第一章(二)
「クライフ中将、上将をお見かけしませんでしたか」
爽やかな日差しの注ぐ回廊で涼やかな声に呼び止められ、第一大隊中軍中将クライフは、爽やかな気分が一気に褪めた。
乳白色の円柱を連ねた回廊を彼の方に歩み寄ってくるのは、すらりとした長身の、金の髪の、蒼い瞳の、むかつくぐらい顔の整った男で、クライフの前に立ち止まると、こいつにしか似合わないだろうという程の卒のない笑みを口元に浮かべた。黒地の軍服に包んだ身のこなしも卒がない。
第一大隊の一等参謀官である、ロットバルトだ。
聞かれたくない相手に、聞かれたくない事を聞かれたもんだと、クライフは内心溜息をついた――つもりだが、どうやら顔にすっかり出ていたようだ。
ロットバルトは不審なものを感じたのか、蒼い瞳を冷ややかに細め、クライフに据えた。
「……どちらに?」
「ああー、いや、まぁ、すぐ帰ってくるって。心配すんな」
努めて明るく言ったものの、ロットバルトはあっさりと肩を竦めた。
低く響きの良い声には、取り繕う事も無い呆れた色がある。
「今の言葉で何が判るんです。……アスタロト公とご一緒ですか。それとも飛竜で?」
「――飛竜です」
自分より後に中将に――彼の場合一等参謀官という職位だが、とにかくクライフより後にその地位に就いたくせにこの不遜な態度はどうかと思うが、取り敢えずクライフは不必要につつかないよう、できる限り簡素に素直に答えた。
レオアリスがクライフに告げて彼の飛竜で出てから、もう二刻は経っている。
それが朝の会議後で、今はそろそろ正午になろうというところだ。
ただのいつもの散策だし、程なく戻ってくるだろうから、そう問題はない。
クライフとしては更に突っ込まれるかと少し恐々としていたのだが、ロットバルトもそう考えたのだろう、普段は容赦のないこの参謀官も特に苦言も言わず頷いただけだ。
「仕方ありませんね。お戻りになってからでも私の用は足りる。ただ副将が探しておられたので、上将がお戻りになったら、先ずは執務室においで頂くよう伝えてください」
ロットバルトの用はいつもの通り、午後の演習の布陣についてだろう。
彼の手にしている書類の束に眼を留め、午後の演習を思って少々うんざりとしながらも、クライフは明るく軽く、颯爽と片手を上げた。
「りょーかい了解。んじゃな」
そう言って歩き出そうとした時、上空に飛竜の羽ばたきが響いた。
「お、言ってる間に戻ったんじゃないか?」
少しほっとしながら、クライフは短く刈り上げた明るい茶色の頭を、回廊の丸みを帯びた天井の下からひょいと出して、空を振り仰いだ。
思ったとおり、二人のいる士官棟の中庭の上を、銀翼の飛竜が旋回しながら降りてくるところだった。
ロットバルトも整った顔の上に呆れたような、だが僅かに温かみを覗かせた笑みを小さく浮かべ、中庭に身体を向ける。
二人は左腕を胸に当て、その場に片膝を付きかけて――同時に動きを止めた。
飛竜の背は、空だ。乗っているべき主の姿が見当たらない。
飛竜は一声、高く鳴いた。
「……ハヤテ! 上将はどうした!」
見るからに興奮した様子の飛竜へクライフが駆け寄り、ロットバルトも厳しく眉を顰めて中庭に降り立つ。
飛竜は今にも再び飛び立とうとするかのように翼を震わせ、それから二、三度鋭い声を上げると、また翼を広げた。
「……飛竜の用意をさせましょう」
緊張の面差しのまま、ロットバルトが回廊へ踵を返しかけた時、今度は鳥の鳴き声が響いた。
羽根を舞い落としながら、見覚えのある漆黒の鳥が姿を現す。
二人の中間点に降り立ち、パカリとその黒い嘴を開くと、彼等の年若い上官の声がふわりと流れた。
『……悪ぃ、ちょっと落っこちた。ヤンサール丘陵の、真ん中あたりかな。移動手段が徒歩しかねぇ。カイに案内させるから、適当に迎えよろしく』
少し気まずそうな、だが明るいその響きに、クライフはハヤテの長い首に手を置いたまま、ロットバルトは回廊の石畳に片足をかけたまま、束の間固まった。
「……は、はは……。落っこったって」
「――迂闊な……」
大陸の西部に位置する大国アレウスは、大陸で最も広大で富裕な国土を有していた。
王都は「美しき花弁――アル・ディ・シウム」と呼ばれるその名が他国にも知れ渡るほど栄え、王都を中心に放射状に整備された基幹街道が、国内の交易を支えている。
一方でアレウス王国国土は東に峻険ミストラ山脈、西に古の海バルバドス、南に灼熱の砂漠アルケサス、北に黒森ヴィジャが行く者の足を阻む。
そこから先は数多くの小国が乱立し生まれては消える、争乱に満ちた土地が広がってるが、王国の四方を取り巻く生者を寄せ付けぬ酷地は、逆にそれら小国の侵入を阻む絶好の塁壁でもあり、それが王国が長期の安定を保っている大きな要因でもあった。
ただ四方の辺境のうち、古の海バルバドスは、海皇と呼ばれる存在が深淵の世界を治め、他国とは一線を画している。
およそ四百年前、バルバドスとの間に大きな戦乱があり、百年もの長きに渡り、西方の辺境部は激しい戦乱に覆われた。
双方共に多数の死者を出した戦乱は、三百年前に両国の間に不可侵条約が結ばれる事で漸く決着を見、以来大きな戦乱はなく、時折小規模な争いが発生する他は国内は安寧を保っている。
国の政務を司るのは、大別して四つの機関に分かれる。
内政を司る内政官房、治水、土地、生活を司る地政院、財務、商工業を司る財務院、治安、軍務を司る正規軍。
また正規軍とは別に、王と王城を守護する王直属の軍である、近衛師団があった。
近衛師団は王を守護する王直轄の部隊であり、総将アヴァロンの元、総数は約四千五百名、それぞれ一千五百名毎の三つの大隊に分けられる。
第一大隊から第三大隊までの各大隊は大将が率い、その中で更に三つの中隊、左中右軍に分かれた。
正規軍と近衛師団との関係は、国土の保守平定と王の守護、どちらが上位という訳でもない。
だが組織の違いは意識の違いであり、多少の反目感情が存在しているのもまた事実だった。
ロットバルトは飛竜の鞍を整えながら、軽く溜息をついた。広い厩舎の隣では、クライフが楽しそうな鼻歌交じりで、自分の飛竜の準備に余念が無い。
副将であるグランスレイはレオアリスの迎えを二人に命じた。
平時であれば一人で何ら問題はないと反論するところだが、数日前、ヤンサールでは西方三軍に動きがあったと聞いている。
特に関連も影響も無かったため、レオアリスに報告をしなかったが、あの時一言告げておくべきだったかと、ロットバルトは僅かな後悔の念を抱いた。
(余計な事に、首を突っ込まないといいが)
上官の行動を不遜な表現で評し、ロットバルトは騎乗の準備の手を早めた。