なにが起きたズラ?
しかし、この左腕にはそんなものはない。刻まれた足跡、それは罰として己に与えたもの。
左腕に刻まれた歴史は一つだけ。
殺したという、一方的な虐殺だ。
その時、この戦場に漂う空気が一変していた。
「……?」
最初に変化に気づいたのは赤い悪魔だった。彼の表情が変わる。
駆が纏う雰囲気が変わっている。追いつめられた獲物などではない。餌を見つけた猛獣のような興奮と愉悦の気配。
「貴様」
窮地に立っているのは駆の方だ。だというのにこの敵はどこか興奮しているように見える。同時に膨れ上がる存在感。形は変わっていないのにオーラだけが巨人になっていくような。
「何者だ?」
その異様さ。違和感は不安に代わり、すぐに危機感へと変わっていく。
まずい。まずい。まずい。そう思うのに目が離せない。それはすべての悪魔に伝播しすべてが駆に恐怖していた。
「なに? なに? なにが起きてんの?」
それは仲間も感じ取っている。今まさに、隣に立つ少年が大きく変貌していることを。
そんな敵味方の困惑を置き去りに駆は仲間を全員指輪に戻した。
『マスター?』
突然の全員退避。孤立する駆は一人立つ。二千近くの悪魔に囲まれ逃げ場はない。分かりやすい逆境で。
そこで駆は感じていた。
興奮という衝動を。
「逃げろぉお!」
赤い悪魔が叫ぶ。だがもう遅い。
駆の体を巡る血と心が訴えている。
この感覚。そう、この感覚だ。
戦場の最中、いつ自分が死ぬかもわからない境でありながら恐怖も不安も飲み込むほどの高揚。全身を突き抜ける興奮。目の前の敵が全員全裸の女性のようだ。空腹時に出されたご馳走のようだ。危機感を越える欲情にも似た感覚が全身を支配する。
心の底から、もしくは魂のあり方か。欲する衝動が内側から猛り狂う。
その思いを解き放つため。
駆は、左腕を突き上げた。
その左腕が光を発する。同時に包帯が解け浮遊した。包帯によって隠されていた駆の左腕。それがついに明るみになる。
そこにあったもの。それを見た者は戦慄した。
駆の左腕にあったもの。
それは、おびただしい数の切り傷だった。
いったい何回切ったのか。裏だけではない、表に至るまで付けられたリストカットの跡。それが手首から肘まで無数にある。傷の上から切った跡もあり痛々しいを越えて不気味。
そして、左腕が発する光がこの場を走り抜けていく。
それは一瞬だった。すべての悪魔がなにが起こったのか理解できない。
だが直後に知ることになる。これからなにが起こるのか。
「なに?」
その異変に気づく。赤い悪魔の体が、灰となっていく。それだけではない。ここにいる数百という悪魔すべての体が灰となって消えていくのだ。
「バカな……」
それが赤い悪魔最後の言葉だった。この場を覆っていた悪魔という悪魔が死んでいく。赤い悪魔は保った方だ。それ以外は言葉を発する間もなく死んでいた。
残ったのは駆だけ。悪魔は死体も残らず荒野に灰が漂っている。
仲間たちは指輪から出てこの事態を目の当たりにする。
「なにが起きたズラ?」
この事態に困惑しているのは味方と到着していなかった敵の増援だ。一瞬にして数百の悪魔が灰になったことに驚愕している。
「敵が、死んだってこと?」
なにより、目の前の出来事に理解が追いつかない。
「そういう、ことになるな」
「どういうことよ? 敵を即死させるって、じゃあマスターはデス系の呪文を使ったってこと?」
「でもあり得ないズラ。デスは確率が低いしデスザは確定だけど一体までだズラ。マスターは今一回しか使ってないズラ」
「まさか」
そこで推測される可能性をヲーが疑問と共に口に出す。
「デスザル……?」
「はあああ!?」
その言葉にリトリィが最も大きな声を出していた。
「デスザル!? なにそれ? そんなのあるわけないでしょ! あの死霊王ネクシーだってデスザ止まりだったのよ? デスザルなんて歴史上存在しないのに」
そう、デスという呪文はあるが扱いが難しく使い手はほとんどいない。確定で即死を扱えた悪魔は伝説となりその一体しか確認されていない。
その上など、誰も見たことがない。理論上存在が確認がされているだけで。
「だが、この状況はどう考えてもそうとしか思えん」
「うそでしょ」




