美猫ちゃんの結婚契約書。
「先生、将来わたし、先生のお嫁さんになりたい」
「そうかそうか。それは楽しみだね」
たまにこういう生徒がいる。
小学校の教師をしていれば、さほど珍しい光景ではない。
そういう子供の無垢な純心に付け込んで悪辣な犯罪を仕出かす教師もごく稀にいるが、基本的にこういう事を言われたら流すのが正解。
どうせ、何年もしないうちにそんな口約束は忘れて、新たな恋や愛に目覚めていくのだから。
しかし、彼女……玉鈴美猫は少々そういった普通の小学生とは、一線を画したアプローチを仕掛けてきていた。
「先生、本気にしていないでしょ。わたしが子供だと思って、流していれば良いや、って思っていない?」
僕はその言葉におやおや、と思った。
たまにこういうマセた女の子も、いるにはいるんだよな。
その場合の殺し文句はこれだ。
「そんな事ないよ。玉鈴がちゃんと大人になったら、その頃にまだ先生の事を覚えてて、しかも好きだって気持ちが継続していたら、改めて僕に会いに来たらいいよ。約束」
指切りを交わし、気持ちを確約させる。
これで一度満足してしまえば、あとは時間が全てを風化させてくれる。
そういうものだ。
しかし、美猫はそれでは引き下がらなかった。
「口約束は信用できません」
指切りにはむしろわたしが付き合ってあげたんですよとばかりに、幼い口約束は反故にされるでしょう、と言い切る美猫に、僕は困惑する。
「まいったなぁ。じゃあ、どうすれば良いのかな」
とりあえず彼女が満足する何かしらの儀式を終えれば、それで納得するだろうとタカを括っていたのだが、美猫は予想外の発言をしてきた。
「契約書にサインして下さい」
ぺらりと彼女は一枚の紙切れを見せてきた。
書面で契約を結べというのか……!!
最近の小学生は随分進んでいるな、と僕はその紙にとりあえず目を通す。
どうせ小学生の手作りの契約書なんて………………
僕はそれを見て青ざめる。
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結婚予約に関する契約書
本契約書は、犬堂 正和 (以下、甲とする)と玉鈴 美猫(以下、乙とする)との、およそ10年後に於ける婚姻関係を結ぶ事を約束する為に交わされる契約締結の書類である。
契約内容は以下の通りとする。
・甲は乙が満22歳を過ぎ社会人として働き始め収入を得る事を契機とし、乙からの結婚申し入れについて一切の拒否をしないものとする。
・甲は乙に対して、年齢差などを理由として本契約書を無視または反故にした場合、契約違反により罰金を支払う事とする。
………
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……などと、いかにも子供の手書きの文字ではあり、罰金の具体的な金額に言及しないなどの詰めの甘さも散見されながらも、必死で大人の書く契約書を真似て書いたのだろうなと思わせる、それはもうガチガチの契約書を提示してきたのである。
「どうですか? これにサインして頂けますか、先生?」
ニヤリとツリ目を細めて、名前通り猫のような笑みを浮かべる美猫。
可愛らしくまとめた彼女の二房のツインテイルが、小悪魔の角か何かに見紛う気がした。
「え……いやぁ……」
正直、美猫のあまりの手の込み方にドン引きしながら、こんなものにサインなんか出来るわけがない、と思いつつ答える。
「……た、玉鈴は勉強家だなあ。こんなしっかりした契約書を書いてくるなんて、先生驚いちゃったよ」
我ながら誤魔化し方が下手だなと思った。
当然、美猫は誤魔化されてなどくれない。
「お褒めに与り光栄です、先生。それで、契約書にサインは頂けるのですか?」
「いや、ごめん、無理……」
14歳も歳が離れているというのに、なんというか、小学生の幼い恋愛と言うにはやや逸脱しているように思える。
第一、彼女が22歳になったら僕は36歳だぞ?
ーーなどと言う『常識的』な説得をしても無駄であろう事は、契約書の文面から火を見るよりも明らかだった。
「そうですか、まあ良いです」
しかし美猫はあっさりと引き下がった。
僕は拍子抜けしたような、安心したような気持ちになって胸を撫で下ろす。
そして美猫はランドセルを背負い、帰宅します、と言う。
僕は手を振り、また明日ね、と言った。
教室を出る寸前、不意に踵を返して美猫は言う。
「先生、サインしなくて良いから契約書の文面、最後まできちんと読んでおいて下さいね。
裏側にも、書いてあるので」
ピシャリ、と教室のドアが閉められ、静寂に包まれる。
僕は彼女が残していった契約書を裏返し、その一文に思わず顔を綻ばせた。
「乙は、甲を愛しています。
甲が乙をたとえ子供だと思っていてもーー10年後は、分かりませんよ。
もしその時になって、先生の気が変わったら……わたしに、連絡して下さいね」
「心しておくよ」
僕はひとり、苦笑しながら教室で呟いた。
私屋カヲル先生の『こどものじかん』という正統派小学校漫画をご存じでしょうか。
最初に思いついたのはアレみたいな感じです。
でも、九重りんちゃんみたいに重い家庭事情とか色々考えはしなくて、とにかく契約書というネタ1本ありきです。
『口約束も実力行使も私はしない、絡め手で篭絡する』
みたいな、ちょっぴり小狡いマセた女の子を描きたかったのです。
最後の一文こそが、彼女の本音だった―――のかも?
先生は、さぁ、どうするんでしょうね。




