Seal68 二人きりで、ね
枢が去っていって、数分後、裏口のドアがガチャリ、と開いた瞬間、ましろの鼻にかすかにさわやかなシトラス系の香りが届いた。
「ましろん、おまたー」
「お疲れ様です。あれ? 忍海さん、さっきと違ういい匂いがしますね」
「鋭いね、ましろん。ちょっと香水つけてきたの」
言葉とともに忍海が手の甲を裏返し、かすかに血管の浮き出る白い手首をましろに差し出す。
まるで、嗅いでみて、と勧められたような格好となる。
ましろは、どぎまぎしながら、鼻先を近付けた。
彼女がまとった香水の香りが漂ってくる。
甘く魅惑的な匂い。
人工的であるにもかかわらず、生き物のように、心を労りくすぐる。
ましろはそっと鼻先を彼女の手首から離した。
「なんていう香水なんですか?」
「特にないかなー。強いて言うなら、桜chanスペシャル、バージョンほにゃららみたいな」
「それってどういう意味ですか?」
「アタシ、香水は香料混ぜて作る主義だから、市販品買わないの」
「香水って作れるんですか!?」
「作れる、作れる。てか、めっちゃ簡単だよ」
「初耳でした。それにしても、とってもいい香りです」
「あぁ、トップはまぁいい感じだけど、ミドルとラストがきちんと出てくれるかなんだよね。特にラストのサンダルウッドは主張しすぎたらだめだし」
「なんでダメなんですか?」
「サンダルウッドって、日本語で言ったら白檀なんだけど、もしかしてましろん知らないの?」
「びゃくだん?」
ましろはこてんと首をかたむけた。
「代表的なもので言えば、白檀は線香とかの匂い。こう言うとその匂いが強すぎるとどうかは想像つくでしょ」
全身から常時そんな匂いが発せられていたら……と想像して、ましろはげんなりする。
「それはたしかにだめですね」
「でしょ。てか、話変わるけどましろん、いまどれくらいおな減り?」
「おなへり?」
「あぁ、ごめん。どれくらいお腹空いてるかってこと」
「空いてるかって言われたら空いてますけど、ペコペコかまでかって言われたら、そこまでではないですね」
「そっか」
「どうしてですか?」
「んー、ちょっと、ご飯行く前に寄り道したいとこがあるんだけど……」
「何か用事ですか? 私、ついていってもいいんですか? 都合が悪ければ、ご飯はいつでも問題ありませんよ」
「違う、違う。ましろんとちょっと話したいことがあるだけ」
「ご飯を食べながらじゃだめなんですか?」
「だめだめ。人気のないところで、二人きりで、ね」
忍海がウインクをした。
ましろの心臓がトクン、と脈打つ。
桜色にルージュを引いた肉感的な唇を、忍海がぽっかりと開いた。
「知りたいんでしょ、千歳の言葉の真意」
「千歳さんの言葉?」
「なになに、気になってたんじゃないの? 燈さんを殺したって言葉の意味」
「ーーッ」
言葉が、水に垂らした一滴のインクのように糸を引きながら、胸の中に広がっていく。
「その反応、やっぱそうってことだよね。それに、アタシもましろんに聞きたいことあるから。いいよね、ましろん。ご飯少し後になっても」
ご飯どころの話ではなかった。
ましろにとって、喉から手が出るほど欲しい情報のひとつだった。
無言を忍海は是ととらえたのか、言葉を続けた。
「そんじゃま、アタシの提案にのってくれるってことで」
忍海がバッグを持っていないほうの腕をましろにからませた。
「そうと決まれば、レッツラゴー!」
数分後、二人は『Pieuvre』の近くにある小さな公園に足を運んでいた。
子供用の遊具すら設置されていない、砂場があるだけの公園には二人のほかに人がいる様子はなかった。
忍海が硬質プラスチック製のベンチに腰かける。
彼女は自身のバッグと途中寄ったコンビニの袋を片側に置き、空いている側をポンポンとたたいた。
「隣、座りなよ」
言われて、ましろも腰をおろす。
冴えた夜風が、ましろの頬を打った。
忍海に視線を向ける。
しなやかな髪が頬に張りついている。
そこに街燈からの光が留まり、美しい流線が輝きだしていた。
彼女が傍らのコンビニ袋から紙パックのジュースを取り出した。
すぐに千歳の言葉の意味を聞きたかったが、すぐに切り出すのもなんだかためらわれたため、ましろはまったく違う話から入った。
「あの、忍海さんが歌ってた歌って誰の曲なんですか?」
「どの曲?」
「『いっくよー!』、って言ってた曲です」
「あぁ、あれ。なんて名前かは忘れたけど、たしか声優アーティストの曲だったと思うけど……」
紙パックにストローを刺しながら忍海が答える。
「声優アーティスト……」
「ましろん、またその顔」
言葉に、あわてて笑みをこしらえようとしたが、口許がひきつるだけでうまく笑うことができない。
「スーさんのときもその顔してたけど、ましろん、もしかして声優が嫌いなの?」
「……嫌いとは少し違うんです。ただ、声優さんがアイドルみたいなことをして、世間を賑わせているのを見てると、VOT《お姉ちゃんたち》が忘れ去られそうで怖いんです」
「それはないっしょ」
「そうですかね」
「そうだよ。『Pieuvre』にくるお客さんでも、たまに歌う人いるし」
アタシも歌うしね、と忍海がほほ笑みながら付す。
「でも、現に今の音楽業界は声優アイドルさんばっかりですし」
「まぁ、そうだけど、そもそも、声優アイドルにとって変わられたのも、VOTがアイドル業界にデッカイ楔を打ち込んだせいだしね。いい意味でも悪い意味でも」
一方がなにか言いかけようとし、もう一方がそのなにかを待とうとし、ぎこちない時間が二人の間に流れた。
「アタシは別に声優アーティストの曲だけしか聞いてるってわけじゃないけど、捨てたもんじゃないよ、声優が歌う曲も。結構、よかったでしょ」
ましろは振られて、言葉に窮した。
忍海の歌でしか聞いていないが、たしかに悪くはなかった。
「十年、二十年、三十年って歌い継がれるような曲かって意味で考えると、やっぱ芸術じゃないのかもしれないけど、そんな曲の方が珍しいしね、いまどき」
平静な、冷めた声だった。
「それに声優だって大変なんだよ。セクハラ、パワハラは日常茶飯事らしいし、仲間内での貶めあい、酷い場合だと妊娠やうつ病になって辞めたりしてるってことも聞くしね。くさっても芸能界だよ、あそこは」
業界内の事情をある程度は、わかったような口ぶりだった。
「もしかして、忍海さんって、声優だったんですか?」
「アタシ? ないない」
「だったら、なんでそんなに知ってるんですか?」
「えーっと、『Pieuvre』ってさ、スーさん以外にも声優はいるし、過去にも何人かいたからそのコたちからちょっと、ね。ぶっちゃけ、アタシは事務所側の言い分聞いてないから、彼女たちの一方的な言葉だけしか情報として入ってきてない部外者だし、全部が全部信用してるわけではないんだけどね」
忍海が紙パックのジュースをストローで飲んだ。
彼女を包む空気がふいに動きを止めた。
「でも、ひとりの元声優のことだけは、事務所側の言い分よりかはそっちを断然信じてるけどね」
「ひとりの元声優? 誰なんですか、それ」




