Seal95 誰も彼も掌の上
間違いない。
猿がぐるっと身体を曲げて、自分のしっぽをくわえているのだ。
気になっていた些事が解決し、ひとりすっきりしていると、先刻まで気持ちよく自身の小説を語っていた平端が黙り込んでいるのに気付いた。
「どうかなさいましたの?」
針中野が声を掛けると、ピクリ、とその肩が動いた。
さっと平端の顔色が変わる。
彼女は小さな異物を飲み込んだときのように、喉のあたりをひくひくと動かせた。
「……興味がおありですか?」
なんだか様子がおかしい。
外では轟轟と風がうねりをあげている。
指輪をしていない方の手を髪へやり、平端は耳に挟む。
「興味がおありなんですね?」
その言いぶりには、「興味があるかないかを訊いているだけで余計なことは知りたくない」というような苛立ちがあった。
どういった理由かわからないが、平端は針中野の猿という言葉がどうやら気に入らなかったらしい。
「はぁ」
しつこさに辟易し、肯定とも否定ともつかない返事をした。
そうして、ただ猿というデザインの指輪が珍しかったので、声に出しただけだ、と針中野が言おうとしたところ、先に平端が言葉を投げこんだ。
「やはり興味がおありなんですね。針中野さんも猿森黒衣が」
は? という言葉が出るのをかろうじて抑え込む。
小説のページが目の端に入り、平端の勘違いに気付いたからだ。
著という文字ととともに、その四字は羅列されていた。
彼女は当該著者に針中野が興味を抱いたのだと思ったのだろう。
しかしながら、なにかただならぬ雰囲気を感じ取ったため、勘違いを指摘する気にもなれなかった。
「猿森黒衣は私の同期で金賞受賞者です。で、ありながら、授賞式に来ることさえしませんでした」
「珍しいですわね。わたくしは作家という方はあまり存じ上げていませんが、普通は参加なさるものではないんですの?」
「珍しいというよりもほとんどそんなことはありませんが、過去にはあるにはあります。けれども、そういった作家は作家仲間には顔が知られているケースが多いんです。が、猿森黒衣はそうでもないんです。シャイがゆえに作家仲間すらいません。SNSはやっていません。サインとかも絶対書きませんしね。忘年会など来るはずもありません。担当と原稿のやりとりは基本メール、通話であっても加工されていて、年齢さえわかりません。表舞台には絶対出てこないんです」
平端は一拍置くと、また言葉を続けた。
「ほぼすべての作家が彼女の性別、年齢、出身地、容姿さえ知らないような覆面作家なんです」
黒衣。
歌舞伎などで黒い衣裳に身を包み、観客から見えていないという約束のもと、役者の演技を助ける者。
ペンネームの名にぴったりな人物像だと針中野は純粋に思った。
「であるにもかかわらず、うわさでは小説だけにとどまらず、脚本、作詞、フレーバーテキスト、社史等とにかく仕事を選ばずなんでもしているみたいなんですよ」
あえて針中野は平端の話を止めなかったが、正直、自分が知りもしない覆面作家のことなど興味ない、訊きたいことはたったひとつだった。
「狡猾な作家ですよ、彼女は」
ようやく、平端の独演会が終わる。
「少し待って欲しいのですわ。銀杏さんはいま、彼女とおっしゃいましたわね?」
「はい、申し上げました」
「ありとあらゆる作家が性別さえ知りませんのに、どうして『彼女』と性別を特定して使いましたの?」
「そのことですか。唯一、彼女を知っている人から教えていただきました。漫画家ですけどね、……針中野さんもよくご存じの」
「わたくしも知っている? 誰ですの?」
「VOTの貝塚橙子ですよ。猿森黒衣は彼女の古巣の知り合いみたいなんです」
「橙子さんの? たしか彼女はカフェのようなもので働いておられましたわね」
「ブラッスリーですね。けれども、そうではないみたいです」
「そうなんですの」
「はい。まぁ、彼女は専業だと思われるくらい仕事をしているみたいですから、おそらくコンビニかなにかでしょう。時間の都合がつけやすいみたいで、私の知り合いの作家や漫画家でも何人かいますよ」
とんでもない偏見であった。
針中野自身、今池燈を貝塚橙子として採用したとき、履歴書を見たが、それらしい記載はなかった。
ただ、空白の時期があり、本人はフリーターだと語っていた。
にしては、腸詰YUAとして労働安全衛生法に係る漫画を出していたり、衛生管理者試験の対策本にかかわったりもしていた。
休憩時間にほかのメンバーがスマホでSNSやゲームに興じているときも、彼女だけは常に厚生労働省のHPを見ていた。
そういえば、中災防の全国安全週間のポスターにソロで起用されて、これ以上ないぐらいはしゃいでもいた。
そのときの記憶は、針中野のなかにもいまだ鮮明に残っている。
ポスターの内容に触れてほしそうな顔をしていたため、仕方なく標語に書いていた、『エイジフレンドリー』とはなにか、と訊ねた。
『高齢者の特性を考慮したという意味で、令和2年に初めて標語に使われた言葉なんです。針中野さんは高齢者ではないので、まだまだ関係ないですねっ!』
笑顔とともに、彼女はそう答えてくれた。
歴代のポスターに選ばれている芸能人やアイドルは錚々たる面子で、まさか自分が選ばれるとは思っていなかった、と何度も繰り返していた。
そして、完成品を三番目に針中野に見せたかったと言ってくれた。
一番目と二番目は誰かと訊ねたが、二番目は親友で一番目はナイショです、と答えた。
そのとき彼女が見せた笑顔はいまでも忘れられない。
フリーターが労働安全や衛生に思い入れを持つとは到底考えられない。
おそらく、空白の期間に工場かなにかに勤めて、労働安全や衛生に係る職務についていたのだろう。
歳をとったいまでは考えないが、若い女性の一部には工場で働いた経歴が汚点だと思う者もいるのかもしれない。
定かではないが。
「……針中野さん?」
ハッ、として平端にほほ笑みかける。
「面白いお話でしたわ。それはそうとわたくしが猿と言ったのは指輪の方でしたの」
「そちらでしたか。この指輪はですねーー」
半分は聞き流しながら、けれど表面上は一生懸命聞いているそぶりをしながら、相槌を打つ。
ふと黄金とのやりとりを改めて思い出す。
いくつもの判断ミスがあったことは明白だった。
久方ぶりの触れ合いを楽しみすぎた。
日常において、ライプニッツが提唱するような予定調和はあり得ない。賭事と同じだ。
それは針中野にもわかっていた。
だが、ある程度のことがらであればコントロールがきく。
実際、針中野は社長にまで昇りつめた。
けれども、予定調和は破られた。
因子は間違いなくーー
(戸田ましろ)
紫歩が動き始めたのも、黄金が仮面を外し、たとえいっときでも舞台を降りたのも間違いなく彼女が関係している。
自分が仕掛けなければならない計画の背後で、なにかが始まっている。
窮鼠という言葉があるが、追い詰められた猛獣はなにをしでかすだろうか。
しかも、その猛獣が二頭ときたものだ。
冷静に分析しなければならない。
しかし、冷静になどなれるはずはない。
年甲斐もなくいたずらな運命に心をときめかせる。
まるで若者のように胸を躍らせている自身が信じられない。
これだから現実はままならない。
人生は面白い。
心のなかで快哉を叫ぶ。
とともに、頭のなかで、劇的に思考が切り替わったのを感じた。
けれども、世の中には楽しさよりも優先しなければならないことがある。
針中野はやにわに立ち上がった。
びくり、と平端が身体を反応させる。
「また時間があるときにゆっくり読ませていただきますわ」
言い残し、針中野は書架へと歩を進める。
いったい誰が入れ知恵をしたのか?
そして、その者はなにを知っていて、なにを知らないのか。
まぁいい。
いま考えたところで、答えが出るとも思えない。
それに『サン・ジェルマン』とやらの筋書きが狂い始めれば、戸田ましろを物語に介入させた誰かは、排除されるだろうから気にする必要はないのかもしれない。
かつて『パステル』が引き起こした事件で、針中野以外の者をそうしたように。
『サン・ジェルマン』は棋士が指し手を熟考するがごとく未来を読む。
自分たちはあくまでも駒でしかない。
思惑どおりに踊らされている道化者を見て、さぞやほくそえんでいることだろう。
けれどもいまはそれでいい。
平端の本を書架に収める。
ふっと飾っている写真に視線を投じた。
VOTのメンバーが写真のなかで笑っている。永遠に笑っているだろう。これからもずっと。
自分はなにかとても大切なものを失ってしまった。
後ろ向きの願いが心を支配する。
望んでいるのは、あくまでも安寧であり、波乱ではない。
イレギュラーはあったものの、いまのところ、脚本は着々と進んでいる。
しかし、心のどこかで何も起こらないことを願いながら、これから起こるであろうなにかを感じている。
針中野は書架に収めていた孫子を手に取りながら、冷静な思考を巡らせた。
残る問題はあとひとつ。
二頭の猛獣を近くで監視する役だ。
郷間は既にいるのだが、十分ではない。
油断してはならない。
ひとりは生きた伝説で、もうひとりはあの男の娘なのだ。
一挙手一投足を観察する必要がある。
欲を言えば、生間が欲しいところだが……
と、ツァラトゥストラかく語りきという題が目につく。
『汝の敵には軽蔑すべき敵を選ぶな。汝の敵について誇りを感じなければならない』
そうニーチェは説いている。
直感がひらめいた。
人の悪い笑みを浮かべ、人差し指を口に当てた。
絶対に裏切らない人間がいたではないか。
それにあそこには男がいない。
抜群のキャスティングであった。
彼女を利用すること、それこそ自分の利益にかなっている。
針中野は孫子を書架に収めると、室内を歩きはじめた。
「銀杏さんに頼みたいことがあるのですわ」
「私にですか」
「そうですの。銀杏さんにしかできないことですわ」
「私にしかできないこと……」
顔色をうかがう。
平端の目の色が変わったことに気付いた。
「秘書さんでもココちゃんでも、ましてやほかの方ではできない。あなたにしかできないことですわ。やってくださいますか?」
針中野は甘言をつむぎ、あえて平端に背を向ける。
自身に言ってくれるであろう言葉を想像すると、自然と口許がゆるんだ。
平端がすぅと息を吸い込んだ。
瞬間、針中野はシャッと音を立ててカーテンを引き、目の前の街を葬った。




