第二章(一)
再び眼を開けた。
風に騒めく樹々の音に紛れるように、レオアリスが寝転がっている緩やかな斜面の右手から、小さな幾つもの足音が近づいてくる。小さな声も。
今いる狭い草地を囲む、木立のすぐ向うで足音は止まった。
樹の陰から自分を恐る恐る覗き込む幾つかの頭を視界の隅に捉え、レオアリスは敢えて眼を閉じ、眠っている振りをしてみせる。
敵意は感じられず、覗いている姿が皆まだ子供だったからだ。
ひそひそと、だが賑やかしく幼い声が耳に届く。
「誰か行きなよ」
「誰って、誰が?」
「寝てるじゃん、見に行くだけなら恐くないよ」
「ちょっと寄って、ぱっと戻っておいでよ」
「だから誰が?」
「でもあれ、落っこちたひとかなぁ」
「うーん」
しきりに囁き交しながら、一向に近寄ってくる気配はない。
次第にレオアリスは、寝ている振りをするのが面倒臭くなってきた。何人いるのだろう。子供ばかり十人近いか。
「おばばが言ってたもん。ここにいるって」
「おばばがちゃんと落としたって言ってたし」
その言葉に、レオアリスは堪らず飛び起きた。
「てめぇらかっ!」
草地を蹴り、木々の間に降り立つと、手近な子供の襟首をひっ捕まえる。
「きゃああっ」
隠れていた子供達が、一斉に辺りに散った。
「何考えてんだコラ! 普通あの高さから落ちたら死ぬぞ!」
「きゃああ!」
「きゃああ!」
残りの子供達は二、三本離れた木の陰に身を寄せ合い、恐々とレオアリスと襟首を掴まれた少年を覗き込んでいる。
少し大人気ないと思い直し、レオアリスは掴んだ手を緩めた。少年がぱっと身を翻し、仲間達の中に駆け込む。
一、二、三……と人数を数えてみれば、四、五歳位から十一、二歳位まで、男女合わせて九人もいる。
「お前等……」
口を開いた途端、彼等はびくりともう一本分、樹々の間を後退った。
レオアリスは害意のない証拠に、両手を開き、何も武器などを持っていない事を示す。
実際、黒の上下に包まれた細身の身体には、丈の長いその上衣の下にも、短剣一本身に付けてはいない。
「怒ってねぇからさ。何の用だか……」
「何だぁ、子供じゃん!」
「大人じゃないじゃん!」
「あんなんじゃダメだよ、おばばのばか」
「……ああ?」
子供達のいかにも失望した声に、ぴくりとレオアリスの眉が上がる。
「ちょっと待て誰がガキだって? 俺はもうすぐ十七だ。大体言っとくけど、お前等よりずっと年上だぜ」
しかし子供達は聞く様子もなく、興味を失ったようにレオアリスに背を向けて、来た道を戻りはじめた。何故か、用がある訳ではないレオアリスが、慌てて彼等を呼び止める。
方法は判らないが、どうやらレオアリスを狙って『落とした』ようなのだ、正直これで放っておかれては身も蓋もない。
「あー、ちょっと……待てって。ほら、何か訳があって俺を、えーっと、落としたんだろ?」
彼等の前に回りこんで身を屈め、子供達の目線に合わせて顔を覗き込む。
だが返ってきたのは無情な返事だ。
「兄ちゃんじゃ役に立たなさそうだもん!」
「はぁ?」
いきなりきっぱり断じられたが、さすがにここ最近、役に立たないなどと言われた記憶はない。
「あいつらをやっつけるのに、兄ちゃんじゃ無理だもん」
「武器も持ってないなんて、がっかりだよね」
「ねー」
「おばばは間違えたんだ」
「すっごい強いひとだって言ってたのにね」
「ねー」
口々に顔を見合わせて頷き交す子供達を眺めながら、レオアリスは考え込むように口元に手を当てた。どうやらこの子供達は、何らかの手助けを必要としているようだ。
今まで寝転がっていた草地にちらりと視線を向ける。
迎えはあとどれくらいで来るだろう。
王都からここまでハヤテの翼でも通常一刻はかかる事を考えれば、少し状況を聞いてみる位の時間はありそうだった。
軽く頷くと、レオアリスはに、と笑ってみせた。
「お前等のおばばは正しい。俺は結構役に立つぜ? まあ、どうするかは話を聞いてからだけど、取り敢えずそのおばばとやらの所に連れてけよ」
子供達はレオアリスの言葉に再び顔を見合わせ、遠慮の無い疑り深そうな視線を向けると、口々に声を揃えた。
「嘘だぁ」
(――こんの……、くそガキ共……!)
レオアリスは思わず両手を握り込み、それからやり場のないまま力なく肩を落とした。
しょうがないから付いてくれば? などと言われては、さすがにそこまでの義理はないのだが、レオアリスは子供達の後について歩きだした。
どうしても気になったからだ。
例えばハヤテの行く先に何らかの術が施されていた場合、その気配に気付かない程ハヤテは鈍感ではない。レオアリスにすれば尚更だ。
術はある程度噛った。いくら気を抜いていたとはいえ、自分を叩き落とすような荒っぽい力が働けば、気付かない事は無いだろう。
それとこの相手は、どうやらレオアリスに用があるらしい。
そのくせ、とレオアリスは上空をちらりと見上げた。
あんな所から叩き落として、死んだらどうするつもりだったというのか。用があるのにそれは粗過ぎる。
だから多分、死なないと想定していたのだ。
この子供達の会話からも推測できるように、相手――レオアリスが大体どんな存在か、予想が付いていたのではないか。
面白いから会ってみよう、と、そう思った。
穏やかな線を描く斜面を子供達の後についてしばらく下り、再び昇りに差し掛かったくらいで、前方の丘の上に一本の高い木が見えてきた。
子供達の足が駆け出しそうに速くなる。
一番後ろにいた年長の少年が振り返ってレオアリスを見上げた。
「兄ちゃん、おばばに会って満足したら帰るんだぞ」
(ムカつく……)
いや、こんな所で子供相手にムキになってはいけない。
何と言っても自分の方がずっと年上なのだと、レオアリスはひきつった笑いを抑え、そっと深呼吸した。
ふと、自分を見上げている少年の表情に目を留める。
(ん?)
「危ないんだから」
生意気な口調だが、実はその奥に心配そうな響きが隠れている事に、レオアリスは気が付いた。
「――何だ、心配してるのか?」
からかうようにそう言うと、気の強そうな頬をちょっと赤くして、少年はそっぽを向いた。
「べっつにーっ! 兄ちゃんが死んでも知らないけど、死体片付けんのが嫌なだけだい」
レオアリスは黙って少年の顔を眺めた。死ぬとか死体とか、この子供達が口にするには物騒過ぎる言葉だ。
周りを見渡せば、子供達は一様に不安そうな顔をレオアリスに向けている。
レオアリスは殊更に笑ってみせた。
「心配すんな。ほら、普通、あの樹よりも高いところから落ちたら死ぬだろ?」
レオアリスが指差した樹は、丘の上に生える、五層の塔程もあるものだ。
周囲の樹々から一際高く抜け出し、太い幹から大きく傘のように枝葉を広げている。
子供達はその高さを想像したのか、怖そうに首を竦めてうんうんと頷いた。
「でも俺、落ちたけど生きてるし、だから」
レオアリスとしては安心させようとして言ったのだが、小さい子供達の数人は、途端に顔を歪め声を上げて泣き出した。
「うあ」
突然の事にどうしていいか判らず、レオアリスが狼狽えていたその時、どこからかしわがれた声がかかった。
「――おやおや、何を泣いているのだえ」
子供達が喜色を満面に浮かべ、声のした方に走りだす。
彼等が駆けていく方、丘の上に、密集した樹々が折り重なるように枝葉を開き、壁を作っていた。
樹々の中ほどに、先程レオアリスが指差した樹が、ひときわ高く天へと伸びている。
子供達を追いかけて歩み寄るレオアリスの前で、壁のように密集していた茂みが、ゆっくりと真ん中から割れ始めた。
そこから、どれほど歳経ているかも判らない程の老婆が、丸めた背中を支えるように、細くすべらかな木を杖にして歩み出た。
足が悪いのか、右足を重そうに引きずりながら近寄ると、子供達の前で立ち止まり、幼い子供達が自分に抱きつくように纏わり付くのを、老婆は穏やかな笑みを浮かべて見回した。
「客人を前に、泣いては笑われるよ」
「おばばが悪いんだー!」
「お兄ちゃんあんな所から落ちたって」
「痛いよぉー!」
余計心配させたのかと、レオアリスは反省交じりに右手で短い黒髪をくしゃくしゃと交ぜた。
大抵の事が自分にとって問題にならない分、他者がどう感じるか、いまいち理解できていないようだ。
老婆は空気を擦るような笑い声を上げ、両手で子供達の頭を撫でながら、皺に埋もれた眼をレオアリスに向けた。
落ち窪んだ瞳に浮かぶ色は、黒にも青にも変わる。
始めて見る、そしてまたどこかで見たようなそんな色だと、頭の片隅で思った。老婆の口元が柔らかい皺を刻む。
「随分手荒にお呼びして、ご迷惑でしたろう」
「ああ、いや……」
何と返すべきか言葉を探している内に、年長の少年が老婆に近寄ると、その顔を見上げた。
「おばば、この兄ちゃんじゃ無理だよ。間違ったんだろ?」
「間違ってなどおらぬよ」
「だって、武器もなんも持ってないぞ! すぐ殺されちゃう」
「大丈夫じゃよ。……彼はちゃあんと剣を持っておるで」
レオアリスの肩がぴくりと反応する。
すっと細められた漆黒の瞳を眺め、老婆は小さく笑った。
「どうぞ中に……。どうか、この子らの助けになっていただきたい」
そう言うと、子供達を手招き、口を開けた茂みの中へと歩いていく。
一瞬だけ迷い、レオアリスは茂みの奥に足を踏み入れた。