Seal96 ふたりの御使いー桜坂千歳ー
「はぁ」
『Pieuvre』の裏口を通り抜けながら、ましろはため息をこぼす。
盗撮の件はあるものの、あの下着姿の写真を見ていながら、下着以外のことに触れなかった時点で忍海がいい人なのは間違いなかった。
その一方で彼女に対して、名前のつけられない感情を抱いてしまう自分がいた。
(忍海さんと千歳さんとどんな顔して会えばいいんだろう)
朝から気が気でなく、ましろは昨夜の出来事を反芻しては、ぼんやりとしてしまう。
重い足取りのまま廊下を進み、更衣室の扉を開く。
そのまま、いつもどおり、自分のロッカーへと向かう。
「あっ」
ましろは小さく叫んだ。
一気に意識が覚醒した。
あいさつの言葉も浮かばないまま、棒立ちになってしまう。
ただただ、視線の先にある光景に心を奪われていた。
(きれいな身体……)
声に気付いた人物の瞳がましろに向けられた。
声の出所を探るような、ゆっくりとした動きだった。
目が合う。
その人物の頭頂部は麦穂のように逆立っている。
同様に下着をつけていない乳首が挑発的にとがっていた。
そこでようやくましろは、周りの景色が普段と違うことに気付いた。
「君は男か?」
黒いタンクトップタイプのナベシャツを頭からかぶりながら、ましろの視線の先にいた千歳が言う。
「お、男じゃありません」
自分の耳がみっともないほど真っ赤なのを意識しながら、ましろはかろうじて答える。
「なら、出て行ってくれないか。僕は着替え中だ。女性用更衣室は隣だよ」
きわめて不機嫌な語感だった。
ジーンズを脱ぎ、ボクサーパンツ一丁のままでうっとうしげなため息をつき、わずかに眉を動かした。
「聞いてるのかい?」
(えっ……えっ……千歳さん……えっ)
問われても、ましろは千歳の上半身によって熱に浮かされており、声が耳にまで届いていなかった。
渋面を拭き取り、千歳は強めた語調で言葉を重ねた。
「女性用更衣室は隣だ」
千歳が勘弁してくれ、と言いたげに天を仰いで太息をもらす。
「のぞきにしては堂々すぎないかい? 男性用更衣室に女性が入るのも立派な犯罪だよ。君は警察を呼ばれたいのかい?」
国家権力の名前が耳に飛び込んできて、ようやっとましろは急に冷静になることができた。
ハッとして、ましろはあわてて頭を下げると、すぐに男性用更衣室から飛び出した。
(えっ、なんで? 千歳さん、胸あったよね? しかも、明らかに私より……。それに身体もきれいだった。なのに、男!? ど、どういうこと?)
ましろがしっくりこない気持ちで、今度こそ女性用更衣室の扉を開くと、もうひとりの顔を合わせたくなかった人物と目が合った。
「おはよう、ましろん」
仰天驚嘆冷めやらぬましろは、いきなりの遭遇にただ呆然である。
戸惑っているましろとは対照的に、笑顔を向ける忍海。
「おはよう……ございます」
「どったの? 元気ないじゃん」
ましろに言いながら、忍海は手に持っていたチョコレートコーティングのスティック菓子を猛然と腹におさめ始めた。
中身がなくなった袋をゴミ箱に放る。
大きなあくびをひとつこぼすと、ましろに近づいてきた。
「あっ、朝ご飯食べてきてないんでしょ」
「えっと……」
「ちゃんと食べないとダメだよん。昼前にパンクしちゃうよ」
バンバン、とましろの肩をたたきながら、忍海が言う。
柑橘系のトワレの香りがましろの鼻先をなめた。
「んー、ましろんもチョコのん食べる? 美味しいよ」
「えーっと……」
「ちょっと待っててね」
早合点した忍海がましろから離れ、自身のロッカーに向かった。
ましろに背を向けたまま、ガサゴソと自身のバッグを漁っている。
「あー、ましろん、ごめん。さっきので最後だったみたいだわー」
忍海がアメリカナイズされたしぐさで肩をすくめる。
ましろはなにを言っていいかわからなかった。
どういう反応をすればいいかわからなかった。
忍海が唐突にパン、と両の手のひらを打ち合わせる。
「そうだ。オーナーになんか作ってもらおっか」
そのまま忍海が更衣室を出ていこうとした。
「あのっ」
「なに」
「朝ごはんならきちんと食べてきました」
「へぇ、だったらなんでそんなに元気ないの? 朝の占いで自分の星座が悪かったとか?」
「そういうのじゃないです」
「だったらなんで?」
「昨晩のこと……です」
「あー、そのことか」
つまらなそうに言って、つい、と忍海が近付く。
そして、ましろの唇にその細長く白い示指を重ねた。
「言ったでしょ、これからも仲良くしたいねって。この日常を壊さない限り、アタシとましろんの関係はこれまでとなんら変わんないよ」
忍海がいたずらっぽく、片目をパチンと閉じた。
「それともなに、ましろんはアタシの日常を壊すつもりなの?」
すっと真面目な顔を作り、忍海がつぶやいた。
まったく感情の起伏を感じさせない平板な言葉だった。
目に見えない精神的な重圧に押さえ込まれ、ましろの身体は床にめり込みそうなほど重くなる。
その時、ガチャリ、と更衣室の扉が開き、安堂が姿を現した。
「おっはよーございまーす」
忍海が元気よくあいさつをした。
ましろの唇に置かれていた指はもう離れている。
「おはようございます」
忍海に続いて、ましろもあいさつをした。
「おはよう、ふたりとも。朝から元気だね」
安堂がふんわりとほほ笑む。
「元気だけがアタシの取り柄ですから。それにしても、オーナー、朝っぱらから更衣室来るなんて珍しいね」
「えーっと、戸田さんに用事があってね」
「私にですか」
「うん、先日の健康診断の結果がでたから、着替え終わったら、わたしのところに取りに来てほしいなぁーって。戸田さんのことで少し訊きたいこともあるし」
「わかりました」
「それじゃあ、よろしくね」
安堂は軽く鼻唄を奏でながら、更衣室から出ていった。
入れ替わりで他の従業員が入ってくる。
「ましろんも早く着替えなよ」
忍海はあくびまじりに言い、ましろの肩をポンとたたき、更衣室から出て行った。
彼女が出て行った後も、ましろはしばらくその場から動くことができなかった。




