Seal27 ぞうのきりわく
「どうかし――」
「ましろん、しっ」
忍海が腕を広げ、ましろの顔を胸にしっかり抱え込み、おさえる。
口と鼻が完全におさえつけられているため、ましろは呼吸すらままならない。
自由になっている耳にカツン、カツンという靴音だけが届く。
状況はまったく理解できなかったが、とりあえず忍海の指示通りにしておこうとましろは考えた。
「いない、か」
『赤い狐』の声であった。
理由は不明であるが、再び更衣室に戻って来たようだった。
靴音がだんだん明瞭になってくる。
それとは反対に呼吸が禁じられたましろの意識は不明瞭になってくる。
音が近くで止まった。呼吸をしたいのを我慢して、ましろはじっと息をひそめる。
しばらくすると、だんだん音が遠のき、扉が閉まる。
ようやく、ましろは忍海から開放された。空気を求めてあえぐ。
それを見た彼女は、馬乗りのまま片手を顔の前に立てた。
「あぁ、ましろん、メンゴ、メンゴ」
ましろは喋れない代わりに忍海を指差したあと、その隣の宙空を指差す。
「ましろん、何してんの? 指でリズムでも取ってんの?」
ましろは首を横に振り、再び同じ動作を緩慢に繰り返した。
「んー、行儀が悪いってこと? とはちょっと違うよね……あぁそういうことね」
ようやくジェスチャーが伝わったのか、忍海がましろの上から退いた。
「ホント危ないとこだったわ」
ましろのほうこそ言いたい言葉をこぼし、忍海が額から吹き出した汗を手の甲で拭う。
「そろそろ戻らないとホントヤバそうだし、アタシは仕事に戻るね。ましろんはとりあえず息を整えたら事務所ででも待っといて。たぶん、オーナーそろそろ戻ってくるだろうし」
それだけ早口で言うと、忍海はパタパタと足音を鳴らして、更衣室から出ていった。
彼女がいなくなったあと、ひとしきり空気を胸に十分吸いこみ、落ち着いたところでましろも更衣室から出ようとして、ドアノブに手をかけた。
「どこにいくんだい」
心臓が止まったかと思った。
ましろが骨の音でもしそうな動きで振り向く。
『赤い狐』がロッカーにもたれかかったまま、胸の前で腕を組み、右手の人差し指で自身の二の腕をトントンと叩いていた。
「戸田ましろ」
ロッカーから身体を離し、『赤い狐』が歩きながら呼び捨てにして切り出す。
「さっきのはなんだい」
ましろは唾をごくり、と飲み込んだ。
「さっきのってなんのことですか?」
「とぼけないでもらいたい。忍海との逢引の現場だ」
ましろは声も出ず、『赤い狐』を見返した。
「逢引じゃ伝わらないかい。それなら言葉を変えて言うとするよ。忍海が君に熱く抱擁をしていたといえば伝わるかな」
カツン、カツン。
言葉をつむぎながら、『赤い狐』は確実にましろに近づいていた。
「気付かなかったとでも思ってたのかい? そんなわけあるはずないだろう。人間二人分を見過ごすなんて普通に考えたらありえない。そう思わないのかい? それにしても気付いていながら止められない状況というのは、ぞうのきりわくって感じだったよ」
「そ、象を切り分けるんですか?」
「腸が煮えくり返るって意味だよ。そんなことはどうだっていいんだ」
ましろの顔の上を数秒間『赤い狐』の視線が止まる。
両者の距離はもう1メートルもなかった。
カツン、カツン、カツン。
隣をすり抜け、『赤い狐』は扉を背にすると、ましろに視線を注いだ。
「いつからなんだ」
「えっ」
ましろには問いの意味がわからなかった。
「みなまで言わせないでもらいたい」
そう言われても、ましろには質問の意味が皆目見当がつかなかった。
わざとらしい咳払いをひとつすると、『赤い狐』が言う。
「忍海と関係を持っているのはいつからだって聞いてるんだよ」
言葉がすぐに脳のしかるべき位置におさまらず、一瞬ましろは口を半開きにさせた間の抜けた顔をさらした。
しかし、次の瞬間にはとんでもないというふうに、早口で否定した。
「いやいやいや、関係なんて持ってないですよ。ちょっとした事故で『赤い狐』さんが見たような状況になったに過ぎません」
「事故だって?」
「はい、そうです」
ましろは腹をくくると、大丈夫だと、確認しながら、それなりに言葉を選んで順を追って説明をした。 もちろん、忍海にしたお願いの話はぼかし、先刻創作した話と整合性が合うように、理由付けをした。
彼女がましろのダンスを見ていて気になったところを、実技を踏まえて教えてもらっていたということにしたのだ。
併せて、忍海を知っていたのはファンだったからという風にしてしまった。
すべて話終えると、『赤い狐』がましろを見る眼差しが唐突にやわらぐ。
「そういう事情の一部を僕がたまたま見たってことなのか。けれどファンなら……」
誰に言うでもなく、空中に視線を遊ばせながら、『赤い狐』がぶつぶつとつぶやいた。
「それに女性同士で関係を持つはずがないじゃないですか」
ましろがなんとなく口にすると、ギギギとまるで機械音でも立てるような動きで『赤い狐』が顔を向けた。
「女性同士だとなにが悪いんだい」
寒さに近いものがましろの背筋に走る。
「たまたま好きになったのが同性だったらそれは悪なのかい?」
眼前に華奢な指を突きつけながら、『赤い狐』はなおもましろを問い質す。
「……ごめんなさい」
その圧にのまれてましろの口から謝罪の言葉が漏れた。
ばつが悪そうに『赤い狐』が後ろ手に頭を掻く。
「すまない、僕のほうこそムキになって話を脱線してしまった。事情はわかったよ。事故なら仕方ない。仕方ないけれど、それならもうひとつだけ教えてもらってもいいかい?」
嫌疑は一瞬にして晴れたかのようであったが、そうスピーディーにはいかないらしい。
『赤い狐』がポケットを探り紙片を取り出すと、広げてましろに見えるようにした。
「これに心当たりはないかい?」
誤解もとけ、無警戒でいるところへ、喉に刃物を突きつけるような聞き方を『赤い狐』はする。
ましろは驚きで言葉を失い、せわしなくまばたきをした。
riweg
忍海桜桃
桜坂千歳
紙片には鉛筆かなにかでそう書いている。ましろにはまちがいなく見覚えがあった。
それはましろ自身が書いたものであり、ポケットにたしかに忍ばせていたものだった。
ましろには物事を忘れてしまわないようにメモしてしまう特徴があったのだ。




