Seal86 カラスを白に変える力
黄金が抵抗する余裕も、なにが起きているのか認識する暇すらなく、気が付けば唇に温もりがあった。
舌が小さな生き物のように入り込んでくる。
甘い感触の隅で、紫歩の影がかすめて、黄金は針中野をバッと突き飛ばした。
温もりが遠ざかる。
鼻腔にひどく艶かしい、それでいてねっとりとした匂いが忍んできた。
黄金はあたふたあとずさり、閉じられたエレベーターに背中をぶつけてしまった。
まぶたをしばたかせながら、喉にわだかまっていたうめきを吐息にして漏らす。
当惑の極みに達していた。
そんな彼女の様子を見て針中野は楽しげにほほ笑む。
「うぶですわね。初めてではないでしょうに」
一瞬、間が開いた。
「その反応本当に初めてだったのですか? でしたら、悪いことをしましたわね」
「うるせぇ、どっちでもいいだろ。んなことより、いま何をした?」
「接吻ですわ」
「んなことはわかってる。なんでいまする必要があったのかって話だよ」
「それはなぜで聞くものですわよ」
あきれた口調で針中野が返す。
「かわいらしい唇がそこにあったからですわ」
どこぞの登山家のような回答がかえってきた。
そう言った彼女の口元には、独特の色気があった。
小悪魔的というのだろうが、さっきまでとはまるで印象が違う。
少なくとも五十代の女性が醸し出す空気ではない。
黄金は息を呑む。
「わたくしのもとにきなさい。わたくしならあなたに退屈な物語は提供いたしませんの」
さまざまな思いが、激しく黄金の心の中に渦をまいて流れた。
「これだけ言葉をいい募っても、あなたはわたくしの手を取りませんのね」
針中野がはぁ、とため息をつく。
「どうして紫歩さんにそこまでこだわりますの?」
「それは……」
つい、数分前まで黄金自身のなかにあった答えが、のどの奥で立ち往生した。
「あなたがたったいま呑み込んだ言葉、わたくしが当てて差し上げますわ」
針中野が自身の唇の前で人差し指を立てて言う。
「紫歩さんをひとりにすることはできないから。なぜなら、紫歩さんには自分しかいないから」
黄金の心の柔らかな部分をあやまたずグサリ、と刺してきた。
「本当にそうですの?」
問われて、黄金は口ごもる。
ふたりの沈黙をあばくように、蜂がブンブンとやかましく羽音を鳴らす。
「あなたは紫歩さんの時は動き出した、とおっしゃいましたわね。そのきっかけとなったのは、誰ですの?」
誰か。
黄金ではないことはたしかだった。
だったら、誰なのか。
「果たして、三年間も時を止めていた人間が、紫歩さんの唯一の理解者になりえるんですかね」
なりうる。
なりうるからこそ、三年間、紫歩のそばにいた。
必死に言い聞かせる。
依存しているのは、彼女の方なのだと。
「あなたは紫歩さんに自分しか理解者はいないと思い込ませていただけですわ」
逃げ道をふさがれて難詰されるので、心のなかでただただ首を振るしかない。
黄金は自分の胸に問い直した。
紫歩をひとりにすることは、どうしてもできない。
彼女には、黄金しかいないのだから。
いや、違う。
そう思いたいだけかもしれない。
頭では理解していたのだ。
だから、言葉を呑み込んでしまった。
針中野に対してではなく、黄金自身に対して。
誰が紫歩の時を動きださせたのか。
決まっている、かつてVOTで紫歩の理解者であった輝赤を身内に持つ戸田ましろ。
実際、ましろがアイドル事業部にきてから、紫歩は水を得た魚のように生き生きとし始めた。
人形のように毎日毎日過去を見つめる生活は一変した。
それは、黄金にひとつの事実を突きつけた。
紫歩は黄金がいなくても大丈夫なのだ。
むしろ、彼女を過去に縛り続けていたのは黄金自身だったのだ。
思い出のなかで、何もせずにただただ一日中写真を見続けているのは、まともではない。
それに気付いていながらも、三年間紫歩が望んだ答えだけを与え続けていた。
自分たちの前にましろが現れなければ、毎日、同じ日々がこれからもずっと続くに違いなかった。
昔の黄金と同じように。
そして、いつかきっと後悔するのだ。
たったいましているように。
「一緒に溺れるのは思いやりなんかではなく、ただの自己陶酔ですわよ」
針中野の言葉が耳奥に響く。
「あなたはただ、空白を自分以外の誰かで埋めたかっただけですわ」
それはまるで呪いの言葉だった。
醒めた目でこれまでの自分の所業を眺めさせられる。
自分の考えが勝手に自己増殖していき、引き返せなくなる。
そうかもしれない、そうに違いない、という考えが突然頭をよぎったのは針中野のせいだった。
彼女の言葉はカラスを白に変える能力がある。
そういう魔力のようなものを、秘めているようだった。
黄金は黙ってしまった。
しばらく沈黙が続いた。
「紫歩さんもあなたももう苦しむことはありませんの。お二方で幕引きが出来ないのなら、わたくしが代わりにして差し上げますわ」
包み込むような声だった。
「アイドル事業部は廃止し、子会社もなしにいたしますの」
針中野がなにを言ったのかわからなかった。
その疑問は一瞬の虚のなかをとおりすぎ、知らず知らずのうちに歯を食いしばっていたことを知らせた。
「待てよ、話が違うじゃねぇか!」
黄金は自身の声が震えているのがわかった。
「気が変わりましたの。わたくしはあなたを救いたいだけですわ」
「救いなんかじゃねぇよ! あそこは紫歩の唯一の居場所なんだよ! ましろが来て、あいつの時はほんとうに動き出したんだ!」
「紫歩さんがいまの話にどう関係ありますの? わたくしはただあなたが欲しくて、あなたを救いたいだけですわ」
感情のありかがつかめぬまなざしだった。
黄金はなにも言い返せなかった。
本人の内側で純粋な親切心として立ち上がっている感情を、他人がどうこうすることはできない。
「それに、紫歩さんはお強いですわ。ひとりでもどうにでもなりますの。居場所? 勝手に見つけますわ。あなたと違って」
針中野が白々とした冷たさを鼻先に浮かべた
「……もう、子会社化は決まったことなんじゃねぇのか」
「そんなもの取締役会でどうとでもなりますわ。実際、アイドル事業部は万年赤字ですし。わたくしから補足説明すれば一発でつぶせますわ。美旗現社長も今まで好き勝手やってましたけど、社長職を降りれば、数の暴力には勝てませんの」
聞きながら、黄金は途中から心地よく酔っていた。
自分はまだ小娘で、針中野の術中にはまっている。
紫歩のために怒ったのか、ただそのようなポーズをとっただけなのか。
それさえもわからなくなりそうだった。
黄金は髪をかきあげた。
「どうして、そこまでアンタはオレにこだわるんだ」
先刻似たような質問をしたが、黄金のなかでまったく違う回答が返ってくる確信があった。
いまこの状況ならはぐらかすはずがないと。
そして、それが本当の理由だと。
その理由いかんによってはーー
「あなたがわたくしの若いころにそっくりだからですわ。境遇もすべて含めて」
清潔で穏やかな微笑が、針中野の頬に広がる。
そこには黄金が憧れたかつての上司の姿があった。
だが、それは一瞬でなりを潜めた。
「おしゃべりがすぎましたわね」
針中野がわざとらしくせき払いをする。
「それでも、あなたがわたくしのもとにくるのを、紫歩さんへの裏切り行為だとためらっているのならば、条件を出して差し上げますわ」
「……条件?」
「あなたさえわたくしのもとに来ましたら、もと言ったとおり、アイドル事業部は子会社として残しますの」
蜂が黄金の顔の近くをうるさく飛んでいた。
「これならば、紫歩さんを守るという大義名分にもなるでしょう」
勝利を確信した声は、静かで、自信に満ち、黄金への憐憫すら感じられた。
「美旗現社長におっしゃったように、退職するのも大いに結構ですわ。ただ、その場合は敵とみなし、わたくしがあなたからすべてを奪い去りますの。かつて、『望月項子』がしたように」
黄金の全身の皮膚が一斉に反応して粟立つ。
針中野は本気だった。




