Seal76 自己満足で正義の味方気取り
「ごめんね、ういちゃん」
「なんで謝るの?」
「だって、私のせいでういちゃんもアイちゃんに嫌われちゃったから」
「しろのせい? それは違う。わたしが決めて、わたしが行動した結果、そうなっただけ。わたしの行動は全部自己満足で正義の味方気取り」
「でも、……」
また、ましろの耳にぽこん、というメッセージが届いたような音が入ってくる。
「それに、わたしはアイルに嫌われたとは思ってないし、しろもアイルに嫌われていないと思う」
「えっ」
ましろがそう返した瞬間、いままで気にも留めない程度の音で稼働していた洗濯機が、すさまじい音を立て始めた。
「うるさい。静かにして」
「ご、ごめん」
洗濯機を一時停止しにいこうと、ましろは立ち上がろうとした。
「あ、ちがう。いまのはしろに言ったわけじゃない。洗濯機のは生活音。だから、仕方ない。ただ、夜にするのは近所迷惑になるから、今後は気を付けた方がいいかも」
「そうだね。眠ってる人とかいたら、起こしちゃうもんね」
浮かしかけた腰を沈めながら、ましろは返答した。
「話を元に戻す。『嫌ってないです』、きっと、アイルはしろに質問されたらそう言うと思う」
「そうだったら、うれしいけど……」
ましろは、缶に手を伸ばし、口に運んだ。
今度はきちんと飲んでいる実感があった。
「それにすべてが終われば、わたしたちの関係はきっと元に戻るはず。終わりよければ、すべてよし」
自身の知っている映画の結末を話すかのような口ぶりだった。
「うん、そうだね。そんな未来が来るといいね」
再び二人の間に横たわりかけた沈黙を押し割るように、ういが口を開く。
「この話はこれでおしまい。辛気くさい話ばかりでテンション下がる。久々なんだから、なんかわくわくする話が欲しい」
「わくわくする話かぁ……」
「もしくは、さっきみたいな、しろがわからないことでもいい。なんでもいい。即答できない場合、また調べて連絡するし。どーんとこい」
「わからないこと……」
わからないことは無数にあったが、ましろは意識のなかで引っ掛かっていたことを口にした。
「そうだ! ういちゃん、シレーヌって意味わかる?」
「シレーヌ?」
「うん。ちょっと気になってる言葉なんだけど、ういちゃんなら知ってるかなって」
「シレーヌ……シレーヌ……。しろは、ギリシャ神話はわかる?」
ういが突然おかしなことを訊いてきたので、ましろは面食らう。
「細かいところまではわからないけど、ある程度は知ってるよ。ギリシャ神話がどうかしたの?」
「それなら、セイレーンは?」
「セイレーンって、ギュスターヴ・モローがいくつか主題で描いてるあのセイレーンだよね?」
ましろはなぜそんな話題になるのかと、不思議に思いながら聞き返した。
「だよね? って言われても、モローさんをわたしは知らない。セイレーンは主として顔が人間の女性で、身体が鳥の生物。オデュッセウスが帆柱に縛られたまま、通りすぎたので有名」
「あー、その場面をモチーフにした絵画なら、見たことあるよ。だとすると、ういちゃんには、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスって言った方がわかりやすかったよね」
「ウォーターハウスさんも知らない」
ういの返答にましろは、また悪い癖がでてしまった、と苦笑する。
「そっか。それで、セイレーンがどうかしたの?」
「シレーヌ」
「どういうこと? セイレーンはシレーヌじゃないけど……」
「セイレーンは、フランス語でシレーヌ」
「そうなんだ! じゃあ、顔が女の人で身体が鳥っていう人がいるってこと? でも、そんな人現実では見たことないし。そもそも、そうなったら人ってもう呼ばない気も……うーん、ますますわからなくなっちゃった」
「仮にセイレーンのことだと考えても、見た目が似てるからシレーヌって呼ぶのはあまりにも発想が安直だし、違うと思う。ひとつの単語のひとつの意味だけで考えず、別の角度から見れば、違った様相を呈する。たとえば、セイレーンの要素を抜き出すと、顔が人間の女性で、身体が鳥。逆に顔も身体も同一の生物のものだったら、セイレーンなんていう御大層な名前はつかない。ここから、二重人格だとかふたりでひとりの人間だとかいろいろ想像もできる」
「二重人格……ふたりでひとり……」
「あくまでいま挙げたのは例だから、参考になるかは疑義が生じるけど」
「ううん、そういう考え方もあるって知れただけでも、一歩進んだかも」
それにしても博識な人だ、とましろは感心した。
ういと話をするたびに、何か新しい発見がある。
「……ういちゃん、ありがとうね」
「それはなんに対しての感謝?」
「いろいろなことに対してかな。いまのも含めてだけど、私にいつも協力してくれてるし」
「それについては感謝なんてする必要はないし、感謝して欲しいとも思わない。わたしが好きでやってることだから。しろのアイドルになりたいっていうのに協力したのも、アイドルになって、輝赤がやり残したことをすることで、しろが未来に進めると思ったから、ただそれだけ」
洗濯機がピピピピピ、と終わりを告げた。
だが、ましろは立ち上がれなかった。
妙に落ち着かない気持ちだった。
「わたしは誰かの味方になるつもりもないし、誰かの味方になりたいとは思わない。さっきも言ったけど、わたしの行動は全部自己満足で正義の味方気取り。誰にも縛られず、自由に生きる。わたしを縛るのは法律と締切だけでいい」
「いかにもういちゃんらしいね」
「そうじゃなきゃ、生きてる意味がない」
「ういちゃんは、強いね」
(私と違って)
耳に反響する自身の声がかすれ始めたのを感じ、ましろは奥歯をかむ。
「ういちゃん、仮に……仮にだよ、私がアイドルになることが未来への一歩じゃなかったらどうする?」
回線が断ち切られたような沈黙が、三秒ほどあった。
遠くでかすかに救急車のサイレンの音がしていた。
「……しろ」
「なに?」
ういの言いかけた言葉は宙に浮いた。
「ういちゃん?」
「過去に戻りたいと思う?」
問われても、頭のなかが真っ白でましろは言葉が出てこない。
彼女はましろの心を見透かしたように言い添える。
「どんな過ちも時が解決してくれる。なんて無責任なこと、わたしは言わない。事実、わたしが知ってる範囲でも傷を抱えたまま、生涯を閉じた人もいるにはいた。けど、ーー」
ーー過去は決して未来と引き換えにしてはいけない。
ういの言葉はましろの中に、小石を投げ込んだような波紋を生んだ。
臓腑を突き上げてくる感情は、おさえがきかなくなっていた。
「それだけは頭に入れておいた方がいい。しろはもう少し自分のことを最優先に考えるべき、わたしみたいに」
優しさは心にむしろ重荷として沈殿していく。
徐々に徐々にサイレンが近づいてきた。
キーンと耳鳴りがした。
ましろの頭にズキズキとした痛みが走る。
「……ういちゃん、私は……私は」
痛みに耐えながら、なんとか返答しようともがいているうちに、ういがそれじゃあと言って、通話を切った。
サイレンの音がどんどんと遠ざかり、頭の痛みもうそのようにひいていく。
ましろは、さしたる量も残っていなかった缶のお茶を嚥下し、静まり返った部屋を見渡す。
胸がしんと冷えてきた。
たとえようもなく暗い穴がぽっかりと身体のどこかに空いてしまったようだった。
ましろは、無意識のうちに止めていた息を吐く。
無臭だったはずの室内に、昔の記憶を呼び起こす生臭さを感じた。
自分の胸にくすぶるものをもてあまし、外の空気を吸いたくなった。
空き缶を机の上に置き、ベランダに出ると、やわらかい春風が吹いていた。
ましろは意味もなく下を見てみる。
遠くを流れる車の赤いランプをいくつか追った。
「なんでこんなことになっちゃったのかなぁ」
風で首筋に絡みついた髪を、指先でほぐしながら、ため息まじりにましろはそう言った。
からん、と音を立て、室内の空き缶が倒れた。




