Seal87 アンクレット
「ひとつ善意として忠告しておきますが、取引先のお相手等が下手に出るのはあなたが偉いからではありませんわ。弊社という看板があり、敵にまわすと怖いから、あなたみたいな小娘に頭を下げてるにすぎませんの」
鋭い言葉だった。
「その点、紫歩さんは違いますわ。美旗現社長の孫娘。そして、VOTの唯一の生き残り」
針中野が一拍おく。
「あなたは、実績もない無名の、担がれた神輿でしかありませんの。ご自分をそういう人たちに重ね合わせて、自分が何かできるなどと過信しないことですわ」
依然として、蜂がブンブンと羽音を鳴らす。
「現実という舞台の上で、誰かの脚本の中でこそあなたは輝きますの」
ふわり、と袖で口許を隠すしぐさをして、針中野はほほ笑む。
その優雅な動きに黄金は一瞬、舞台を見ているような気になった。
「ご回答はすぐでなくてもかまいませんわ。今生の別れになるでしょうし」
黄金はハッとした。
「今生の別れっていうのは、どういう意味だ」
「そのままの意味ですわ。仮にあなたがわたくしのところに来たとしても、子会社は一年で廃止するつもりですの」
「どうしてそこまでして、あいつの居場所を奪おうとするんだよ」
「わたくしたちの計画に、VOTの美旗紫歩(生きた伝説)は邪魔だからですの」
針中野が一点の曇りもない声で言った。
「それに、そう思い悩むことはありませんの。子会社を廃止するとは言っても、会社に利益をもたらすものであれば、わたくしだけの判断で廃止できませんわ。廃止になるとすれば、紫歩さんの力が及ばなかっただけ、言ってしまえば紫歩さんのせいですわ」
たしかにすべてを他人のせいにしてしまえば、楽にはなる。
実際問題黄金自身誘惑に負けて、これまでの人生で人のせいにしたことは一度ではすまない。
が、後味はかなり悪かった。
「片眼を失した鷹に狩りはできませんわ。ましてや、その羽根すらもがれてますのに」
いっとき感じた酔いはもう、ほとんど醒めている。
カルネアデスの板というたとえが自然と黄金の頭に浮かんだ。
いま自身が立っているのは、おそろしい岐路なのだということに気付く。
どちらを選んでも二度と後戻りは叶わない。
「傾きかけた船の中での必死の努力。博打と無謀は異なりますの。乗る船は間違えないほうがいいですわよ。そうでないと――」
針中野はついと手を伸ばし、宙空によたよた飛んできた蜂をてのひらでとらえた。
「沈んでしまいますわ」
針中野は黄金の前でそれを握りつぶした。
まるで蜂は黄金だと言いたげに。
開かれたてのひらから、ひらひらと無残な蜂の亡骸が落ちていく。
「わたくしからのお話は終わりですの。これ以上お話がないなら、失礼いたしますわ」
まるで自動販売機の音声案内かのような、無表情な口調だった。
傾きかけたのは誰のせいなのか。
ひとりでに船がそんな状態になるわけがない。
砂のひとつぶひとつぶを積み上げるような平凡な人生を、この波はいとも簡単にさらっていく。
黙って言いなりになっていれば、よし。さもなければ、さっさとひねりつぶす。
その無情さに唇が震えた。
生殺与奪の鍵を握った存在に視線をぶつける。
トン、と針中野が黄金の顔の横辺りの壁を軽くたたいた。
「わたくしのせいにするのは、お門違いですわ」
黄金の顔色から、それだけのことを読み取ったのだろう。
針中野が笑いながら言った。
「先程もお話ししたように、この最悪の脚本を作りだしてしまったのはご自身ですわ」
黄金は言葉を失う。
苦い記憶が、つぅっと身体の奥を通り抜けた。
たしかに自分は偉そうなことを言えるような場所にはいない。
「あれこれ理由をつけて、わたくしがトップに立つ前に動き出さなかった。ただそれだけですの。わたくしは欲しいものはどんな手を使っても手に入れてきましたわ。脚本を何度も何度も書きなおして。だから、いまあなたの前にいるんですの」
蜂の羽音は相変わらず、黄金の耳のなかで鳴り続けている。
そんなはずはないのだが、耳のなかに蜂が住んでいるようにさえ思えた。
羽音に紛れて、エレベータの到着を告げる音が、黄金の耳に入り込んできた。
そうして、扉が開くと同時に、自身の身体がポン、と押された。
尻もちをつく。
幸いなことに誰も乗っていなかった。
「どれだけいいお話だったとしても、終幕のない脚本は駄作ですわよ」
針中野の面貌には、ただ物静かな一色しか刷かれていなかった。
黄金にくるり、と背を向けて、歩き出す。
呼び止める理由を探して、口を開いたが、なにも出てこなかった。
いまさら最悪の事態の回避を念願しても意味がない。
黄金はうなだれる。
胸の奥のどこかで、黒々とした塊が哄笑している。
お前は無力だ、と。
砂時計の砂はなんらかの事情で早く落ちることはあっても、止まることはない。
もう、動き始めてしまっているのだ。
自分にいまさらなにができるのだろうか。
なにもできないだろう。
ただただ上の決定に従い、仕方がない、と紫歩を守れなかった弱い自分には。
黄金は眼を閉じた。
惨敗だと感じる。
最初から勝ち目のない戦いだった。
一分一秒がひどく長く思える。
「あなたのそれは抵抗でも豪気でもありませんわ、ただの愚行ですの。信じていますの、あなたは賢明な人間だと」
静かな、それでいて通る声で言った。
賢明な人間はどのような判断をするか。
沈んでいく船を乗り捨てる。
ほんとうにそれでいいのか?
それは愚か者の判断じゃないのか?
てめぇは愚か者か?
脳内で誰かが問いかけてくる。
ほんとになにもできねぇのか?
自分でも気付いてんだろ?
引っかかってんだろ?
脳内の誰かが叱咤する。
針中野の行動に関し、黄金が違和感を覚えざるをえないものがあった。
それがなにかははっきり言えないのだが、とにかく、少し違うような気がしてならなかった。
その行動とは、針中野がエレベーターのボタンをすべて押したこと。
黄金の知っている針中野はたしかに無茶苦茶だった。
しかし、その無茶苦茶さが無意味だったことはない。
ガラスを割ったライブもARと現実との虚実を交えた演出のためのものであった。
理由はあってないようなものだと切り捨てたが、落ち着いて考えてみると、そんな彼女が無意味なことをやるわけがない。
それなら、なぜ?
脳のなかが情報で、あふれかえる。
思考を邪魔するかのように、カツンカツンという靴音が黄金の耳をたたく。
眼を閉じたせいで聴覚が鋭敏になったのか、靴音が頭の芯に突き刺さるように響いてくる。
(靴音……靴音……靴音!?)
黄金はあることに気付いた。
なぜ、さっきは気付かなかったのか。
靴音などでるはずがないのだ。
だって、彼女はーー
扉が徐々に閉まっていく。
黄金は顔を上げ、扉の隙間から針中野の足元に目を向けた。
予想どおりだった。
そして、その予想を裏付けるように、
「話は終わりましたか」
第三者の声が耳に入ってきた。
よろよろと立ち上がり、黄金は開のボタンを押した。
『わたくしたちの計画に、VOTの美旗紫歩は邪魔だからですの』
針中野は言った。
わたくしたちの計画に、と。
よくよく考えると、おかしい点がいっぱいあった。
針中野はやろうとしていること、つまり計画の根幹を話してはいない。
彼女が話していたのは、ただの過去の情報だった。
そして、針中野自身はその情報を想起するようなヒントを黄金に与えたにすぎない。
彼女が関わっていると勝手に判断をしたのは、黄金だった。
果たして、一介の副社長が日本全土を巻き込むような計画を成功させられるだろうか。
黄金はさっき、自身さえ針中野の脚本に組み込まれていたのでは、と考えた。
だが、それと同じように、針中野さえも誰かの脚本に組み込まれていたのだとしたら?
もっと言えば、資本金数千億円であるSEXY NOVAの社長さえ、ただのお飾りで、誰かの脚本に組み込まれていたのだとしたら?
エレベーターの扉が開き、針中野にたったいま声をかけた人物を見たとたんに、黄金のなかでそれまで描いていた絵がくるりと反転した。
「影が薄くて気付きませんでしたわ。社長室の前で控えてなくてよろしいんですか?」
「さっきからずっとここにいましたよ、ずっと」
それは社長室の前で黄金に待つよう伝えた、あの秘書であった。
「それにあなたが社長になる以上、あの耄碌じじいは用済みです」
針中野自身の行動が見張られているのだとしたら?
そう考えると、針中野がエレベーターのボタンをすべて押すという謎の行動に、不信感を抱かせないため、という意味が生じてくる。
だが、それはあくまで黄金の頭のなかで構成された仮定でしかなかった。
点がまだ破線になったにすぎない。
なにか、確信が欲しかった。
「あなたはべらべら話しすぎです」
「わたくしはお喋りが好きなのですわ」
「好きなのは結構ですが、うっかりあのことまで話すかとひやひやしました。わたしが怒られるんですから、やめてください」
「別に話してもいいと思いますわ。彼女は結局、わたくしたちの仲間になるんでしょうから」
「仲間ですか」
秘書と目が合う。
「平端係長の方が使い勝手がいいでしょう。彼女はあなたの信奉者なのですから」
「銀杏さんも仲間にいたしますわ。ただ、彼女は従順すぎますの。周囲の人間をイエスマンだけで囲うのは退屈ですわ」
「ですが、役に立ちますか?」
「ココちゃんは記憶力がいいんですの。それに彼女はわたくしと交わした約束は絶対守りますのよ」
「そこを気にかけているわけではありません。あれだけ心を折りにいって、彼女は使い物になるかということです」
「あの程度で心が折れるなら、しょせんその程度で、わたくしたちには邪魔なだけですの。そんな人間いりませんわ」
突き放したような言葉だった。
「金も銀も両方欲しがるだなんて、欲張りですね、今度の王は。それにあなたは現社長に比べて容赦ないです。だからこそ、白羽の矢が立ったのかもしれませんが」
秘書がわざとらしく咳ばらいをする。
「ただ、彼女を秘書に登用するとおっしゃってましたが、この会社の秘書はわたしが務めますので、悪しからず。これまでも、そしてこれから先も」
「第二秘書と言うのもありですわ」
「なしです」
秘書との楽しげな会話から、針中野自身が脅迫されているのではないことは間違いなかった。
いやいや、手伝っている感じはまったくしない。
むしろ、なんらかの目的があって、かつての仲間さえ裏切っているように黄金には思えて仕方ない。
だが、それと同時に無意識のうちに針中野が自身になにかを伝えようとしているように感じた。
話しながら歩いていた針中野が、急に足を止めた。
「どうしたんですか」
「少し鼻緒が痛みますの」
しゃがみこんだ針中野が返す。
「草履なんて履くからですよ」
「和服には草履以外考えられませんわ。かつての部下と会うからには、それなりの恰好をしないといけませんの」
「そんなもんですかね」
「そんなものですのよ」
針中野が立ち上がったとき、彼女の和服の裾がほんのわずか揺れた。
黄金がふと目を凝らしたのは、気の迷いからか、左足でなにかが光ったように思ったからだ。
それがなにか気付いた瞬間、黄金の胸を電撃に近いものが走る。
黄金のなかから、一切の音が消えた。
いや、実際には音自体はある。
秘書は口を開き、生活音はあふれていた。
しかしながら、それでもフロアにあったのは静寂だった。
針中野と黄金が立っている場所だけが、本社ビルのなかで切り離された空間として存在している。
ただ、針中野の左足に光った輝きのみが、彼女と黄金自身をかろうじて結ぶ糸に思えた。
古い記憶が足元から這い上がってくる。
『だから、もしわたくしの心が大人のそれになってしまったときはーー』
--あなたが全力で止めてください。




