Seal97 ふたりの御使いー忍海桜ー
「それじゃあ、今日も一日安全第一でお客様に最高の時間を提供しましょう!」
安堂が朝のミーティングでそう締めくくると、従業員は散り散りになって自分の仕事に向かった。
ましろはというと、いつかと同じように二階の後片付け等があてられていた。
忍海は別の仕事であったのだが、千歳が一緒に入っており、今朝のこともあって気まずい。
このままではだめだと思いながら、謝罪の機会をうかがっていたが、タイミングが合わず、あれよあれよと時は進み、気付けば残すはディナー用の食器やグラスをセッティングするだけになってしまった。
これが終わってしまえば、客前での仕事しかないため、謝罪するような機会は終業までほとんどない。
ましろはチラリ、と千歳の様子をうかがう。
千歳はグラスを顔の前に掲げ、表面に汚れが残っていないか、入念に確認していた。
よし、と気合を入れると、ましろは千歳の前まで歩いた。
「朝はほんとにすみませんでした」
ましろは精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。
千歳がはぁ、とため息をこぼす。
グラスをテーブルに置いてから、ましろに目を向けた。
「頭をあげてくれたまえ」
ましろは頭を上げた。
視線が合う。
千歳は淡い笑みを浮かべた。
「そのことを気にしていたのか。僕が振り返るたびに身体をビクンビクンさせていた理由がやっとわかったよ」
「私、そんな風だったんですか?」
「だったよ」
指摘され、自覚していないとはいえそこまでだったのか、とましろの頬は紅潮してしまう。
「朝の件は、君のことだから、おそらくなにか考え事でもしていたんだろう」
言い当てられて、ましろは口をつぐんだ。
「みたいだね。それなら、仕方ない。悪気があってのことじゃないぐらい僕にもわかっている。僕も少しピリピリしすぎた。すまない。ただ、ひとつ忠告しておきたいんだが、僕以外であればもっとおおごとになっていただろうから、今後は気を付けるようにね」
「千歳さん……」
「戸田さんが謝罪をして僕が納得したんだから、この件はこれでおしまい。それに僕は君の腕をひねり上げてしまったこともあったしね」
千歳が自嘲の笑みを漏らす。
「そんなこともありましたね」
うまい返しが思いつかず、会話が途切れた。
ふたりのあいだに横たわる気詰まりな沈黙に耐えきれなくなる。
ましろは、唾と息を一緒に呑み込んだ。
「あの、失礼がないように聞いておきたいんですけど、千歳さんって男の人なんですか?」
千歳が問いかけにまばたきを繰り返した。
「僕かい、僕は男だよ」
「……そうですか」
「なんだか納得がいっていないみたいだね」
「いや、そんなことはないんですけど……」
答えながらも、ましろの頭のなかに今朝の光景が自然と思い出される。
きれいな肢体。
女性特有の膨らみ。
「君にはどっちに見えたんだい?」
「私にはーー」
ましろが回答しようとしたとき、階段をあがってくる靴音が聞こえた。
次いで自分を呼ぶ声がした。
「戸田さん、健康診断の結果、取りにきてなかったよね。いま渡すからすぐに来てほしいんだけど……」
安堂であった。
「呼ばれてるよ、返事しなくていいのかい」
千歳が気をまわした。
「オーナーさん、いま行きます」
ましろは返答し、千歳の脇を通り抜けて、階段を降りようとした。
「いまの質問自体が失礼になる可能性があることも覚えておいた方がいいよ」
背中に声をぶつけられる。
ましろは振り返った。
千歳は、相変わらず温和な雰囲気だった。
しかし、投げかけられた最後の言葉に、ましろはなにか言いようもない、冷たい響きを感じ取った。
健康診断の結果を受け取ってから二階に戻ると、既にディナー用の準備は終わっていた。
自分が抜けてしまい、一人足りない状況では他の人間に負荷がかかると思い、いち早く戻りたいとましろが伝えたところ、安堂からの質問は仕事後でいいという風になった。
だが、終わっているのなら話が変わってくる。
(こんなことなら、先に教えてもらえばよかったかな)
苦笑が漏れる。
そうこうしているうちに『Pieuvre』が開店する。
忍海は相変わらず今日も、客が誰も歌わない時間には舞台に上がって場を盛りあげていた。
ましろ自身声優に対して苦手意識を持っていること自体は変わりなかったが、耳に入ってくる声優アーティストの歌は悪くない気がしてきていた。
「ましろんも舞台解禁されたんだから、そろそろ上がりなよ」
舞台から降りてきた狐面姿の忍海がましろに言う。
いまのいままで舞台に上がって、縦横無尽に動いていたからか、はぁはぁという息遣いがなまめかしい。
「上がってみたいんですけど、やっぱりまだ怖いんですよね」
「怖い?」
「はい、大勢の前で歌うのって失敗できないじゃないですか」
「そうかなー。そもそも、失敗ってなに?」
「音程を外しちゃうとかですかね」
「そんぐらいなら、けっこうみんなしてるでしょ。いま歌ってる人だってーー」
ましろは忍海の言葉で、舞台に注意を向けた。
たしかにお世辞にもうまいとは言い難い。
ましろが注目してからでも何度か音を外している。
「そんな些細なことにこだわる必要なんてないと思うけどなー、プロじゃないんだし。歌が好きならそれでいいじゃん。失敗するのが怖いからってやらないほうがもったいないよ。それに、アタシの歌だって別にうまくないしさ」
仮面の上から、忍海は右頬のあたりを爪で掻いた。
「忍海さんの歌はうまいですよ。私、忍海さんのおかげでなんとなくですけど、声優アーティストさんの歌も悪くないな、って思えてきたんです」
「ふーん、アタシの舞台上でのパフォーマンスを褒めてくれるのはうれしいけど、アタシ自身は別にうまくないよ。それにアタシは自分の歌声が嫌いだし」
忍海が狐面を顔にぎゅっと押し付けながら、ぽつりとこぼす。
直前に面の隙間から見えた彼女はどこか哀しげに笑っていた。
ましろが忍海と会話を交わしているうちに、舞台の上でのパフォーマンスは終わっていた。
たったいま歌っていた人間が満足げに降りてくる姿が視界に入る。
他に誰も待っている者はいない。
「じゃあ、もういっちょ行ってきますか」
「って、え、ちょ、ちょっと」
いきなり、忍海にグイと手を引っ張られ、そのままましろは彼女とともに舞台に上げられる。
上がってみると、ましろの想像以上に客が入っていることに気付かされた。
唾を飲み込む。
いまだ、心の準備ができていない。
こつこつと硬い音をたてて、心臓が鳴る。
思わず、忍海に視線を飛ばす。
彼女はポンと、ましろの肩をたたいた。
まるで、安心していいよ、といった風に。
(どうすればいいの? そもそも、私声優アーティストさんの歌何回か聴いだけで覚えてないよ)
心のなかでひとりうろたえる。
そんなましろの耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのあるイントロだった。
直前までの心配はすぐに吹き飛ぶ。
その曲を忘れるはずがなかった。
身体が勝手に動き、声が出ていた。
舞台下に目を向けると、観客が沸いている。
目の端には、狐面の隙間から、忍海のにやりとした表情が映った。
彼女が選曲したのは、ましろが紫歩や黄金の前で披露したVOTの曲であったのだ。
忍海はいたずらっぽい笑みをひとつ浮かべると、すぐにましろ同様にダンスと歌を始めた。
やるじゃん、というような視線を送ってくる。
歌いながら、ましろはふわふわした気持ちになった。
自分に向けられるひとひとつの視線が気持ちいい。
(人前で歌うのってこんなに楽しいんだ! けどーー)
ーーなんだか、私ひとりで歌ってるみたい。
手のひらを合わせて歌っているときも、ハモりをしているときも同じ舞台にいるはずなのに、なんだか忍海が遠く感じられるのだ。
忍海を見る。
口を開いて、インカムマイクに声を注いでいる。
ふと引っ掛かるものを感じた。
だが、それが何なのか即座にはわからず、もどかしい。
(この違和感の正体はいったいなんなの?)
サビの直前で突如、パリン、という音がかすかに響いた。
ましろが歌いながら目を向けると、客が服にグラスを引っ掛け、落としてしまったようだった。
中身が入っていたからか、その周辺ではちょっとしたパニックが発生していた。
しかしながら、従業員たちがすぐに割れたグラスの回収と中身を被ってしまった客を別室へと案内しており、それ以外には波及していない。
そのなかには赤い狐面を被った千歳の姿もあった。
歌に意識を戻さないと、と思い、舞台下に視線を移すと、なんだか客が戸惑っている姿が目に入った。
(さっきのは千歳さんとかが対応してくれたし、そもそも盛り上がってたひとたちは気付いてすらなかったよね。だったら、どうして?)
と、ましろはふいに自分の声しか聞こえていないことに気付く。
隣に目を向けると、ましろだけが歌い続けるなかで、ひとり棒立ちのまま歌うのを中断した忍海の姿があった。




