Seal75 愛に盲いた哀れな人間
「れん……あい?」
「うん」
「失恋でもしたの?」
「いきなりステップ飛ばしてきちゃったね。まだ、始まってすらないよ。ちょっといろいろ考えることがあって」
「友達とかの話で出てきたの?」
「そんな感じかな」
答えながら、ましろはふと喉の渇きを感じた。
「さすが華のJD。恋愛話がでてくるあたり若さを感じる」
「それって若さ関係あるのかな?」
やりとりをしながら、ましろは立ち上がった。
「関係ある。わたしが仕事場で話す世間話っていったら、スーパーのお得情報ぐらい」
「それは少し特殊ケースなんじゃないかな」
ぺたぺたと足音を鳴らし、箱買いをした缶のお茶を手に取ると、クッションの上に腰をおろす。
耳にスマホを押し当てながら、片手で缶を開けようとした。
いままでの癖で短く切りすぎた爪のせいか、なかなか開かない。
「話がそれちゃったけど、ういちゃんは恋愛ってどういうものだと思う?」
「恋愛、恋愛、恋愛。……スタンダールは随筆集『恋愛論』において、恋愛を4種類に大別した。情熱的恋愛、趣味ーー」
「ういちゃん、ストップ!」
「なに、しろ? 恋愛を知りたかったんじゃないの」
「そうなんだけど、そういう定義みたいなんじゃなくて。なんて言うのかな……、えーっと、えーっと……」
「オッケー。しろがいま考えていたことわかった」
「ほんとに? さすが、ういちゃん!」
「……プラトンは著書『饗宴』において、恋とは善きもの――」
「ういちゃん!」
「説明は最後まで聞くものって学校で習わなかった?」
「習ったけど、習ったけどさ、私が求めてるのはそういう抽象的な話じゃなくて……」
「……だったら、なに?」
「それがわからないから訊いてるんだけどね。なんて言ったらいいんだろ。実際のお付き合い的な」
「お付き合い」
ういが答えにつまった。
通話越しに呼吸や心臓すらも止めているような気がした。たまりかねて、口を開く。
「ういちゃん、聞こえてる」
先刻から片手で開けようとしているものの、ふたのリングがなかなか起き上がらず、指が何度も同じ場所を行き来する。
洗濯機がおとなしいため、缶を開けようとする時に発せられるざらついた音が静かな空間でひたすら耳障りだった。
ういがスマホ越しに小さくため息をつく。
「それはわたしにとって、難しい質問。恋愛をいままでしてこなかったって言ったらうそになるし、付き合うっていう行為も人並みにはしてきたつもりだけど、答えはわからない。……ギョウならわかったかもしれない。彼女は愛に盲いた哀れな人間だったから」
「哀れな人間って……」
ましろは眉を寄せた。言い方がひどく不快だった。その言葉に憤慨するが、正しい怒り方がわからない。
次の台詞を考えあぐねる。
「哀れな人間って言葉が気に入らない? だったら、大馬鹿者」
「いくらういちゃんでも、友達にそんな言い方はないんじゃないかな」
だんだん声が尖ってくるのは、やむを得なかった。
ギョウはましろにとって大切な友達のひとりだったからだ。
そして、ういもまたましろが知っているかぎりでは、ギョウの友達に違いなかった。
「友達?」
沈んだ声に怒りが隠れているように、ましろには思えた。
「そうだよ、友達だよ」
念を押すように、ましろが言う。
少し長めの沈黙があった。
「……誰かを好きになることは仕方ない。それはわたしも理解できる。でも、好きな人のために自ら命を絶つのは到底理解できない」
不自然な沈黙を挟み、ういは同じような口調で続ける。
「ましてや、その苦しみや悩みを周りになにも相談せず、この世からリタイアしたそんな彼女をわたしはいまでも友達だとは言いたくない」
問答無用という感じで冷たい返事が返ってきた。
口を動かしかけたが、気持ちの方が先行して、言葉を見つけられなかった。
それはあまりじゃないか、とましろは身体を固くした。
頭部が熱でじんじんとしびれる。
反比例するように身体から熱が去る。
頭蓋内部は、加熱でいまにも爆発しそうだ。
「わたしは友達に裏切られたとは思いたくない。だから。彼女は友達じゃない」
言葉に、失望やら怒りやら、悲しみといった類のものを空の瓶につめて乱暴に振ったような、種々の感情が混じりあっていた。
「でも、よくよく考えてみたらギョウにとってもわたしたちはみんな友達じゃなかったのかもしれない。誰にも相談ができるような環境にはいなかったわけだし」
自分に言い聞かせるようにういがつぶやいた。
紡ぎ出される会話の底には、やりきれなさがにじんでいた。
肺の中にざらついた感覚が広がっていく。
怒りはすっかり去っていた。
下唇を噛み締める。
大切な人を立て続けに亡くしている彼女が、心を保つためのうそ。
友達だからこそ、友達だと思いたいからこそ、友達じゃないと言い張っているようなそんな気がした。
「……ギョウちゃんと言えば、アイちゃんは最近どう、元気?」
物思いに沈むういの気をなんとか引き立てようと言ったあと、なにかいやな予感がした。
言ってしまってから、ましろは漠然と口からこぼれた言葉を拾い集めたい衝動に駆られた。
ういはその名前を持ち出すと、黙りこんだ。
またメッセージが届いているのか、気の抜けた音がましろの耳を打つ。
ややあって、まるでその問いを待っていたかのように、深く息を吸う音が聞こえた。
同時にカチャリ、という音をたて、ふたのリングが起き上がった。
「わからない」
「わからないってどういうこと? 私はアイちゃんに嫌われちゃったけど、ういちゃんはーー」
「わたしもアイルと連絡とってない」
自分の意思とは関係なく言葉が滑り出てしまったかのような言い方だった。
本人もそれが気になったのか、やや間があって
「あの日から」
と、つぶやいた。
「ほんとに?」
意外なことのなり行きに、まず言葉の真実性を疑った。
「ほんと」
何かにひびが入る、という感覚がましろの身体の中をゆっくりと過ぎた。
ましろ自身、関西に出てくるにあたって、アイルと特別ないさかいがあったわけではない。
だが、いさかいがないことがかえってふたりの溝を深めた。
ましろがアイルにアイドルになることを告げてから、山口県を出るまで、結局彼女に会うことはおろか話すこともなかった。
会わなくなってから、なんとなく気おくれがしたため連絡をとらなかったが、彼女がどうしているかに関し、ずっと気にはかけていた。
だからこそ、ういに現状を訊いたわけであったが、彼女すらも音信不通状態だという事実にましろは声も出なかった。
缶を持つ指先に力が入り、倒しそうになるのをなんとか防ぐ。
沈黙は苦笑に変わった。
「そっか。……それって、私のせいだよね」
ましろは缶から手を離し、深爪にしてしまった指をぼんやりと眺めた。
「私がアイドルを目指すためにみんなを裏切ったから」
「別にしろのせいじゃない。わたしは裏切ったなんて、思ってない。遅かれ早かれこうなってたと思うし。それがたまたまあのタイミングだったってこと。それにアイルは一応副社長だし、わたしもあの後から時間作るのが難しくなったたから、あの日バラバラになってよかったのかもしれない」
「よくないよ!」
声が震えながら、意外なほど大きく響く。
「よくないよ……」
部屋に立てかけていたギターに視線を移す。
ギターケースの一部がくすんで見えた。
「だって、あの場所はみんなにとっても大切な場所だったもん。それを私のわがままで……」
「よくないって言っても、輝赤と同じアイドルになるっていうのは、しろの夢だったはず。夢を叶えるためには、犠牲はつきもの」
「そうだけど……」
リングの起き上がった缶に手を伸ばし、ましろはそれを口に運んだ。
が、からからに渇いた喉を潤すはずの液体がそのまま胃に落ちていったかのように、依然として渇きは続いたままだった。




