Seal88 今宵はふたりで円舞曲を
今までまったく見えていなかった未来が、黄金の瞳には映っていた。
ハッとしたものの、表情までは変えなかった。
針中野の背に声を掛けようとして、辞める。
彼女がいまだにアンクレットを装着しているのが分かったところで、状況が変わるわけではない。
飲み込んだ言葉が黄金のおなかでぐるぐるとまわったまま、消化不良を起こす。
「さて、では秘書さんも喫みに行きましょうか」
「わかりました。わたしはたばこを吸いませんが、あなたが行くのならば、行かないという選択肢がありませんので」
「やはり、おたばこはダンヒルに限りますの。そう思いませんか?」
「話、聞いてましたか?」
針中野と秘書が再び歩き出した。
徐々に遠ざかる背中。
どうすればよいか。
必死に考えるが、妙案は浮かばない。
諦めるのは簡単だった。
ただ、このまま終わりたくない。
黄金は状況をあらためて整理した。
針中野は利用されていることを知りながら、何らかの理由で次期代表取締役社長の席にこだわっている。
そして、秘書と呼ばれた女性も針中野が次期代表取締役社長の席に収まってくれるのを都合よく思っている。
両者は、針中野が次期代表取締役社長の席に収まるという点で利害が一致している。
まずは、ここを突き崩さなければ、交渉のテーブルにつかせることすらかなわないだろう。
そもそも、今回美旗現社長は会社の責任を負う形で辞任する。
責任を負う?
予感が兆した。
強いて言えば、これが突破口になるのではないかという、緊張を伴った予感だった。
黄金は自身が最悪の切り札を持っていることを思い出したのだ。
それを切れば、針中野の次期代表取締役社長の座を脅かすことができる。
だが、いまのままでは届かない。
美旗紫歩が求める『明星黄金』のままでは。
喉からくつくつと笑いが込み上げる。
それはおかしくてたまらないから出たものではない。
理由がなければ、一歩も前に進めない自分に対しての哄笑だ。
「ついに壊れましたの?」
針中野が振り返ることなく、黄金に訊ねてきた。
「わりぃな、オレは初めから壊れてるよ」
「どうやら、あなたの賭けは失敗みたいですよ」
秘書がため息をついた。
針中野はなにも返さずに歩き続けている。
「ごちゃごちゃ考えんのは辞めだ、辞め」
黄金は片手で髪をかき上げた。
「話はまだ終わっちゃいねぇよ」
思い切り息を吸い込む。
「アンタと交渉がしたい」
針中野に聞こえていないはずはないのに、彼女が振り返ることはない。
「アンタと交渉がしたい」
同じ言葉を繰り返した。
針中野は歩調を少し緩めた。
「あなたにその材料がありますの?」
払い落とすような言い方だった。
黄金は無言で応じる。
「交渉は互いの力関係が同じでないと成り立ちませんの。交渉などという戯言を口にするのではなく、ただただ利口な身の処し方を考えたほうが現実的ですわよ」
拒絶するように手を振り、針中野の歩調が元に戻る。
ここまでの反応は予想通りだった。
いつの間にかまた、黄金の耳の中で羽音が聞こえ始めていたが、それはどことなく現実味を欠いていた。
遠くなり、近くなりを繰り返し、波のように寄せ返す。
「交渉材料ならあるぞ」
それでも針中野は、何らの反応も示さなかった。
黄金は目をつむった。
感情のスイッチを消し、決められた役柄に専念する役者に戻る。
どこかへ自分を置き忘れるイメージだ。
頭のなかで素早く、先刻作った脚本のページを繰る。
演出家は不在。
役者は二名。
観客は一名。
出来上がってみれば、いまにもくずれそうな橋を渡るような脚本だった。
力の込めかたを誤ったり、わずかな風が吹いただけで、谷底へと転落してもおかしくない。
さらに言えば、この脚本が終わったところで、次の脚本では想像を絶するような苦闘が待っているのかもしれない。
まったく、どこの脚本家が書いた舞台なのか、と文句を言いたくなる。
だが、このまま終わりたくない。
終わらせるつもりはない。
1パーセントにも満たない可能性がある限り、やり抜くしかない。
黄金は音をさせて、息を吐いた。
手を頭の後ろにまわす。
直後、パチン、というなにかを外すような音が廊下に響いた。
そして、黄金は群像劇の舞台の上で、ひとりだけスポットライトを浴びた役者のようにここ一番のせりふを口にした。
「ーー」
誰かに袖を引っ張られて、われに返る。
かつての上司の背は目の前から消え、異常にひきつった顔が、鏡の中から自分を見返しているのに気がついた。
(また思い出しちまってたな)
黄金は、安堵とも脱力ともつかないため息を漏らした。
クイクイ、と再び誰かに袖を引っ張られた。
そちらに目を向ける。
『どうしたの』
そう書かれたスケッチブックを持った紫歩がいた。
『黄金おねむ?』
「そうだな、立ったまま寝ぼけちまってた」
『無理は禁物。おうちへごー』
「仕事がまだ終わってねーよ。それに紫歩だって同じだろ?」
目の下にどす黒い隈をしっかりと刻み込んだ紫歩の顔を、見ながら言う。
『私はこの会社の次期代表取締役。だから、頑張らないと』
ふんす、と鼻から勢いよく空気を吐き出す紫歩。
直後に彼女は、しょぼしょぼした目をこすり、ひとつあくびをした。
黄金はじっと紫歩を見つめる。
あれこれ考えつくし、疲れ果て、ようやくたどり着いた結果だった。
だが、紫歩の表情を見ていると、もしかしたら、最良の方法ではないのかもしれないと思えてきた。
あの時は黄金自身一番いい方法だと考え、清水の舞台から飛び降りたはずなのに。
黄金の交渉により、紫歩は新しくできる子会社の代表取締役となることが決定した。
そして、黄金は代表取締役の補佐役として子会社に残ることになった。
代表取締役になるというのは言葉で言えば簡単だが、実際にはいろいろと面倒な準備事が多い。
くわえて、紫歩はましろのダンスレッスンを引き受けていた。
レッスンがない日もあるが、ほとんどの日中は自分のことができない状態である。
ましろのレッスン後、遅くまで残って自分のことをこなしている。
そのため、祖父である至極から子会社の代表取締役となることを伝えられた日から、まともに寝ていなかった。
『どうかした?』
「なんでもねぇよ」
紫歩の頭にぽすん、と右手を置いて黄金は答える。
「んなことより、なんか用事でもあったか」
『私は飲み物とりに来ただけ』
紫歩が人差し指と中指の間に挟んだペットボトルの水を左右に振った。
『そしたら、部屋に戻る途中、黄金が鏡を見ながら放心状態だった』
「なるほどな」
『黄金、最近変。無理してる感じがする』
「んなことねぇよ。それを言うなら、紫歩の方こそ気張りすぎだ。マジで過労死しちまうぞ」
『アイドル時代の方が大変だった。それに比べたら、全然マシ。それに、わたしはまだ死ぬつもりはない。ましてや、自分から命は絶たない』
仮面の下で片眼の傷がうずく。
会話を聞かれていたのか、紫歩は黄金がついたうそを知っているようだった。
黄金は、ましろにうそをついた。
VOTの事故があった後、命を絶つのではなく、紫歩は進んで、自らの体の一部を壊した。
死よりも重い十字架を背負うために。
紫歩自身が好きだった彼女と同じ景色を見るために。
「ましろについたうそを怒ってんのか?」
紫歩はなにも書かない。
「万が一ってこともあるだろ」
釈明してから、かすかに苦笑して付け加えた。
「それに、世の中には、本人が知らねぇほうがいいこともそこら中に転がってやがる」
紫歩からははかばかしい反応は得られない。
「まぁ、そのなんだ、うそをついたことを紫歩が気にしてんなら、謝る。ごめんな」
黄金が謝罪しても、紫歩の反応は変わらない。
ふいに、紫歩はゆっくりとペンを動かし、黄金の目の前にスケッチブックを差し出した。
『本社に行った日、千草とも会ったんでしょ』




