Seal57 『Dragon』と『Coquelicot』
教育係となった『赤い狐』はましろに疑いの目を向け、あることないことを他の従業員に流し、徹底的に孤立させた後、ことあるごとに無理難題を押し付け、挙句の果てには、ミスをしたましろに対し、容赦ない打擲が始まる――
――という事態は特に起こらず、ましろが拍子抜けするほどあっけないまま数日がたっていた。
そもそも、『赤い狐』の冷たい態度は初日のみで、それからは憑き物がとれたかのように穏やかだった。
むしろ優しかった。
教育も忍海とは比べようもないほど丁寧で、わかりやすく、まだ理解できた。
仕事で失敗しても、そのフォローをしてくれ、さらなる大失敗につながらないようにしてくれた。
怒ると叱るを十分に理解している。
ましろにそのような感情を抱かせるような対応だった。
ただ、言葉にこそ出さないものの、忍海がいるときだけ、思い出したように、ましろを見る目が厳しかった。
それもわざとらしさがにじんでいて、なんだか憎めなかった。
けれども、いまにも手のひら返しをされ、悪意を向けられる予感がして、ましろは怯え続けていた。
なぜなら、――
『まず、警戒している相手から発言を引き出す方法は二つある。相手と親しくなって、心の底から褒めて気持ちよくさせるもしくは、わざといらいらさせて逆上させ、冷静な思考を奪う。でも、正直後者はお勧めしない。できることなら、真正面からの争いは避けるべき、みんな仲良く』
ましろの幼いころからの友である、ういの言葉を心にとどめていたからだ。
それがあってか、『赤い狐』がましろからストーカーであるという確たる証拠をつかもうとするために、優しくしているのだろうと警戒していた。
ういは地元でましろにとっての生き字引とも言うべき存在だった。
輝赤と同い年であった彼女はましろのもうひとりの姉でもあり、友達でもあった。
インターネットを使わずとも、知りたいことはなんでも彼女が教えてくれた。
これまでましろがインターネットを使わずに生きてこれたのには、彼女の存在がかなり貢献していた。
(ういちゃん、私だまされないよ!)
ましろが強く決心するも、当の本人である『赤い狐』はまだ来ていなかった。
そもそも、始業時間にはなっていないため、来ていなくても問題ない。
ただ、いつもはましろが来るよりも前に姿を現していた。
もちろん、そのときには既にきちんと赤い狐面をかぶってだ。
そのせいか、ましろは未だ『赤い狐』の狐面の中身を知らなかった。
(今日は何で遅いんだろう?)
不思議に思いながら、辺りに視線を飛ばす
ほとんどの者は仮面をかぶりながら、ただただ無駄話に夢中になっている。
ましろは心細くなった。
別にいじめられているわけではなかったし、数日しかたってないとはいえ、常日頃から他の従業員も優しく接してくれていた。
そもそも、ましろが恐縮するぐらいよい職場である。
おそらく、話しかければその輪に入ることは容易だろうことはましろにも予想がついた。
けれども、飛び込む勇気がなかった。
いつもは始業前の時間はどうしてただろうか、と考えると『赤い狐』と話をしていたことに気付く。
けれども、今日はいない。
忍海と話をしようにも、彼女は基本始業時間ぎりぎりにタイムカードを切るため、それもかなわない。
もう一度周囲を確認する。
話をしている者のほかに、スマホ画面に夢中になっている者と机の拭き掃除をしている者がいた。
それを見て、ましろも掃除を手伝おうとした。
しかし、掃除をするためのふきんの場所がわからず、すぐにあきらめる。
一部が盛り上がっている中で、始業時間までその場でぼぅとしているのも居たたまれなくなったため、棚に目を向けた。
雑種雑多で大小さまざまな本が手当たり次第に詰め込まれており、空きスペースにはボトルシップや猫の剥製が鎮座している。
背表紙に目を向ける。
『ドリアン・グレイの肖像』、『ドストエフスキー全集』、『アンナ・カレーニナ』、『卍』、果ては旧約聖書なんてものまである。
日本の作家も海外の作家も入り雑じったましろから見れば実に統一感のない棚であった。
そこから何気なく一冊抜き取る。
手前のを抜き取ると、奥に別の列が現れた。
ましろはなんとなく、さらにそれをどかした。
もう一列ある。
両方向からきた本が折り重なるように倒れており、空間が生じていた。
ちょうど腕ひとつぶんが入るといったところである。
イタリアの教会にある偽りのある心の持ち主が手を入れると抜けなくなる穴。
そんなものをふと思い出す。
なんとなく今からしようとしていることが人に見られてはいけない気がして、ましろは周囲に視線を配った。
相も変わらず雑談話に夢中になっている者、掃除をしている者、スマホ画面に集中している者。
ひとりとしてましろに目を向けている者はいなかった
もう一度、空間に目を向ける。
腕が抜けなくなるような気がして、一瞬緊張した。
しかしながら、なんとか意を決して腕を突っ込むと、空間の向こうにあった平らに積み重ねられた本に指が当たった。
それは見つけられないことを望んでいるようでも、見つけた者にだけ読まれたいと願っているようでもあった。
誰の手によってこのように意図的に収められたのだろうか。
そんなことを考えながら、ましろはそのままつかんで腕を抜いた。
二冊しかなかったが、どちらも同じ作者のものだった。
(望月項子?)
聞いたことがない作者だった。
タイトルを見る。
『Dragon』と『Coquelicot』。
『Dragon』が龍ということぐらいはさすがに知っていたが、もうひとつは読み方さえわからなかった。
中にヒントが載っていないか確認するためにページをめくる。
目次にはいくつかのタイトルが羅列されていた。
どうやら短編小説集のようだった。
それらの中に表題も記載されていた。
表題を流し読みする。
しかしながら、なにひとつヒントになるようなものはなかった。
『Dragon』の方も同様に確認するが、変わりない。
帯にも目を向ける。
(…………ん?)
一冊には『現役アイドルがつむぐ珠玉の作品集』と書いており、もう一冊には『人々の心を鷲掴みにする女優の隠された才能』と書いてあった。
もう一度、表紙を見る。
何度見ても同じ望月項子という文字しかない。
(アイドル? 女優? このひとはいったい……)
しばらく表紙に視線を注いでいてもなにもわからなかった。
そもそも、この二冊が隠されたように納められていた意図もわからないままであった。
ましろはこれ以上考えても無駄だと悟り、その本をまた元の場所に戻した。
そうして、それを封印するかのように前に本を納めていった。
肩をたたかれたのは突然だった。
「戸田さん」
ひゃうっー、と風の音にも似た悲鳴をましろは発した。
驚いて、振り向く。
そこには『赤い狐』が立っていた。
整髪料の匂いに交じってかすかな香水の香りがする。
グリーンノート系の香水の匂いだった。
いつもは『赤い狐』からそんな匂いがすることはない。
「おはよう、戸田さん」
「お、おはようございます」
「どうかしたのかい?」
首を傾げながら問われると、自分がしていたことがなにかまずいことのような気がして、ましろはあわててタイトルも見ずに、手近にある本をつかんだ。
「ほ、本を読んでただけです!」
タイトルが『赤い狐』に見えるように言い訳がましく言って、本を眼前に突き出す。
「……懐かしいな」
「懐かしい?」
「……燈さん」
「えっ?」
そう言って、『赤い狐』が黙す。
思いを含んだ沈黙になにか言葉を投げかけようかと迷っていると『赤い狐』がゆっくりと口を開く。
「この本は面白いと思うかい?」




