Seal74 脚本
ましろが肩まで湯船につかると、体積を増した湯が滝のようにザーと湯船からこぼれた。
天井にため息を吐き出す。
忍海と公園で話を終えた後、偶然会った千歳も含めて、食事にいった。
どこの店に行ったか、何を食べたか、はっきり覚えていない。
食べ物の味がまるでしなかった。
その後、どうやって戻ってきたのか、記憶がない。
いつの間にかましろは自宅にいた。
てのひらで湯をすくう。
考えれば、考えるほど今日一日の出来事が夢だったのではないか、とましろは疑いたくなる。
が、それがたしかに現実であったことを示すかのように、獰猛な肉食獣に襲われ逃げ帰ったような疲れが残っていた。
さら湯がちくちくと肌を刺す。
「いろんなことがありすぎだよ」
一言つぶやき、勢いよく湯船から立ちあがり、頭と身体を洗った。
湯と泡が生き物のように身体を滑りながら、排水口に流れ落ちていく。
風呂からでると、換気扇を回す。
下着と服を身に着けると、洗濯機に今日着ていた服を放り込み、洗剤を入れスイッチを入れた。
スキンローションで肌をおさえ、ナイトクリームをすりこみ、ため息をつく。
忍海と千歳ははたから見ればお似合いのカップルだった。
似合いすぎていた。
お互いの身体に牙を突き立て、傷付けあっているというところ以外は。
ましろが考える普通のカップルのそれと違う気がした。
にもかかわらず、心以上のものでつながっている気がした。
だが、それがなにとまではわからない。
アップにしていた前髪をおろし、ドライヤーを手に取って、スイッチを入れた。
噴き出す温風からほこりの焦げるにおいがする。
ふいに気の抜けた音が連続して、ましろの耳朶を震わせた。
ドライヤーの電源を切り、音の方へ向かう。
スマホを手に取ると、画面にふたつのメッセージが届いていた。
示し合わせたように同じ時間。
一件は忍海で、もう一件は千歳だった。
対照的な言葉遣い、文章構成、見ばえであったが、逆にそこに他の者が決して侵すことができないなにかを漠然と感じる。
自然とスマホを持つ指先に力が入った。
と、突然スマホが震えた。
驚いて、ましろは熱いものを急に持ってしまったときのように、勢いあまってスマホを空中に放ってしまう。
がん、と床に落ちた瞬間、懐かしい声がスマホ越しに聞こえた。
「お疲れ様」
「う、ういちゃん!?」
架電してきたのは、ましろの地元の親友であるういであった。
「しろ、少し声が遠い」
指摘を受けて、ましろは慌てて、スマホを耳に押し当てる。
「ごめん、ういちゃん! これなら大丈夫?」
「ちょうどいい声量。突然、ごめん。いま、時間ある?」
「髪乾かしてただけだから、問題ないよ! ういちゃん、元気だった? 私になにか用事?」
「タイミングが悪かった。ごめん。わたしは元気。用事というほどの用事じゃない。ただ気になったことがあっただけ」
「気になったこと?」
「そう。……わたしの脚本役に立った?」
即答できなかった。
聞こえてる? とういの催促する声が聞こえた。
「うん、役に立ったよ」
声がかすれる。
喉の奥に自分を罵倒する言葉がせりあがってくる。
アイドルになるためにがむしゃらだったのは否めないが、なんだか胸にしこりが残っていた。
「それならよかった。でも、意外。量は少なかったとはいえ、よく覚えられた。すごい」
「その状況を想定しながら紙に書いてたから自然と覚えちゃったよ」
回答の直後、やや間があった。
「……しろ、その書いた紙どうした?」
問われて、ましろは少し耳からスマホを離し、ショルダーバッグを手繰り寄せる。
バッグの中に手を突っ込みながら、答える。
「……持ってるよ、まだ」
バッグから手を抜いたましろが握っていたのは、全部とまでは言わないものの、黄金と行ったやりとりの中で使っていた言葉の数々が書かれた紙だった。
ういが言った脚本。
それはましろがSEXY NOVAにたどり着き、黄金とどのようなやりとりをすれば、どういった言葉が引き出せるか、所属しやすくなるかを記した問答集のようなものだった。
そして、おおむねその脚本どおりの言葉を黄金から引き出し、ましろはSEXY NOVAに所属することができた。
親友ながら、それだけのやりとりを予測し、おおむね的中させた彼女に頼もしさを感じると同時におそれをいだく。
その妙な間がましろの感情を伝えたかのように、ういが口を開いた。
「どういうやり取りをすれば、相手からその言葉を引き出せるかを考えれば、想像するに難くない。よくもわるくも、しろは輝赤の身内ってだけで価値がある。なら、それを最大限に活かせるような脚本を書けばいいだけだから」
いともたやすく言ってのける。
「それにアイドル事業部の今後を考えたら、明星黄金がしろを欲さないわけがない」
「どういうこと?」
「……わたしから言わなくても近々わかるはず。そんなことより、書いた紙は絶対誰にも見られないように廃棄するの忘れないで」
「わかってるよ。後で全部捨てーー」
言葉が止まる。
バッグから取り出した紙を数えると、ましろが記憶していた枚数より一枚少なかった。
「……しろ、どうかした?」
「だ、だ、だ、だ大丈夫だよ」
バッグをひっくり返しながら、なるべく冷静に応えようとするものの、ましろはどもってしまう。
「まさか、落としてたりしないよね?」
「あるよ、あるある。落としたりなんて、そ、そ、そ、そんな」
「訊いただけだから、そんなに必死に言わなくていい。むしろ、それだけ必死だと疑っちゃう。書いた紙全部揃ってるんでしょ?」
「あ、ある、あるにきまってるよ!」
「それならいい」
つぶやき、ういは黙った。
洗濯機の音と共用廊下を歩いているであろうヒールの音が耳障りなほど響く。
彼女は少し長めの沈黙の後でぽつりと言った。
「いいの、しろは?」
「何が?」
「憎んでる相手と毎日のように顔を合わせるの」
意外な言葉にましろは瞠目した。
「……紫歩さんのことを言ってるの?」
ういが完全に沈黙する。
通話越しに電車が通過する音が聞こえた。
まなじりを伝って、涙が落ちかかるのを、慌てて指の背で拭う。
「憎んでなんかないよ、私は」
「うそ」
「うそなんかじゃない!」
口の中にほんの少し、苦いものを感じていた。
葬式の日に見た姉の死化粧を頭から振り払う。
強がりを言っているのは、自身でもよくわかっていた。
姉はおろかVOTの他五人も亡くなったと報道された事故での唯一の生き残りを、憎まずにいれるわけがなかった。
たしかにういの言うとおり、ましろは憎んでいた。紫歩と会うまでは。
けれども、彼女と実際に会って話をして、その気持ちは融かされていった。
無意識のうちに止めていた息を吐く。
「憎めないよ。あんな姿見ちゃうと」
柔らかい肉の内側で、空気が何層もの束になって、震える。
言ってしまってから、ましろ自身でも妙な言葉を使ったものだと思った。
「しろがいいのなら、わたしは何も言わない」
また、ふたりの間に気まずい空気が流れた。
と、ましろが耳を澄ますと、しきりに回線の向こうから、気の抜けた音が聞こえた。
「何の音?」
「メッセージが大量に送られてきてる音」
「返さなくていいの?」
「大丈夫。担当からの催促」
「それ全然大丈夫じゃないんじゃないかな!?」
「別に、ゲラ作業自体はとっくに終了してる」
「だったら、早く送らないと」
「ゲラ作業の締切日は今日じゃない。けど、最初に締切前に送って以降、締切前に催促されるようになった。ここで送ると向こうの思うつぼ。次回から締切前のさらに前に催促されるようになる可能性もある。そうなると私の身体がとてもじゃないけど、もたない。だから、KYして、リスク低減措置」
「……作家さんは大変だね。私にはぜったい真似できないや」
ういが回線の向こうで苦笑した。
「しろの元気な声も聞けたし、そろそろ切る」
「……ういちゃん、待って」
「なに?」
ましろは、ごくりと喉を鳴らすと、自身だけでは解決できなかった、先刻から心に居続けて離れない最大の関心事をういにぶつけた。
「恋愛ってなんなのかな?」




