Seal73 狂想曲
悪寒が、嵐のように駆け抜けた。
ましろは青ざめ、一瞬、呆けたように彼女の口許を仰視した。
忍海桜という人間の得体のしれなさに、空恐ろしいものをおぼえる。
「これがアタシの答えってやつかな」
外から見ていたつもりの猛獣の檻にいつの間にか閉じ込められてしまったような、戦慄が走る。
狂気の潜む目だった。
「理解できない? 狂ってると思う? 頭がおかしいと思う?」
返答に窮した。
恋愛なるものをましろ自身、そこまでわからない。
だが、わからないなりに自身のなかである種のイメージがあった。
それに照らし合わせると、忍海のそれは逸脱し、歪んでいるような気がした。
そんな恋愛の果てにあるのは、完全な破滅だ。
「否定はしないけどね」
だって、アタシとましろんは別の人間なんだから、常識が一緒とは限らないでしょ、と付け足す。
「それに、千歳はアタシのことを天使って言ってくれたけど、アタシは間違いなく悪魔だって自覚してるしね」
忍海の独り言のようなつぶやきに、ましろは、えっ?と聞き返した。
「でも、そんなアタシを千歳だけがね、天使にしてくれるの、お姫様にしてくれるの」
自分に酔っている。そう見えたが、あえて口には出さなかった。
「アタシは四六時中愛されてるって感じてたいの。アタシが欲しいのは、千歳からの惜しみない愛だけなの」
千歳以外から向けられる感情には興味がない、そう言わんばかりの物腰だった。
忍海の心の最奥に刻まれた情念の途方もない密度に、圧倒される。
「それを誰かに理解してもらおうとも理解されようとも思ってない。けどね、愛は歪んでいても真っ直ぐでも、愛にかわりないじゃん」
彼女の狂った倫理に異を唱えることはできなかった。
狂気の色を目に、かりそめの笑みを顔に浮かべる忍海を前に、ましろの喉はただただ貧弱な音を立てた。
「そんなことより、一応聞くけど、ましろんはなんのためにアタシらに近づいたの?」
何事もなかったかのように、さらりと探りが入ってくる。
重い沈黙が流れた。
葛藤のあまりなにも言えずに、口をぱくぱくさせているましろを見やり、
「ま、どっちでもいいや。だいたいわかるしね」
その無言が答えのようなものだ。
忍海がそんな表情を浮かべる。
「SEXY NOVA関連のことだったら、どうせ、千歳のことだろうし」
黄金たちの目的は忍海の方だったが、それは言えなかった。
ましろが何かひとことでも漏らせば、すぐさま穴を見つけ、そこをこじ開けてきそうな気配だったからだ。
「千歳がいなきゃriwegは成立しないもんね。アタシだけじゃ絶対無理だもん。いまのriwegは羽根のもがれた天使。だから、休止っていうより実際にはもう復活することはないだろうけどね」
混乱するましろをよそに、忍海は乾いた笑みを漏らした。
両腕を覆っていた鳥肌は鎮まり、代わりにじくじくとしたかゆみが足元から這い上がってきた。
「ねぇ、ましろん」
夜気と土っぽい匂いが入り雑じり、鼻に侵入してくる。
「なにか目的があって、アタシらに近づいたんだとしても、それをアタシはとやかく言わない。人それぞれ事情があると思うし。ただ、これだけは言わせて」
続けて染み入るような声で言った。
「アタシたちの日常を壊さないで、ね」
ましろは忍海にくぎ付けになった。
どうしてそんなに柔らかい顔をできるのだろうか。
先刻まで鬼をもひしぎそうな悪女に見えたのが、ただの恋する乙女に変わっている。
揺れる耳飾りは、彼女をさらに女らしく見せると思った。
なんとなくだが、その表情に忍海と千歳の共通項を見つけたような気がした。
ふと冷静になって頭を振る。
こんな恋愛関係が果たして正しいものか、とましろはあるはずのない答を足元に探して、目を落とす。
風に吹かれて落ちた選挙用ポスターが転がってきた。
気付いた忍海がそれを手に取り、後ろへ放った。
「そうやって……」
「ん?」
「そうやって千歳さんから偽りの愛を注いでもらって、忍海さんは幸せなんですか」
壊れた蛇口から水があふれでるように、言葉が口からこぼれ落ちる。
ふいに口をついて出た言葉にましろ自身が驚かされていた。
そんなこと言うつもりはさらさらなかった。
視線がましろに向けられ、止まった。
意味のない質問ではない。
長い沈黙だった。
夜陰と静寂に呑まれ、心臓がつまずく。
忍海が静かに深いため息を残して、ベンチから立ち上がった。
彼女はポン、と紙パックを公園に備え付けられたゴミ箱に放る。
そのまま歩き出す。
聞こえぬはずはない。
周囲には誰もいない。
ましろもベンチから慌てて立ち上がり、彼女を呼び止めた。
沈黙の後、観念したように、そうだね、と忍海がつぶやく。
「幸せだよ」
またひと呼吸分黙りこみ、アタシにとっては、と付け足した。
それからゆっくり振り返ると、ましろの目をじっと見つめた。
「きっと、幸せ」
弱まっていたはずの街灯が、突然燦然と輝いた。
その光を浴びた忍海は妖艶だった。
彼女自身が発光しているような錯覚さえ受ける。
一方でそれほど明るいのに、ましろが見たいものは何ひとつ見えてこなかった。
視線は縫いつけられたように離れない。
彼女の目にうそがあるようには見えなかったが、同時に本当とも思えなかった。
忍海が無言のまま、すたすたとましろに近づいてくる。
彼女は片手を伸ばすと、ぴらり、とましろのスカートをめくった。
ましろは、ばっとスカートを手でおさえた。
忍海に視線をぶつける。
彼女のガラス玉のような透明な瞳は、まるでよく研いだナイフのような冷たい光を放っている。
唐突に、むせかえるような香水のにおいが、鼻腔に立ち込めた。
「なにするんですか」、という抗議の言葉は喉の奥で消えていく。
「こうやって見ると、ましろんの下着っていっつも同じブランドだよね。たしか、Hi「∀∀」のだったっけ? 夜の営み少しマンネリ化してきちゃってたから、勝負下着新調したかったんだよね。アタシ、しょーじき、あんまりそこのん知らないから教えてくれるとうれしいなー。だから、--」
忍海は一歩踏み出すと、ましろの敏感になっている耳に向けて、息でも吹き掛けるように、すばやくこう告げるのだった。
ーーこれからも仲良くしたいね、ましろん。
忍海の声に引きつりのような笑声が、力なく湧く。
最後の一言は極上の脅しだった。
『仲良くしようね』ではなく、『仲良くしたいね』。
どんな事情で近付いてきたかは気にしないし、その理由を責めるつもりはない。
けれども、現状を壊したらどうなるか、わかってるよね、そう言いたげなニュアンスが背後に隠れていた。
目の端に街灯が映る。
光の中心では大きな蛾が数匹、重そうな羽を揺らして飛び回っていた。
ふいに、どうして自分はいまここにいるのか、という奇妙な感覚に襲われる。
漠然とましろは灯りに誘われる蛾と自分とが重なるような気がした。
「おなか空いちゃったね。そろそろ、ご飯行こっか」
重苦しい時間がひとまず終わることにほっとして、うなずいた。
ましろが忍海の背を追いかけると、脚になにかがまとわりついた。
しゃがみこんで正体を確認する。
先程の選挙用ポスターだった。
ましろはそれを脚からはがした。
背後に人の気配がした。
振り返る。
その人物が目に映った瞬間、大脳のすべてが活動を停止したかのように思考力を失ってしまった。
なんだか空中から無理矢理取り出した下手な手品のように感じられ、現実感がない。
苦笑がじわりと湧く。
心の底から薄気味悪さが、自身をとらえていくのを感じた。
近くを通った自動車のライトが視線の先の人物の顔を一瞬照らした。
自身が天使と評した人間の悪魔の面も含めたすべてを知っていながら、なお付き合っているとでもいいたげな、桜坂千歳の顔を。




