Seal91 サン・ジェルマン
秘書は無表情のなかにほんのわずかな戸惑いを見せた。
「わたくしの記憶が正しければ、中央省庁再編に伴い厚生省が労働省と統合され、厚生労働省になった結果、旧厚生省の中の一部門が民間委託されることになったはずですわ。そしてうまれたのが、MYO株式会社だったはずですの」
いったん言葉を区切り、十分に間を取ってから続ける。
「その後、弊社はMYO株式会社と業務提携契約及び資本提携契約を締結し、医療事業に関する合弁会社を設立しました。それがSEXY NOVA MYO PLUS株式会社。主たる業務は四つに大別でき、『医薬品製造』、『医療機器の開発』、『酵素を主としたケミカルバイオロジーの研究』、そして、『臓器の創出に係る研究』と聞いていますわ」
秘書の様子をうかがう。
動揺めいたものは、みじんも感じられなかった。
じっとこちらを見つめる様子は、心の通わない動物と向き合っているようでなんだかうす気味悪い。
「お話を先に進めてもらえますか?」
「申し訳ありませんわ」
指摘され、余計なことをしゃべって話が長くなる悪癖が出てしまったと反省しながら、針中野はより核心に迫っていった。
「ただいま、医薬品製造とは申しましたが、そこには向精神薬や規制薬物も含まれていますの」
エアーポンプが発する音は控えめになり、壁掛け時計の秒針が打つ音が強調されるかのように響く。
「そして、代表取締役副社長は、厚生労働省地方厚生局麻薬取締部の官民連携の礎ともいえる、日本薬剤師会会長」
「いったい、なにをおっしゃりたいんですか?」
「フォーリンエンジェル」
その言葉に目をぱちくりさせる秘書を気にも留めずに、針中野は続けた。
「という名称に聞き覚えがありますか?」
「はぁ」
秘書が肯定とも否定ともつかない返事をした。
「そのような名は存じ上げませんね。それにうわさなのであれば、ご自身が社長に就任後確認してみてはいかがですかね」
「そうすることにいたしますわ」
場を沈黙が支配する。
会話が続かなくなり、針中野は右手で左手の爪の甘皮をいじっていた。
すると、声が掛けられた。
「私からなにかを引き出そうと画策しているところ悪いですが、あなたは大きな勘違いをしています」
「どういうことですの」
「私もあなたと一緒ってことですよ。いや、あなたの方がまだマシかもしれませんね」
言いながら、秘書は行き場のない暗い路地のような目を足元に向けている。
「私の首はあなた以上にすげ替えが簡単なんですから」
なんの感情も込めない口調で秘書が言った。
さらに続ける。
「脅すつもりはありませんが、ひとついいことを教えてあげますよ。権力者と言っても、しょせんただの人間なんです。銃で心臓を撃たれれば死にますし、首を切られても死にます。それは人間である以上抗えられません」
小石を放るように、言葉を押し出す。
「そして、普通の人間は罪を犯すことに対して躊躇しますが、われわれのような亡霊と呼ばれる者のなかには、目的を阻害する者には一切躊躇しない層がいます。なぜなら、犯罪をもってやっと人間になることが可能ですから。そこのところを頭に入れておいたほうがいいですよ。あなたも命は惜しいでしょう」
秘書が針中野の目を正面からのぞきこんだ。
「命は惜しいですわね」
針中野は長嘆息する。
「それはそうと、秘書さんの主っていうのは誰なんですの」
「その質問に答えるとお思いですか? それに私はそれとなく申しましたよ、私は替えのきく存在にすぎないと」
妙な言い方だった。
針中野にはすぐに意味がくみ取れなかった。
突然、秘書が床に敷いている天津緞通のうえをゆっくりと歩き出す。
「どういう意味ですの?」
「私自身も主が誰かはわかりかねます」
「わからない?」
「はい。お会いしたことがありませんから」
秘書がバルボティーヌの水差しの前で顔だけ振り向かせ、表情ひとつ変えずにじっと見つめてくる。
耳を疑うような言葉だった。
「意外ですわね。監視報告はいたしませんの?」
「報告はすべてメールで行います。美旗社長のときからそうでした。だから、声も聞いたことがありませんし、性別や年齢、本名さえ知りません」
秘書のそっけない返答に針中野は苦笑をもらした。
「ただ、主の本名はわかりかねますが、『名』自体はあります」
「『名』?」
「われわれのなかだけで使用しており、前任者もそう呼んでいました。『名』という表現が不適切なら、コードネームと言った方が適切かもしれませんね」
「まるで、スパイみたいですわね。なんというコードネームですの?」
「サン」
窓の近く、サボテンの鉢が立ち並んでいる前で秘書がポツリ、こぼす。
「『サン・ジェルマン』です」
不死の象徴、『サン・ジェルマン伯』。
そう呼ばれているからにはなにか理由があるのだろう。
そんなことを考えていると、秘書にはまるでテレパシーのように伝わっていたのか、口を開く。
「私がお仕えしているのは、十年程度ですが、主は前任者のさらに前任者からずっと『サン・ジェルマン』という名を使っているとのことです。それはさかのぼれば数百年前にもなるだとかならないとかで。あくまでもあなた同様にうわさですがね。不死はあり得ないですし。ただ、ひとつだけはっきりとわかっていることがあります」
秘書が唐突に示指を天井へ向ける。
「『サン・ジェルマン』は私たちが絶対にたどり着けない、もっと上層部の者ですよ」
また、ぼこり、と大きな泡がエアーポンプから生じた。
「それは知らぬ間とはいえ、利用されていたあなたが一番ご存じなのでは? パステルの言葉をいまだに一字一句覚えておられるんですから」
「そう……ですわね」
「余計なことは考えず、賢者のままでいる方が賢明ですよ。VOTの事故に関し、警察庁すら動かしたんですから、主は」
「……そうですわね」
「幸いなことにあなたは美旗現社長の首とすげ替えるに足る人物だと主に判断されています。あなたは賢いですから」
「お褒めに与って恐縮ですわ」
「勝手に利用されたとはいえ、パステルの件で表面上あなたは会社の救世主となりました。望めば、本社でいいポジションに就くのもできたでしょう。しかしながら、あなたはあの時代落ち目だったアイドル事業を推進し、その拠点をあえて本社のある東京から離れた大阪にした。まるで、自分はただの狂人で脅威ではないと周りにアピールするかのように。だから、敵もあまり作らなかった」
「買いかぶりしすぎですの。わたくしはそんなめんどくさいことを考えていませんでしたわ。ただ、アイドル事業が面白そうだから、統括プロデューサーをさせてもらっただけですの」
「そうですか。まぁ、いまとなってはそんなことどちらでもいいですが。それより、数日間行動をともにして、主が評価しているのと同様に私自身もあなたが気に入りました。ですので、できることなら永く一緒に居られることを祈っています」
針中野の隣で歩くのをやめた秘書が表情ひとつ変えず、さらりと口にする。
横顔をちらりと見ると、なんでしょう? というふうに彼女は首をかしげた。
「それにしても、ご立派な家ですね」
秘書が窓の外に視線を投じた。
針中野もそちらに目を向ける。
風が木々を揺らす。
敷地をとりまく高い板塀も、この付近ではもうほとんどお目にかかれない。
「まるで、誰かと一緒に住むようだったみたいに」
秘書にそう言われて、ふと黄金にぶつけた言葉を思い出す。
ついに壊れたか、そういった主旨のことを言った。
だが、一番壊れているのは針中野自身を取り巻く世界かもしれない。
日常に覆い隠されて気が付かなかっただけで、世界はもう壊れていた。
「昔のことは忘れましたわ」
二人の間にまた空白が生じる。
が、沈黙を破るかのように、突然呼鈴が鳴り響いた。
待ち人が来たようだ。
「お待たせいたしました」
少しして、来訪者は針中野たちの前に姿を現した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
謝意を表すといきなり、深々と腰を折った。
瑞々しく盛り上がった白い乳房が揺れる。
「お久しぶりです、針中野さん」
来訪者ーー平端銀杏は八重歯を見せて、ほほ笑んだ。




