Seal58 アマモちゃん
唐突に質問されてましろは面食らった。
そもそも、表紙も見ずにとった本であるため、何の本であるかさえ把握していない。
ましろに与えられている情報といえば、二つのバーコードと定価、それにISBNから始まる数字くらいだった。
二人の間が、妙に空白になった。
なにか言わなければ怪しまれる。
そう思い、ましろは正直に、
「……わ、私は読んだことがありません」
と応えた。
「……そうか」
会話がそこで終わると、『赤い狐』はましろの手からひょい、と本を取り上げる。
そして、腰のあたりで本を片手で支えたまま、ページを繰り始めた。
再び訪れた空白を不安に思い、ましろは話題を変えようと試みる。
「あの、『赤い狐』さんがさっき言ってた燈さんっていうのはもしかして、前任者の方ですか?」
返答はなかった。聞こえていなかったのか、と思い、問いを重ねる。
「そうなんですよね?」
依然として反応はない。
ただただ、ページを一枚一枚、一心不乱に繰っている。
「あの!」
ましろは自分に対し、背後からいっせいに視線が突き刺さるのを感じた。
「……あのー」
すくみ上がりそうになりながら、ボリュームをしぼり、さらに『赤い狐』に呼び掛けた。
しかしながら、やはり『赤い狐』は聞こえないふりをして、ページをめくるのみである。
いや、本当に聞こえていないのかもしれない。
さっきから、視線は本に向けられているが、読んでいるわけでも見ているようにも思えない。
そう思いなおし、どれだけ呼び掛けても無意味だと判断したましろは、『赤い狐』が読んでいる本をのぞきこんだ。
逆からであったが、『赤い狐』が腰の位置で支えているからか、読むことができた。
小説が多く収められている棚であったため、小説の類かと考えていたましろをその本はいともたやすく裏切ってきた。
(えっ、漫画?)
『赤い狐』が読んでいたのは意外にも漫画であった。
ただ、コマ割が自由な漫画ではなく、四コマ漫画だ。
しかも、その四コマ漫画の横には、解説という文字とともに数行の文章が記載されている。
うさぎみたいな羊みたいな生物を緑色の布団でまいたようなその絵。
見覚えのある絵柄だった。
だが、いつ見たのかまでは思い出せない。
しばらく、ましろは『赤い狐』が繰るその漫画を眺めていた。
その珍奇な生物は、つぶらな瞳とかわいらしいイラストとはうらはらに重機につぶされていたり、フライス盤に巻き込まれていたり、かと思うと青白い炎を上げた溶接機が眼前に迫っていたり、散々な扱いだった。
ただ、それだけ飛散な目にあっているものの、絵柄が絵柄なため、血等のグロテスクな描写など一切ない。
たとえばつぶされている絵だと、のべーだとか、ぬぼーだとか、べちょりだとか独特の擬音語が似合うようなものだった。
ページが進んでいく。
「あっ」
フェラーバンチャ。
その八文字がましろの目に飛び込んできたとき、記憶の扉がきしむ音がした。
まぶたの裏で姉の姿が点滅したのはそのときだった。
パチン、と電気をつける。
「お姉ちゃん、暗いところで本読んでたらすぐに目悪くなるよ」
久々に実家に帰ってきた輝赤は電気もつけずにイヤホンをはめながらのけぞって、椅子の前脚をしばらく宙に浮かせながら、なにかを読んでいた。
イヤホンをしているせいか、はたまた集中しすぎているのか、どうやらましろの存在に気付いていない。
ましろは背後から近づき、姉の耳からイヤホンを外した。
「お姉ちゃんなに読んでるの?」
「なんだ、ましろか」
輝赤が絶妙なバランスを保ちながら、眼帯をはめた顔を向ける。
「ねぇ、なに読んでるの?」
ましろは聞きながら、ページをのぞき見た。
「えっ? ……四コマ漫画? 珍しいね、お姉ちゃんが漫画読むなんて」
「そうだな。初めて読んだかもしれん」
「ふぅん。で、どういうお話なの?」
「わからん」
「わからないの!? いま読んでるのに」
「あぁ。労働基準法やら労働安全衛生法やらさっぱりだ」
「法律がテーマなの?」
「おそらくな」
「おそらくって……」
「まぁ、強いて言うなら、この『ストラドルキャリヤー』と『フェラーバンチャ』という単語が頭に残った」
「なにそれ? でも、なんか響きは格好いいね!」
「解説を読んでいる限りでは、コンテナを移動させたり積み上げたりする機械と車両系木材伐出機械なるものらしい」
そう言って、輝赤はましろに見えるように本を持ちあげた。
「んー、なんか難しそうだね。あ、でもこのキャラクターかわいい!」
ましろが指さしたのは、四コマ漫画のキャラクターだった。
もこもこした緑色の布団をかぶった羊ともうさぎとも言い難い奇妙な生物。
それが大抵漫画内で悲惨な目にあっている。
「アマモちゃんというらしい」
「アマモちゃん? なにかモチーフになってるものとかあるのかなぁ?」
「わからん」
「お姉ちゃん、さっきから『わからん』ばっかりだね。それにしてもお姉ちゃんの趣味には合わないんじゃない? ファンの人からもらったの?」
「違う」
「えっ、じゃあ買ったの?」
「買ってない。もらいものだ」
「えっ、誰に?」
「作者にだ」
「お姉ちゃん知り合いなの」
「あぁ」
「すごいよ、お姉ちゃん」
「すごいのか」
「うん、たぶん。私は漫画は読まないからわからないけど、なんか漫画家って別世界の住人って感じがするし」
「そうか」
「まぁ、それをいったらお姉ちゃんもアイドルだから別世界の住人なんだけどね……。それで、それでお姉ちゃん、その漫画面白いの?」
ましろに向けられたのはやさしくも、また冷たくもみえる目だった。
返答の代わりに輝赤は漫画を閉じた。
バタン、というその音がましろを現実に引き戻した。
『赤い狐』が勢いよく漫画を閉じたときの音だ。
「馬鹿な女性だよ」
ささやくような声が、変に色気を感じさせた。
「本当に馬鹿な女性だ。地道に漫画を描き続けていればよかったものの、禁断の果実に手を出したばっかりに……」
正直、ましろには『赤い狐』の言っている言葉の意味がよくわからなかった。
「有名になるのは確かに重要だ。けれども、それは作品がって話だ。漫画家が漫画以外のところで評価されてしまったら、その漫画家の人生はそこで終わりだ。世間が正常に面白いか面白くないかの判断なんてできなくなる。それがわからない頭ではないにもかかわらず――」
放っておけば、悪態はとめどなく続きそうだった。
相変わらず『赤い狐』の言っていることの理解はできなかった。
けれども、ましろはただただ怖かった。
口では悪いことを言いながら、心で泣いているのが伝わってきて。
どういう思いで『赤い狐』がそんなことを言っているのか想像して。
その声に心臓をぎゅうぎゅうと締め付けられる。
止めたかった。止めなければならないと思った。
だが、堂々巡りの思案の末に、ましろは口をつぐんでいた。
ふいに、ぽたり、と床にしずくが零れ落ちた。
ふと見ると『赤い狐』が声を出さずに涙をこぼしている。
「『赤い狐』さん……」
「……目にごみがはいっただけだ」
狐面の中に人差し指を入れ、水滴をなぞりながら、ゆっくりつぶやく。
「……本当に馬鹿な女性だよ、あの人は」
『赤い狐』はやりきれないと言った口調を露骨に表した。
沈黙が二人を包む。
場違いな従業員たちの笑い声がいまこの時ばかりは救いだった。
表紙に目が向いた。
作者の名を見る。
腸詰YUA。
ましろには聞き覚えがなかった。
もっとも、漫画を読まないましろにはその作者が有名であってもわからない自信があった。
それよりも、作者名の下にある緑色の生物が足場のようなところから、墜落し、地面にたたきつけられている絵を見て、ふいにましろの脳の一部がうずいた。
必死にその正体を掴もうとするが、もやもやしたままはっきりしない。
ましろは、一瞬何がなんだか訳がわからないまま、少し落ち着くのを待ち、『赤い狐』に問いを投げこんだ。
「……それって有名な漫画なんですか?」
『赤い狐』は探るようにましろの顔を見つめ、少し考え、それから言った。
「……だと思うよ。面白い、面白くないかはおいておいてね」
「面白いか面白くないかはおいておいて?」
「そうだよ。この漫画はその判断をする前に手に取る人が多かったからね」
「なんでなんですか?」
「なぜなら、作者は――」




