三.
今度は、羞恥心はなかった。
むしろ、謝敷のそのあまりにもな対応に、さすがに腹立たしさを覚えていた。その腹立たしさが、僕の背をグイッと押していた。いささか、気を大きくさせていた。
「誰って……、据膳だよ。同じクラスの。分かるだろ?」
「知らんがな。うっとうしい」
謝敷は、こちらを振り返ろうともしなかった。ただ真っ直ぐを見つめて、本当に、独りでぼんやりバスを待っているだけかのように佇んでいる。こいつ、一体どういう女なんだ、と僕の中の苛立ちは熱を増す。ただ、相も変わらずその横顔は究極に美しい。
バスが来た。
もちろん、謝敷に続いて僕も乗車する。
謝敷は、車内の最後尾、5人掛けの座席の右端に腰を下ろした。
しめた、と僕は思った。二人掛けの座席に肩を並べて座るというのはいくらなんでも図々しいが、5人掛けの座席に、人ひとり分の間隔を空けて腰を下ろすくらいの度胸は湧いていた。
「横、いい?」
「なんでやねん。向こう座れや、空いてるやん」
ガラガラの車内を、くいっと顎で指し示した。
「まあ、いいからいいから」
僕は、めげることなく腰を下ろした。
すると謝敷は――これ見よがしに一度舌打ちをしたものの――ちろりとこちらに顔を向けると、僕の頭のてっぺんから足の先まで、まるで品定めでもするかのように、何度も視線を往復させた。
そして、納得したかのように薄く笑みを浮かべ、「まあ、ええか」と言った。
望外なお言葉に、僕は胸がばくんと高鳴るのを感じていた。
なんだ、なんだ? どういうことだ。こいつ、今、僕のことをジロジロ見ていたぞ。その上で、隣に座ることを許してくれたということは……。よもや謝敷も僕に気があるとは言わないが、憎からず思ってくれていることは間違いないだろう。心なしか、謝敷の表情が和らいでいる。いつもの、誰も寄せ付けない刺すような目つきは鳴りを潜めてしまっている。
それから僕は、ガラガラの車内で謝敷といろんな話をした。テレビのこと、部活のこと、差し迫った中間試験のこと。謝敷も、嘘のように付き合いがよかった。先ほどまでの塩対応が白昼夢であったかのように、こちらを向き、しっかりと目を見て会話のキャッチボールが行き来する。
本当に、これはひょっとしたらひょっとするぞ、と僕は思った。
頭の中を幸せなイメージが埋め尽くす。本当に、こんな子が恋人になってくれたら……。毎朝一緒に登校して、一つの机を挟んで弁当を食べて、放課後には図書館でテスト勉強をしてみたり。奇人であろうと不潔だろうと、腐っても謝敷である。目玉の飛び出るような美女である。
男子連中の、驚きと嫉妬の混じった視線を想像しただけで、なにやら背中がむず痒くなる。
そんな不純な思いも潜ませながら、幸せな妄想は止まらない。
そして、自覚のないほど浮かれ上がっていた僕は、もしも謝敷と付き合うことができるならば――もちろん僕は、己の思うがままに行動する今の謝敷が愛おしいのだけれど――肩を並べて歩くならば、「奇行」をやや控えめにしてくれればなお素晴らしいと、一人、そんな段階にまで話は及んでいた。
そんな身勝手な都合を込めて僕は、意を決して例の件について訊ねることとした。
「なあ、謝敷。すごく、失礼かもしれないけど……。どうして、あんなことばかりするんだ?」
「あんなこと、とは?」
意を決して言葉にしている僕をからかうように、謝敷はいたずらっぽく訊き返してきた。
「分かるだろ。だから、その……、謝敷がいつもしてることだよ。不潔なこと。爪で歯糞をほじくったり、鼻水をブラウスで拭ったり、屁をこいたり授業中に鼻毛抜いたり、そういうこと、全般だよ」
しばし、静寂。
謝敷は、改めて僕を品定めするように、じっ、と僕の目を見ていた。
吸い込まれそうになる美しい瞳。僕だけを真っ直ぐに見据えている。
そして、長い長い静寂ののち、再び「まあ、ええか」と言った。
「アホ。さすがに恥ずかしいわ、面と向かってずらずら並べられると」
謝敷が、長い髪をばさりとかき上げた。耳はほんのり赤らんでいる。
「――私、婚約者がおんねやんか」
「フィアンセ?」思わず繰り返した。
「せや。私、大阪から越してきたやろ? 向こうに残してきてんねん、将来を誓い合った男を」
婚約者?
なにやら謝敷らしからぬロマンティックな話に、僕はあっけにとられていた。謝敷もそのことを自覚してはいるのであろう、話を進めるごとに頬が真っ赤に染まってゆく。
「こ、婚約者の存在が、謝敷が不潔なこととなんの関係があるんだよ」
すると謝敷は薄く笑って、再びその切れ長の瞳に僕を据えた。
「私って、キレイやんか。この上なく」僕は、もう、言葉がなかった。「言い寄られたないねん、こっちの男共に。悪い虫が寄らんように結婚指輪をつける女がおるように、私にとっては、この『奇行』が虫除けやねん。謝敷は頭のおかしい女や、近寄らんとこ、くらいに思われていたいねん。それが、私にとって、あの人に操を立てるってことやねん」
撞木で頭をぶん殴られたかのような衝撃であった。
ぐわんぐわんと視界が揺れて、謝敷がなにを言っているのか、僕にはよく理解できていない節があった。ともかく僕は、努めて平静を装いながら、ふと湧き上がる疑問を謝敷につき返すのが精一杯であった。
「でも……、でもさ。そのために謝敷が奇人扱いされるってのは、ちょっと理屈に合わないだろう? そんなの、男に言い寄られたってその都度きちんと断ればいいだけじゃんかよ。その手間を省くためだけに、謝敷本人も望まない不潔な奇行を繰り返して、男からも女からも距離を置かれるって、ぜんぜん、意味が分からないじゃないか」
謝敷はやはり、薄く笑った。
「ごもっともや。据膳の言うとおりや。せやけど、恥ずかしながら私も弱い人間やねん。遥か大阪に男を残して、うら寂しい身やねん。そんなときに、ちょっと様子のいい男に言い寄られたら、私やって天地がひっくり返ってもなびかないとは言い切れんよ。だから、操を立てんねん。いつかあの人と再び結ばれるためなら、世間体も友だちも、まともな高校生活も、全部要らんねん」
僕は、謝敷桜子という女を誤解していた。
というか、まったく、微塵も理解できていなかった。
謝敷は、僕が思っていたよりも遥かにロマンチストで、燃え上がるような恋をしていて、そして、実直だった。
少なくとも、謝敷が奇人扱いされていることを己の利として考えたり、恋人となった謝敷を男友達に自慢することを楽しみにしていたような僕なんかよりも、遥かに。真っ当に、人を愛していた。
勝てるわけがない、と思い知らされた。
謝敷はきっとこれからも、奇人として生きていくのだろう。不確かな未来を信じて、愛する人のために、惜しげもなく高校生活のすべてを投げ出すことができるのだろう。
決して手の届かないということを思い知らされた僕の中で、しかし謝敷の存在はますます大きくなっていた。謝敷、謝敷、謝敷。愛おしい、この上なく。
目的の停留所を目前にして、謝敷がすっと立ち上がった。
そして、その去り際、「誰にも言うなよ、意味のうなるから」と僕に釘を刺した。それを受けて、また、疑問が湧く。
「そういえば。どうして謝敷は、このことを僕に教えてくれたの?」
すると謝敷はこちらを振り返って、いたずらっぽく笑ってみせた。
「据膳みたいな男やったら、万が一にも、ありえへんやろ?」
謝敷、謝敷。……この野郎!
バスを降りて、バイバーイ、という口の動きと共に手を振る謝敷は、今まで見たどんな姿よりも素を感じられた。今まで、見たことのない笑顔だった。
きっと、今日のこの日は、謝敷にとっては降って湧いた「休息の日」だったのかもしれない、と僕は思った。奇人の装いは、僕が想像するよりも遥かに心身を疲弊させるのかもしれない、と。
何事もなかったかのように、明日はまた刺すような目つきの謝敷がそこにいるのだろう。何事もなかったかのように、爪で歯糞をほじくる謝敷がいるのだろう。
――告白は、やめよう。
していいはずがない。
少なくとも、謝敷桜子が奇人という名の結婚指輪をつけているうちには。
(了)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、次回作でお会いできましたら幸いです。