Seal78 死の猟狗
「……アイル、ごめん」
ういが突然ぽつり、とこぼした言葉に、回線の向こうで、わずかに息をのむ気配がした。
「なにに対しての謝罪ですか? ういさんの方こそ酔っぱらっているのではないですか?」
「ミネラルウォーターじゃさすがに酔えない。なり行き上とはいえ、ギョウのことを悪く言ったことに対しての謝罪」
「そのことですか。愛に盲いた哀れな人間、愚妹を的確に表した言葉ですね。さすがの洞察力です、ういさん」
小月はいともたやすく言ってのける。
ういは知らず知らずのうちに、拳を握りしめた。
「ふざけてるの?」
「ふざけてなんていませんよ。愚妹は愚妹に違いありませんから、言われても仕方ありませんし、事実を述べたことに対し謝罪してもらおうだなんて思いませんよ」
「でも、身内が言うのと、他人が言うのとでは意味合いが異なる」
「そうかもしれませんね。けれども、ういさんのは愛のある悪言ってことはわかってますし。そんなことよりうちは、違うことに怒ってますよ。もう、ぷんぷんです」
「……アイルやっぱり酔っぱらってる? なに違うことって?」
「そんなの決まってるではありませんか、当然ましろさんの下着のことですよ!」
キマってるのはアイルの頭じゃないの、という言葉をなんとかのみこむ。
「ういさん、なぜましろさんにいま身に着けている下着の種類を聞いていただけなかったんですか? うち、あれだけメッセージ送りましたよね?」
「うん、迷惑なぐらい来てた。だから、うるさいって言ったぐらいだし」
「でしたら、なぜ?」
「言わないとわからない?」
「はい、まったくわかりません。今日どのようなショーツとどのようなブラジャーを身に着けているか、訊くだけですよ。簡単ではないですか」
一般人であれば説明する必要もないことをいまから説明するにあたり、ういは残っていたミネラルウォーターをすべて飲み干した。
「アイル、その発言は完全にアウト。唐突に今日の下着の種類を訊くのは、ただの狂人。わたしは狂ってるかもしれないけど、そういう狂い方じゃない」
「どうしてですか? 狂ってなどいませんよ。かの有名な映画監督、フランソワ・トリュフォーの生涯に関し記載された本にも、下着の描写は出てきていますよ。下着と人間の人生は切り離せないものです。だから、日常会話で出てきても、なんらおかしくはありません!」
「それはただ、映画館で性行為に励んでいた女性の下着が座席の下から見つかったってだけの話でしょ……」
「よくご存じですね」
「アイルが何度も話すから実際に本読んだら、ほんとうにそう書いてあって衝撃的だったから覚えただけ」
「そうでしたっけ? にしても、映画の上映中に行為にふけっていれば、周りは気付くと思うんですがね」
「そんなのシたことも見たこともないから知らない。いつまでその話を引っ張るの?」
「ういさんが、ましろさんが身に着けている下着を訊いてくれないからですよ」
「だから……」
言葉を途中で止め、ういは、ため息ともつかない息をはき、身体を反らして、椅子の背にもたれかかった。
「そんなに気になるの?」
「はい、もちろん気になりますよ。親友とも呼べる存在がうちの心血を注いだ下着を身に着け続けていてくれているなら、それは至上の悦びですから」
「至上の悦びね……」
返しながら、印刷し終えたましろの写真を手に取り、眺めた。
まだ幼さの残る体躯を、アラベスク模様のレースをあしらった黒い下着が包んでいる。
毒気や作為のない、無邪気なかわいさが全身から漂っている。
彼女によく似合っていた。
「はい、至上の悦びです。だから、今度は訊いてくださいね」
鼻息荒く、その下着をデザインした張本人が繰り返した。
「今度訊く必要はないと思うけどね」
そう言って、ういは右手の人差し指でましろの顔をパチン、と弾いた。
「ういさん、それはどういうことですか? ういさんはご存じなんですか」
その質問には答えず、ういは笑いをかみ殺すように一呼吸置いた。
「そういえば、アイル、あの話はほんと?」
「ういさん、話をそらさないでください!」
ため息をつく。
諾々と聞きようものなら、きりがない。
いつまでも下着談議に花を咲かせる気力も湧かなかったため、無視して一方的に告げた。
「明星黄金と接触した話」
「ういさん、無視ですか? 無視なんですか? ……って、そう、明星黄金様といえば、ういさん聞いてくださいよ! あのお方、うちのことを――」
「歳下とまちがえたんでしょ」
ういは、小月の言葉を引き取った。
「そうなんですよ! さすがにうちをつかまえて歳下ってありえ――」
小月の話を耳で聞きながら、ういはポケットからまたピスタチオの袋を取り出した。
黄金と小月の接触は、可能性を理詰めに考えることを習慣付けている彼女にしてみたら、なにかがおかしかった。
たしかに小月が黄金の姿を一目見たいとあまりにもしつこかったため、接触できるかもしれない方法は伝えた。
それが黄金が新幹線に乗るときはいつも同じ席に座るため、隣の席を予約すればいいことだ。
一応、情報を集めた結果知りえたことであったが、あくまでも憶測の域を出ず、また、相手がどの時間に乗るか不明であるため、偶然を期待する、実に不安定で馬鹿げた方法だった。
その馬鹿げた方法で、小月は黄金に接触した。
決して、不可能とは言わない、しかし、現実的ではない。
まだ何も首を突っ込んではいない。干渉を受けるおぼえもないし、思いつかない。
ある程度信頼できる関西のよろず屋に、調査依頼を出しているに過ぎない。
けれども、ういの胸の中には、いやな予感が、黒雲のように沸き上がってきていた。
他人が使った櫛で髪をとかされているような気分だった。
(神がかり的な偶然? あるいは……)
ぴしりと固まったういに構わず、楽しそうな声音で小月は話続けている。
持たなくてもよいはずの疑いが、懐で膨れている。
頭を振り、通話しながら、プレイヤーから小さい音で音楽を流し始めた。
三つのジムノペディ、音楽界の異端児エリック・サティの曲だ。
ういは考えごとをするときと執筆中は基本的にサティの曲をかけていた。
環境音楽は、思いをめぐらせ、脳髄を酷使する際にかなり役立つと彼女は考えていた。
音が暗い想念の中から彼女を引き戻す。
早急な結論を出すのはまだ早い。
仮に黄金と小月がつながっていたとしても、そこにあるであろう利害関係がつながらない。
『ういういはもう少し他人を信じたほうがいいよ』
かつての同僚の言葉がふいに脳裏によみがえった。
「わかってる」
「――わかってる?」
ういの口から飛び出した言葉を、小月がおうむ返しに繰り返した。
「ううん、なんでもない」
ういはピスタチオを袋の中から取り出した。
「でも、ういさんの言うとおりでしたね。さすが、インターネットストーカーの異名を持つういさんです」
「ちょっと待って、そんな異名初めて聞いた」
ピスタチオの殻を剥く。
「それはそうだと思いますよ。うちが勝手に呼んでるだけですからね」
「せめて、アームチェアディテクティブかインターネットディテクティブにして」
勢いあまってピスタチオを落としてしまった。
「いやいや、ういさんにぴったりではないですか、インターネットストーカーという言葉は。インターネットを通じてなんでも情報を仕入れてくるんですから」
「わたしの情報源は、インターネットだけじゃない。というよりインターネットの方が少ない」
「そうなんですか? うちは、ずっとハッキングでもしてるのかと思ってました」
心底驚いたような声で小月が言う。
「そんな危ない橋は渡らない。それに、フィクションの中で出てくるハッカーは万能魔術師みたいに描かれてるけど、実際には違う。前提として、プログラミング技術が身についていないと不可能」
「だとすると、衛星通信のハッキングというのはすさまじい技術が必要なんですね」
「うん。そんじゃそこらのハッカーじゃきっと無理」
「うちたちが捕まえようとしてる相手は、そのそんじゃそこらじゃない相手だということですね」
「そう」
ういは、2020年代に発生したとある衛星通信ジャック事件を思い出し、唇をかみ締めた。




