×××駅
2004年8月8日。
当時の私はN県のY市に住んでいた。大学を卒業してアパレルメーカーの会社に入社したのだが、ハードな仕事に疲れ切っていた。
毎日のサービス残業、営業のノルマ、上司や先輩からの無茶な仕事内容を押し付けられた結果、残った新人は私を含めて2人だけになっていた。
その日の夜も上司から数時間のお説教を食らった後で肉体と精神共々限界に近い状態であった。
「もう限界だわ。今月中に辞表を出してこんな会社やめてやる!でももしダメだったら…」
会社から出た時はもう夜の12時過ぎ。私は終電の時間を気にしながら足早にいつもの駅に向かった。
真っ暗な帰り道を必死になって走りながら終電の電車にギリギリで飛び込んだ。
帰りの電車では単行本を読んだり、明日の仕事のスケジュールを整理するのが当たり前になっていた。しかし、その日はかなり疲れていたせいか席に座って数分で意識が無くなってしまった。
「…ま……なく…終点…し…」
車内アナウンスの声で目が覚めた。
周りを見渡してみると乗っている乗客は私のみ。窓の外を見ると全く見たことが無い景色があった。
「しまった!寝過ごしちゃった!」
電車の中で眠ってしまったようだ。しかも終点まで来てしまったらしい。
数分後、電車は薄暗い明かりで灯された小さな駅で止まった。
「終点なんて初めて来たわ。誰もいないし無人駅かしら?」
私は駅名を確認するために駅名標を確認した。
「これ汚れて見えないじゃない。これじゃあタクシーも呼べない…」
肝心の駅名が赤黒い汚れで見えなくなっており、駅名を確認できない。
私は電車を降りると帰りの電車があるか確認することにした。
「これも汚れていて全然わからない。この駅は手入れされてないわけ?」
改札口前に唯一置いてある手書きの時刻表も赤黒いシミで汚れており、完全に読めなくなっている状態だった。かろうじて読めた部分が「昭和59年」と悪戯で書かれたであろう携帯の電話番号だけだった。
どうしようもないので一旦改札を出てからバスやタクシーが無いか調べてみることにした。もしかするとタクシーくらいは呼べるかもしれない。
「改札口が開かなくなってる。薄暗い電灯以外は完全に止まっちゃってる感じ」
仕方なく強引に改札を乗り越えて駅の外に出た。夜中の無人駅なんて不気味だし、明日
の仕事も朝早いのでとにかく早く家に帰りたかった。
「…嘘でしょ?」
外は何もなかった。タクシー乗り場や売店どころか街灯の光1つ見つけられない闇が広がっていた。携帯の明かりを頼りに外に出てみようと思ったけど、知らない土地の夜道を1人で歩くのは気持ちが悪かった断念した。
私は改札口のすぐ横に設置されている休憩所の小さな一室で静かにうなだれていた。時間は夜中の1時過ぎになっていた。
「携帯電話で実家に連絡したところで場所もわからないし、この駅で朝まで待った方がいいのかな。でもこんな知らない場所で眠れるわけもないしどうすれば…」
その時だった。
コン…コン…コンコン…
「誰かいるの!?」
ホームの方から誰かが歩いているような音が聞こえてきた。私が降りた時は誰もいなかったはずだ。私は恐る恐る休憩所から出た。
ホームの中にも休憩所と思われる場所が設置されている。駅の端の方にその場所があるのだが、その中に人影らしきものが3人立っていることに気が付いた。
「私以外にも人がいたんだ!」
もしかしたらまだ電車が来るのかもしれない。私は話を聞こうと思い、その人影に向かって走り出した。
「あの…すいません。ここってまだ電車来るんですか?実は寝過ごしてしまって」
休憩所の扉の前に来た時だった。
「うわっ!?」
休憩所の中に立っていたソレは人間ではなかった。
「マネキン…?」
中に立っていたのは服を着たマネキンたちだった。なぜ駅の中にマネキンがあるのだろうか。
「田舎の駅だと悪戯とかでよくあることなのかなぁ。それにしても気持ち悪い…」
私は再び駅の外にある休憩所に戻ろうとした。マネキンたちから少しでも遠くの場所にいたかった。
「あれ?明かりが見える!」
駅から出ようと思った瞬間、ホームの外から小さな明かりが見えていることに気が付いた。どうやら踏切にある電灯の明かりらしい。
周りが見えない真っ暗な闇の中にぽつりと佇む踏切。その中に「人影」のようなものが立っていることに気が付いた。
「女の人?なんでこんな時間に…?」
どうやら女性のようだ。赤いワンピースを着た中年らしき女性が立っていた。地元の人であろうか?それとも私と同じように電車を待っている人なのか?
「…あっ!」
踏切の女性と目が合った。
私はとっさに目をそらした。知らない人を凝視することに抵抗があったからではなく、その女性が少しだけ不気味な笑み浮かべているように感じたからである。私は休憩所に戻ろうと思い、後ろを振り向いた。
「ひぃ!!?」
私は驚いて腰が抜けてしまった。目の前に先程のマネキンが立っていた。休憩所にいたマネキンの1体が私の真後ろに立っていた。それだけではない。駅の休憩室に残っているマネキンたちも不気味なことに私の方を見つめていた。
(この駅やばいんじゃないかな?何だか嫌な感じがする!)
私はとりあえず駅の改札口にある休憩所まで走った。そして手当たり次第に家族や友人の携帯に電話をかけた。しかし、夜中だということもあり誰も通話に出てくれない。
(誰も出てくれないしどうしよう…とりあえず休憩室で…ッッ!?)
改札口を出ようとした時だった。外の休憩所から何か気配がすることに気が付いた。
コツ…コツ…コツ…
休憩所の方から足音が聞こえる。私は身を物陰に隠しながら休憩所の方を覗いた。
(あの女だ!あの女が休憩所にいる!)
休憩所の椅子にあの踏切の女が座っていた。赤いワンピースに赤いハイヒール、赤いバックに…赤いマスク?
すべてが赤い。私はその女から異常な不気味さと恐怖を感じた。
私は恐怖で叫びたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと駅の中に戻った。汚れて何も見えない掲示板の後ろには小さな隙間があり、そこに隠れて誰彼構わず電話をかけた。警察にもかけてみたのだが、電話が通じることがなかった。
「嘘でしょ?何で通じないのよッ!?」
電話は誰も出ないし通じない。駅には得体のしれないマネキン。駅前には異常な女。自分は異界にでも迷い込んでしまったのだろうか。掲示板の小さな隙間から顔を出しながら外の様子を確認していた時だった。掲示板に書かれていた電話番号が目に入った。
「えっ…これって…」
汚れて文字が見えなくなった掲示板に書かれてあった電話番号。さっきは気が付かなかったけど、その横に小さな字でこんなことが書かれていた。
出たいなら電話して。
「出たいなら電話して?」
私はその番号に電話をかけてみようと思った。悪戯でも構わない。私は誰かが出てくれるよう祈りながら発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴りだして30秒くらいだっただろうか。誰かが電話を取ったのだ。
「あ、あの!こんな夜中にすいません!私今知らない駅にいて…マネキンがあったり変な女性がいたりで…なんていうか…この電話番号が掲示板に!」
電話番号の主が誰なのかなんてどうでもよかった。私は声をギリギリまで小さくして今の状況を伝えた。
「アサガオが置いてあるトイレに入って朝まで待て。最初の発車音が聞こえるまで外に出るな」
「えっ?」
電話に出た女性はそう言うとすぐに電話を切ってしまった。もう一度かけなおそうと思ったが、改札口のすぐ横にトイレがあった。意味はわからないが、とりあえずトイレの中に入ってみることにした。
外の女を気にしながらトイレの中に入った。トイレは男女の区別が無く、昔ながらの男子トイレが3つと洋式トイレが3つあった。一番奥の洋式トイレには花瓶に入った小さなアサガオが置かれていた。
「あった!アサガオだ!」
私は個室に入ると静かに鍵を閉めた。この方法が正しいとは思えないが、今はあの電話の主を信じるしかなかった。
個室に入って20分後。
コン…コン…コン…
(誰かが外を歩いている…あの女だ…)
ハイヒールの音が個室の外から聞こえてくる。あの女が私を探しているのかもしれない。
「ワ…ミチ…タマ…カシコ…コミ…カシコ…」
あの女が何かを喋り始めた。私は頭が真っ白になり、嫌な汗が出る。
(ここに居れば大丈夫…大丈夫だから!)
私は自分にそう言い聞かせながら下を向いていた。ハイヒールの音と謎の呪文のような言葉は1時間近く続いたが、個室の中に入ってくる様子はなかった。
個室に入ってどのくらいたっただろうか。腕時計を確認すると夜中の3時40分だった。
私は外の気配が消えて安心してしまったのか、時より襲ってくる強烈な眠気と戦っていた。思えばここ数日は残業続きでまともに寝ていなかった。
(こんな状態でも眠たくなるものなのね…)
その時だった。
「ネェ…ダッテ…エ~」
「ダカラ…ナァ…ッテ…」
「サカ…マデ…スグダ…イクゾ…」
「イカ…デ…モウス…デ…」
「ウォ…シ…メ…アァ…」
外からたくさんの人の声が聞こえてきた。腕時計を確認するが時間はまだ深夜だ。
(こんな時間になんで人が?しかもたくさん…)
5人や6人ではない。10人か20人。いや、もっとたくさんの人の声がトイレの外から聞こえてくる。もう気が狂いそうだった。
♩…♫…♩♫♪…
(こんな時間に電車?)
駅の方から音楽が聞こえてきた。電車が来る。
しばらくして駅の中に電車が入ってくるのが音でわかった。
「この…車…は…かい行きで…ご乗車…だ…さい」
アナウンスを聞こうとしたが途切れ途切れで行き先がわからない。
チリリリリリリリリ………
「ベルの音。電車の発車音だ!」
私は一呼吸入れてからゆっくりとトイレのドアを開けた。
「最初の発車音が聞こえたら個室から出ても良かったのよね?あの電車と発射音は一体なんだったのかしら。でもこれでもう大丈夫…」
私は大きなため息をつきながらトイレから出た。その時だった。
駅の方から嫌な気配を感じた。いや、気配を感じると言うよりは…
「誰か見てる?」
私は不意に駅のホームの方を見た。
「………うわっ!?」
今ではあまり見ない古いタイプの電車があった。車内には薄暗い明かりが灯っており、中にいるたくさんの人々が私の方を見つめていた。サラリーマン風の男性、杖を持ったおじいさん、着物を着た女性と子供。真っ青な顔と無気力な目。
電車が動き出した途端に私は意識が薄れてしまい、そのまま改札口の前に倒れ込んでしまった。
それから数時間後。私は病院のベットの上で目を覚ました。近所を通っていた地元の方が倒れている私を偶然見つけて救急車を呼んでくれたらしい。
しばらくして警察官に倒れていた理由を聞きに来た。正直に話したところで信じてもらえるはずもなく、仕事で疲れて倒れてしまったということにした。
「お姉さんの会社って〇〇市の方ですよね。なんであんな場所に来てたんですか?」
「終電に乗ったらそのまま寝てしまって終電駅まで来ちゃったんです。そこで疲れて眠っちゃって」
私がそう説明すると警察官が不思議そうな顔をした。
「電車で来たんですか」
「はい」
「…あそこ廃駅だよ?」
「えっ?」
私は警察官と倒れていた現場を確認するために車で駅に向かった。
駅は私が来た時より遥かに劣化しており、所々に落書きやゴミが捨てられているほど荒れ果てていた。私が入った個室にはアサガオも無く、ホームにあったマネキンも掲示板の電話番号も無くなっていた。
「この駅はもう20年くらい前に使えなくなってるよ。詳しいことは知らないけどある日突然廃駅になっちまったんだ。バケモンでも出たのかねぇ」
警察は途中で買った缶コーヒーを飲みながら言った。
私はあの事件があってから仕事を辞めた。今は別の会社で働いている。
あの出来事は過労による幻のような現象だったと自分に思い込ませている。それだけでは説明できない出来事が大半なのであるが、当時の私にはそう思う以外あまり深く考えたくなかった。
今は安定した仕事に就き、順風満帆とまではいかないものの、そこそこ楽しい生活を送っている。
携帯電話を見ると今でもあの時の出来事が頭の中で甦ってくる。
あの掲示板に書かれていた電話番号は今も携帯の発信履歴の中に残っていた。