Seal18 二人の嫉妬を天秤にかけるとどちらに傾くのか
『顔が赤いけど、なにかあった?』
「別に何もありませんでしたよ」
答えながら、ましろは手をほどいて中身を見た。
それはミルクキャンディ―であった。
包装紙に書いてあるぐんぐん成長、という文字がニクイ。
気持ちを落ち着かせようと、包装紙をやぶり、ミルクキャンディーを口の中に放り込んだ。舌の上に優しい味が広がる。
『じゃあ、続きをする』
その後、紫歩にされるがままに身を任せていると、数分もすれば消毒は完了した。
「ありがとうございます」
ましろはソファーに座りながら、お礼の言葉を言う。
『別に。所属したアイドルを気遣うのは上の者として当然』
ふんす、と紫歩が鼻から息を出した。
彼女の態度がやや軟化した様子に力を得て、ましろは気になっていたことを訊いてみた。
「機嫌なおしてくれたんですね」
『別にもとから怒ってなんかいない』
紫歩がぷくっと頬を膨らませる。
そうすると、いっそう幼い感じがした。
『それにあなたは身内だからノ―カン』
「ノ―カン? いったい何の話ですか?」
『実はさっきの話、本人から直接聞いたことがある』
「さっきの話って……」
『輝赤が、父親の遺作を私たちに着せようと画策していたこと』
ましろは驚いて、紫歩の顔をまじまじと見た。
「メンバーは全員知ってたんですか?」
紫歩が首を横に振る。
「でも知っていたなら、どうしてさっきはああいう反応をしたんですか?」
『それは』
「それは?」
ましろが喉の奥でうなった。紫歩はスケッチブックの端をゆっくりとめくる。
『輝赤がふたりだけの秘密だって言ったから』
紫歩がスケッチブックを掲げながら、リスのように少し頬を膨らませる。
文字は、先刻までと同程度の筆圧で書かれてはいたが、ましろにはだけの二文字が心なしか強調されているように見えた。
『ずっと私と輝赤のふたりだけの秘密だと思ってたの。でも、あなたは知っていた』
「それが黄金さんが言っていた嫉妬ってことですか」
『遠う』
紫歩がスケッチブックの中心当たりに大文字でそう書く。
本人は否定しているようであったが、「違う」と書いたつもりが「遠う」と書いてあったことから、ましろは図星だな、とほほ笑んだ。
『私は約束を破られるのが一番嫌いなだけ』
何枚かページを戻る。
『あなたは身内だからノ―カン』
それににニ重線を引いて、紫歩がくどいほど念を押す。
『でも』
紫歩の顔がかすかにくもる。
『結局、輝赤は約束を破った』
重苦しい空気が応接室内に充満した。
ましろは無意識のうちに唾を飲み込む。
「私、そろそろ帰りますね」
立ちあがろうとしたましろの腕を紫歩が握った。
「紫歩さん?」
『黄金はあぁ言ったけど、歌はよかった。でも、ダンスがだめだめ。ふつうよりも劣ってるかも。練習不足。輝赤とは月とすっぽんぐらい違う。だから』
紫歩が片手で器用にスケッチブックをめくる。
『明日から私がビシバシ鍛えていく。中途半端は許さない。輝赤の意志を引き継ぐ、ってたんかを切るなら、それぐらいはやってもらう。いい?』
ましろは紫歩の顔をじっと見返した。
『返事は?』
「はい、もちろんです。口先だけなんてありえません。私もお姉ちゃんの顔に泥は塗れませんし、とことんやるつもりです」
紫歩は一つうなずくと、チェシャ猫のような笑みを浮かべた。
「それで……」
少しの間逡巡して、ましろは言葉を続ける。
「ダンスがうまくなれば、私はお姉ちゃんの代わりになれますか?」
紫歩はましろの額を射るように見据えた。
彼女は、ただ唇を引き結ぶだけで、なにも返さなかった。そ
れは答えがないからではなく、彼女が自分の返答に極めて慎重になっているからだろうという事情がうかがえた。
それから紫歩は、ましろに向けていたスケッチブックを引っ込め、文字を選びながらペンでなにやら書いていった。
『無理だと思う』
それはただの文字ではあったが、冷たい刃と化してましろの胸にはっきりと突き刺さった。
『彼女の代わりは、誰にもつとまらない。私でも無理』
比べるのもおこがましいというニュアンスが暗に読み取れ、ましろの身体から羞恥の汗がふき出てきた。
ましろは返す言葉に窮した。唇をかみしめ、言葉にならないものを口いっぱいに頬ばった。
『でもそれは技術うんぬんの話じゃないから気にしないで欲しい。基礎はできてるから技術面だけであれば、輝赤のレベルくらいにはなれるのかもしれない』
紫歩の一筆にわずかな慰めのイントネーションを読み取り、ましろは納得するほかなかった。
ふいに、紫歩はましろの背後に視線を飛ばすと、何かを思いついたように車椅子を動かした。
「紫歩さん?」
ましろが問いかけるのを無視して、盾やトロフィーが並んでいる棚のガラス戸から箱を取り出す。
それを持ったまま、ましろの横に車椅子を止めた。大切そうに両手で包んで、ましろに向け、箱を差し出した。
「これはなんですか?」
ましろが疑問を投げかけると、紫歩が箱を開いた。
そこにはましろが付けているワインレッドのリボンと同じ種類である紫色のリボンが収められていた。
ましろは、興奮気味の紫歩の顔と彼女の手元にあるリボンを見比べながらもう一度訊ねた。
「これはなんですか?」
箱を一度膝の上に置いて、紫歩はスケッチブックに文字を書き込んでいく。
『私が現役時代に使ってたリボン。あなたが髪につけてるのと同じ種類。メンバーのひとりひとりが、身体のどこかに各々のイメージカラーのリボンを付けてたの知ってるでしょ』
「はい」
『私のそれがこれ』
「今どうしてこれを見せてくれたんですか?」
『ただ、見せたわけじゃない。これをあなたにあげる』
「そんな大切なものもらえないですよ!」
『大切だからこそあげるの。ステージに立てない私には、もう必要のないものだから』
「そうだとしても、それは紫歩さんが持っておくべきものだと思います」
紫歩は首を横に振る。
『もらって』
決して押しつけがましくも哀願するようでもなかったが、代わりに眼前に虎がいる錯覚をおぼえるようなある種の威圧が忍んでいた。
ましろは微かに気圧されるものをおぼえた。
なんとなく紫歩の細い指を見つめた。
透き通るように不自然な白い色をしている。少し視線をずらすと、否応なしに『もらって』という文字の圧が追い詰めてくる。
ましろは、ひどく生真面目な表情をして自分の手元に視線を戻した。
はぁ、とため息を一つこぼす。
ましろは、首の後ろでくくっていた髪をほどいた。真っ白な髪がはらっと崩れて背に流れる。ほつれ毛が地面に舞落ちた。
ましろはワインレッドのリボンをテーブルの上に置くと、紫歩の顔をじっと見据えて、言葉を投げた。
「少しの間お借りしますね」
ましろは箱の中に納められていた紫色のリボンを、まるで蒐集家が高価な壺を扱うように繊細な手つきでとりあげた。
そして、紫色のリボンを軽く口にくわえると、手ぐしで軽くブロッキングした。
次いで、正面から見て左側の髪の毛を束ねて、紫色のリボンで結った。テーブルからワインレッドのリボンを取り上げると口に軽くくわえ、同様に右側の髪の毛を束ねて結う。鏡もなにも見ていない上に、コームすら使っていなかったため、不格好ではあったものの、ましろの髪型はツインテールに変わった。
紫歩はそれを見て、満足げに口角をあげた。
『あなたがもらってくれてよかった』
「私は借りただけです。いつか必ず返しますから」
言葉に紫歩は一瞬ぽかんとした顔をした。
しかし、すぐに自分を取り戻してスケッチブックを膝の上に置くと、ましろの手を握り締めてきた。紫歩の手は何かを必死に抑えるように震えていた。
どこからか、救急車のサイレン音がましろの耳に近付いてきた。
春の風がそんなふたりの頬を撫でた。




