園にはコーンスープかお汁粉と相場が決まっているのよ」
先輩は颯爽と缶を開け、格好良く腰に手を当て、ぐいっとコーンスープを飲んだ。
「あちゅっ」
予想外に熱かったらしい。
先輩はコーンスープを吹き出し、缶を落とした。缶の中身が地面にぶちまけられる。
「…………」
地面に広がりつつあるコーンスープを、先輩が泣きそうな顔で見つめているので、ぼくは缶をゴミ箱に収めてから、財布を手に自販機に立ち、お汁粉のボタンを押した。
温かいお汁粉の缶を渡すと、先輩は「公園にはお汁粉が良く似合う」と優雅に微笑んだ。
「やっぱり公園にはお汁粉の缶よ。お誂え向きとはまさにこのこと」
「べた褒めですね。先輩はお汁粉が好きなんですね」
「缶入りは初めて飲むのだけれどね」
先輩は再び颯爽と缶を開けたが、ふと思い留まり、ぼくにお汁粉を渡した。
「キスは男からすべきものよ」
「ぼくが飲んでから先輩が飲むという寸法ですね」
「そうよ。あ、待って」
「なんですか」
「別に熱さに慄いているわけでもなければ、初の間接キスに緊張しているわけでもないのだけれど、そう、時間を頂戴」
「心の準備ができたら教えてください」
ぼくと先輩はとりあえずベンチに座った。
公園には他に誰もいない。先輩はマフラーの端を握ったまま黙っている。
「ねえ」
「はい」
「なかなか覚悟が定まらないわ。でも誤解しないで。私が臆病者だからではないのよ。初というのは重要なのよ。ファースト間接キスというのは一大事なのよ」
「初夢も初鰹も重要みたいですしね」
「そう。そうなのよ。一大事だから慎重になっているだけなのよ」
そしてまた先輩は黙った。
ぼくはふと思いついて、もう程よく冷めているお汁粉を一口飲んでから、先輩にキスをした。
ぼくも往々にして説明不足のことがある。
呆然自失状態の先輩に説明をしなければならない。
「ぼくは今、お汁粉を飲みました。そして先輩にキスをしました。つまり先輩はお汁粉と間接キスをしたことになりますね」
「…………」
先輩はしばらく考え込んだ後、ふっと優雅に笑った。
「あなた、なかなかの策士ね」
「ありがとうございます」
「公園にはお汁粉が良く似合うのよ」
先輩はそう言って、なんだか、にこにこしているのであった。
ぼくがごくごくとお汁粉を飲んでいると、先輩が「お餅は私の分も残しておいてね」と言った。缶入りのお汁粉にはお餅が入っていないことを、先輩の心を傷つけることなく遠回しに説明するのに、ぼくは三十分を費やした。