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(5)vuddy



 ダレンたちが帰っていくと、家内は嵐が過ぎ去ったかのように物静かになった。ベッドに横臥して瞑目していたディンプはその静けさを感知し、意識にまとわせていた夢想の遮蔽幕を払い、深呼吸を繰り返してから覚醒した。

 室内に染み入った夕日が瞳へと侵入しようとしてくるのを瞬きで弾き返し、透明なリンゴをかじるように欠伸を一つする。そしてほんの数分間の睡眠で見た夢の光景を味わうようにして回想させた。

 そこは果ての見えない広大な牧場。地域や季節に捕らわれない数兆にも及ぶ動物たちがそこにいた。しかし動物たちは剥製のように停止している。躍動感のある姿勢を取っているだけで一向に動き出す気配がなく、乾燥した体毛の奥にある皮膚は血液の巡りを一切感じさせない。ディンプはそこにいる動物たちに片端から触れていく。そしてそれらの生死の判別を行う。そんな途方もない夢だった。

 ディンプは手を開閉させ、夢で触れていた動物たちの感覚を思い出そうとしてみたがどうしても叶わなかった。夢での感覚を思い出すことを諦めたディンプは、横たえていた上体を起こし、今度は夢の中に登場した動物たちが何を意味しているのか考えた。

 動かない動物は果たして動物といえるのだろうか? 死んで動かなくなった動物はもう動物とは呼べないのでは? それならば動物は死んだら何になるのだろうか? 動物とは違う、何か別の存在になるのだろうか?


 胸に穴を空けながら死に物狂いで書いた小説はここで止まっている。2年前の僕はここまで書いた段階で書くことを完全に止めたのだ。

 止めた切欠、この小説が未完結という形をとった重大な原因とやらをそろそろ話すときがきたようだ。

 原因は、僕が懇意にしている友人ヨトラプシカの一言だ。

 先行きがまったく見えなく、明らかに行き詰っていた僕は、少しでも気分転換をしようとヨトラプシカを食事に誘った。ヨトラプシカは、学生時代から仲良くしている数少ない友人の一人であり、僕が書いた小説を読む唯一といってもいい読者だ。僕はなにかしらの壁にぶつかった際、ヨトラプシカを食事に誘い遠まわしに相談することで解決の糸口を見つけているのだが、その日の僕はいつにもまして直接的な問いかけをした。それだけ僕は追い詰められていたということだ。

「アドバイスをくれ」

 並々と注がれたペイルエイルをグラス半分まで飲み干し、鮭のフライを摘まんでいるヨトラプシカに言った。

「ウソロソアラにしては珍しい言い方じゃん。いつもはだらだらと迂回しながら意見を聞いてくるくせに」

 ヨトラプシカは鮭のフライを噛みながら笑い、その笑みもろとも流し込むように一息にグラスをあおった。

「いいよ。わたしになにかできるってなら、聞いてやる」

 僕は『vuddy』について語る。友人たちが帰宅した後、部屋に戻るヴァイプを出迎えるディンプ、二人の出生について調べていることを聞く、関心がないディンプはそれよりもこの絵を見てどう思うかヴァイプに訊ねる、今までのものとは毛色が異なるその絵をヴァイプは死を連想したがそこには生々しさが欠けていると述べる、深く考え込むディンプを手助けできないかと思ったヴァイプは子猫のことを思い出す、あれを殺せばいいじゃないか、それをディンプに話す、ディンプは少し悩んだ末に今から行こうと言う、二人は一つの自転車に乗って子猫がいる雑貨屋裏の草原へと向かう、沈み込む夕日は車輪の回転よりも遅く山々の稜線を濃緑に縁取る、しかしいるべき場所に子猫はいない、二人は雑貨屋の主人に駄目もとで訊ねてみる、主人は言う、皮を剥いで三味線にしちまったよ残念だったな、べべん、と鳴る見たこともない弦楽器、ほのかな星を頼りに帰宅する二人、無言、ディンプは思う、死んでしまった子猫は三味線として生きているのでは、日が変わる、ヴァイプは友人たちと産婆のもとへと向かう、しかし産婆は双子のどちらが先に生まれたか覚えていない、どんなに問いかけても産婆は記憶にないと言い張る、ヴァイプたちは諦め賭けも有耶無耶になる、家で絵を見つめるディンプは死を表したいと真剣に思うようになる、そこへヴァイプが帰宅する、ディンプはヴァイプから賭けの結果を聞く、ディンプはヴァイプに死を描きたいと相談する、ヴァイプは沈思黙考し僻地にいるあの産婆なら殺しても問題はないと言う、その夜二人は産婆のもとを訪れ悲鳴を聞く間もなく殺害する、その日からディンプは腐敗していく産婆をスケッチする、彼の容貌は腐りゆく産婆のように次第にやつれていく、腐乱して形を崩していく産婆に対してディンプのなかでは確固とした存在としてその姿かたちが残っていく、ディンプは気付く、死とはより克明に他者に残る手段なのだ、ディンプはヴァイプに依頼する、僕を殺してくれ、ヴァイプは狼狽し、生まれて初めてディンプの頼みを断る、しかしディンプは自らを――。

「ふぅん、なんだかどこかで読んだことがある気がするよ」

 僕の頭は泡のように真っ白になり、そのあとに続く物語が口から出なくなる。ヨトラプシカはメニューを眺めて次に飲む酒を物色している。おそらくヨトラプシカに悪気なんてなくて、目の前にあるつまみを箸で摘まむような気軽い成り行きでその言葉を口にしただけなのだ。けれどそれは、僕のなかで築かれつつあった物語の王国を容易に半壊させた。

 まったくのゼロから作り上げたものでは決してなかった。今まで見聞きしてきたものを踏襲して組み立ててきたものに過ぎなかったのは知っていた。知っていたが実感はしていなかった。頭が真っ白になったというのは、つまりそういうことなのだ。僕は僕が住まう国を僕の国だと思っていたがそれは違うのだ。その国は僕が生まれる何代も前から地道に築かれてきたものなのだ。

 ああ、しかし、狭量な僕はそのことを受け入れていることができなかった。それどころか、ヨトラプシカの仕事の愚痴を聞いて上げて気分を良くさせ、さらに酒を飲ませ、酩酊させ、意識を混濁させ、僕の家に連れていき、コードで縛り上げて見動きを封じ押入れのなかに監禁したのだ。そして、この文章を綴っているその背後の押入れには未だにヨトラプシカがいる。生きているか死んでいるか、それは分からない。何せヨトラプシカを監禁してからもう三週間あまりが経過している。生きていたとしても生死の境にいることは間違いない。

 可哀想だとは思っている。できるならば今すぐ暗闇から解放して、温かい食事を与え、汗と垢に覆われた不潔な身体を綺麗な水で洗って上げたい。しかし、それは許されない。ヨトラプシカは王国に背いた反逆者なのだから。それ相応の罰を受けなければならない。

 僕はディスプレイから顔を上げ、背後の押入れを見やる。襖を隔てた押入れは不気味なほど静まり返っている。そこに誰かがいるとは到底考えられない。

 そう思っていると、襖の隙間からなにか小さな紙切れが差し出されているのを見付ける。あんなもの、いつからあそこにあっただろうか? 不思議がりながら僕はそれを取りに行く。

 それは過ぎた月のカレンダーをメモ用紙程度の大きさに切った紙片だった。しかしただの紙片ではなかった。そこには、死滅する寸前のミミズが寄せ集められたかのような文字がびっしりと綴られていた。


「なぁヴァイプ。僕を――」

 喰エヨ。

「は?」

 死の淵に近付いたことで正気が保てなくなったのだろうか。

「ヴァイプ、僕の心はどこにあると思う? 薄っぺらな頭蓋骨の下にある脳みそのなかにか? それとも、この肋の浮いた生白い胸のなかにある心臓か?」

 剣幕に押されて閉口するヴァイプにディンプは続ける。

「すべて違う。僕は僕の外面に心を宿したことは一度としてない。僕が心を宿したのは僕のなかから生まれ出てきた創作物だけだ。だからな、ヴァイプ」

 唇の端から垂れてきた赤色の筋をくの字に歪め、ディンプは微笑んだ。

「僕の心は、僕が生み出した創作物のなかにある」

「サッパリわからない。それとお前を食うことにどういう因果があるってんだ?」

「そう焦るなって。僕の心は創作物にある。それはつまり、僕の創作を見て何かを感じた人のなかにも僕が宿っているってことなんだ。お前も見たことがあるだろう? 僕の絵を」

「ああ、もちろんある。俺はお前の絵が大好きだからな」

「だからヴァイプが僕の肉を食らうことで、まだ意識のある僕の肉体を取り込むことで、お前のなかに僕の心と意識を転移させようと思うんだ。身体なんてものがなくても、心と意識があれば、『僕は』生き続けられる。お前のなかで、僕は生き続けるんだよ。理解した、ヴァイプ?」

「いいや。お前の言っていることを、俺はまったく理解できない」

 ヴァイプは強風に吹かれた梢のように頭を左右に振り乱す。固く結ばれた目の端から小さな粒が一つだけ、飛んだ。

「ディンプ。お前が創り出した絵や詩に、お前の心が籠っているというのはよく分かる。そして、お前の心が、絵を観た俺たちのなかに宿っているというのも、まぁ、何となくだけど理解する。でもだ、どうしてそこからお前を喰うことに繋がるっていうんだ」

「そう難しく考えなくていいんだよ、ヴァイプ。このままだと僕は間違いなく死ぬ。でも僕はまだ死にたくない。やり残したことが山ほど、いや、星の数ほどあるんだ。その願いをすべて叶えることはできないと知っているけど、少しでも多く、ほんの、少しでも多くの願いを、僕は、叶えたい。そのためには、ヴァイプ、君の力が、君の身体が必要なんだ」

 一滴一滴を慎重に絞り出すようにして点滴されたディンプの言葉によって病が去るようにヴァイプから懊悩がなくなった。

 ヴァイプは息を吸い、無言で頷いた。

 それを見てディンプは、力なく微笑んだ。

 ヴァイプはディンプの胸の傷口に躊躇いもなく片手を刺し込んだ。熱湯のような血液がその手を覆った。ディンプは微笑みながら吐血した。ヴァイプは指先を熊手の形にして皮膚の裏側に触れ、草むしりをするようにディンプの胸から力一杯剥ぎ取った。月光に彩られた血飛沫がヴァイプの頬に、辺りの草木に浴びせかけられた。ヴァイプは剥ぎ取ったディンプの皮膚を口に運び、その強靭な顎と歯で咀嚼した。この歯応えがディンプの肉体であり、この味がディンプの意識なのだと思った。

 口から垂れた血液を舐め取り、ヴァイプは大きく拡がったディンプの傷跡に、今度は両手を入れた。先ほどよりも血液の温度が低くなっているように感じた。この温もりが失われてしまうその前に、ディンプを喰い終えなければならないのだ。そう思っている間にも血液の温度は低下していた。それが焦りを呼んだのか、細い肋骨を掴んだ指先が滑って外れ、ヴァイプは後方の草むらへと転がり込んだ。仰向けに倒れたヴァイプの視界には、襤褸切れのような木の影が映っていた。そして木の葉の隙間からのぞいた夜空には、数え切れないほどの星々が瞬いていた。

 ヴァイプは急いで身を起こし、ディンプの元へと駈け寄り、そしてディンプの名を呼んだ。ディンプはもう答えなかったが、血の気のなくなった顔は笑みを湛えていた。ヴァイプは内側から胸を震わせるようにして叫んだ。それは夜の森に力強くこだまし、深い眠りに落ちていた動物たちを一斉に跳び上がらせた。

 ヴァイプは泣きながらディンプを貪り食った。皮膚を裂き、肉を噛み切り、骨を砕き、内臓を啜り、眼球を噛み潰し、脳味噌を丸呑みにして、血液を舐め取った。ヴァイプは何度も嘔吐した。そして地面を舐めるようにしながらその赤色の吐瀉物を再び口にした。どのくらいの時が経過したのかヴァイプは知ろうともしなかった。ただ一心不乱にディンプを取り込んだ。幾つかの星が瞬き、ヴァイプがふと我に返ったとき、ディンプが横たわっていたその場所には一欠けらの肉片、一滴の血液すら残らなかった。

 ヴァイプは茫然としながら自らの腹部に手を添えた。鉄板のような腹筋に覆われたこの腹のなかに人が一人収まっているとは思えなかったが、そこには確かにディンプがいるのであった。

 自分のなかに自分以外の命があると感じたヴァイプは、まるで母親になったかのような心境になる。しかしその感情は、二人がまだ一つの胚であった頃の思い出が想起したことによって打ち消された。

 ヴァイプはそっと目を閉じる。そこは果てのない暗闇だったが、その無明のなかでも確かに片割れの存在を認知することができた。ヴァイプがディンプとの一体感を全身で感じた、そのときだ。

「気分はどう、ヴァイプ」

 暗闇のどこかで、声がした。

 ヴァイプは声の主がディンプだと思い、全身から湧き上がってきた喜びで打ち震えた。ディンプが言っていたことは本当だったのだ。創作物に宿った心、そして意識を宿した肉体を取り込むことで、死にゆく人は他者のなかで生き続けられるのだ。

 しかし、冷静になってその声を反復させると、明らかにディンプのものとは声質が異なっているのだった。ヴァイプは不審に思いながら、自らの内奥に問いかける。

「お前は、ディンプなのか?」

 声は反響を続けながら遠ざかる。やがて小さな声が返ってくる。

「残念、わたしはディンプじゃないよ。わたしの名前はヨトラプシカ」

 ヴァイプはその名前に覚えがない。だから村の住民ではないことは確かだった。どこか遠い国の誰か、ディンプが読んでいた本の著者の名前が記憶に残っていたのだろうか。それより、ディンプはどこへ行ったのだ。こいつが、このヨトラプシカというやつがディンプをどこかへと追いやったのか。

 混乱していくヴァイプを嘲笑うようにして、ヨトラプシカは飄々と続ける。

「わたしはわたしの国を追放されたものだよ」

「そんなことは聞いていない。それよりディンプはどうした。ディンプをどこへやった」

 ヴァイプの力任せに咆哮は体内で幾重にも反響する。

「きみの大事な兄弟は、わたしがいた国へと向かったよ。わたしの代わりに牢屋に監禁されている」


 僕はその紙片から顔を上げ、襖に仕切られた先にある押入れを凝視する。よく見知った変哲もない襖の先には、予備の布団や季節外の衣類、使わない日用品、アルバムやダンボールなどが収納されており、それらと一緒に反逆者のヨトラプシカが監禁されているはずなのだ。

 しかしこの紙片に綴られた文章を読むからには、監禁したヨトラプシカは自由を得ていて、その代わり、僕の脳が生み出した虚構の人物であるディンプが押入れに監禁されているようなのだ。

 手元の紙片へと視線を戻して続きを読もうとしたが、まるで僕のその行動を見透かすように文章はそこで途切れていた。

 僕は熱を帯びていく息を外に出さず、呑み込んで体温を上昇させる。震える指先に支えられた紙片が黴臭い大気と摩擦してカササと鳴る。興奮のあまり顔が引きつる。笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。ただ一つ、明確な言葉として浮上している感情は、僕が喜びに打ち震えているということだけだった。

 紙片をくしゃくしゃに丸めてポケットにしまい、空いた手を襖の引手に掛ける。

 息をする。

 生きている。

 僕は生きている。

 息をする度にそう実感する。

 そんな当たり前のことですら僕を感動で揺すぶる。

 息を止め、襖を開ける。

 そのなかにいるものと対峙する。

 僕が口を開く、その寸前、

「はじめまして」

 聞いたこともない声。

 けれど、聞いたことのある声。

 既視感のように不思議な懐古に浸りながら僕は押入れのなかに入り、三つ折りの布団の上に乗っかって中側から襖を閉じる。

 薄闇の幕が瞳を覆う。本当の暗闇に行きたくて僕はさらに上からまぶたを落とし、そして、そこからディンプに返事をする。

「こちらこそ、はじめまして」

「なんだかそんな感じしないね」

「僕もだよ。なんだかずっと、生まれたときから一緒にいたような気がする」

「はは、それはないよ。だって生まれたときにきみはまだ僕を知らない」

「知らない?」

「そう、知らない。きみが僕を知ったのは、初めて文字を文字と認識したときのことだ。マルやバツといった記号と同列にしか捉えられていなかった文字に意味があることを知り、その意味が連なることで人や物語を生み出せると知ったときのことだ」

 僕の胸のなかに小さな温度が宿る。

 その温もりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになる。

 いつから書き出したかも思い出せない物語。

 なにもかもが嫌で、懐中電灯とカレンダーの切れ端と鉛筆だけを持って押入れのなかで何時間も綴り続けた文字の連なり、言葉の塊、あの物語、あのキャラクターたち。この場所があれば僕は満たされ、日常生活に蔓延る嫌なことをすべて、すべて忘れることができた。

 僕は物語とキャラクターたちを追い求めることだけに熱中し、現実を蔑ろにして生きてきた。そうしていたら僕からすべてがなくなっていた。二十歳を過ぎ、ふと顔を上げたとき、僕の周りには何も残っていなかった。僕に残っていたのは数億に及ぶ紙片の山々、虚構の束。

 僕は一体なにをしていたのだと思って冷や汗が出た。

 だが今更引き返すことはもうできない。今から引き返したって、見逃したものは取り返せないのだ。僕は決意してペンを握り締め、紙に文字を書き殴り続けた。現実から向かってくる何もかもを無視して、目を逸らして、逃げて、逃げて、逃げて、たまに少しだけ振り返ってみたりして、背後に誰もいないことに安堵しつつも寂しくなったりして。

 僕が進んだ後には、文字だけが散らばって落ちていた。

 点々とした連なり、まるで夜空で瞬く星々を無作為に繋いだ星座のように本来ありもしない虚構で生み出された関係性。

 書いたって金になるわけでもない。誰も読まないから誰かが喜ぶこともないし悲しむこともない。ただ自分のためだけに書き続けた。何もかも失ってしまった僕を満たすためだけに、空っぽの文字を、虚構の物語を、連ね、連ね、連ね続けてきたんだ。

 でも、もうそれもそろそろ終わりで、最近、小説を書くことがとてもつらい。書いていて死にたくなる。物語も支離滅裂だ。もう文字も輝いていない。キャラクターなんて長らく僕の小説に登場していない。僕は僕がなにを書いているのか分からない。現実との境目が曖昧だ。人称だって滅茶苦茶だ。

 逃げたい。

 そう強く思うようになった。

 でもその度に、どこにも逃げる場所がないことに気が付く。

 ここへ逃げてきた僕には、もうどこにも逃げる場所なんて残っていないのだ。

 どうすりゃいい?

 頭まで布団を被り、そのなかで自分自身に問うてみた。

 けれど、僕は答えてくれなかった。

 無責任だと思って苛立った。

 歯を食いしばり、拳を握り締め、瞳をむき出しにして僕自身を罵倒した。思いつく限りの汚い言葉で思い出せるだけの弱所を狙って僕を追い詰めた。

 でも、それもすべて欺瞞だ。

 本当に追い詰めるつもりなら、さっさと自殺でもすればいいだけの話なのだ。そう、分かっているはずの僕は、空っぽの言葉だけを使って自分自身を追い詰めている気分に浸りたかっただけなのだ。

 いつだって僕は逃げ道を探しているのだ。

 嫌になる、本当に。

 本当に――。


「いつだってそれは、胎動のように密かに進行している。

 音もなく、

 目にも見えず、

 読むことだってできない。

 でもときに、堪えがたい衝動となって僕たちのなかから現れる。

 音として、

 絵として、

 文字として。

 それは僕たちの胸を鋭く撃ち抜き、

 きめ細やかな鮮血を散らせながら記憶に焼きつく。

 その温度を、

 僕たちはまるで強迫観念のように忘れることができない」


 暗闇から声が聞こえる。

 これは誰の声だ?

 聞いたこともない声。

 けれど、聞いたことのある声。

 生まれたときから、

 誰よりも僕のそばにいた、

 いてくれた誰かの声。


「本当に好きなことからは、どんなに足掻いたって逃げられない。

 だから僕たちは安心して立ち向かえばいい」


 その一言で胸が燃え上がる。

 本当に好きなこと。

 思い出すまでもない。

 忘れたことなんて一度もない。

 僕がずっと好きだったこと。

 なにもかも擲ってまで追い続けたもの。

 鼓動の高鳴りに合わせ、拳銃で撃たれた胸の穴がまるで噴火する直前の火山のように疼きだす。髪の先から爪の先まで高熱を帯び、呼吸をするごとに熱は上昇して内側から僕を突き上げる。

 激痛が胸を奔り、耳鳴りがする。強引に息を吸ったときに治りかけの傷口が開いて溶岩のような血液が流れ出したかと思えば、灼熱の業火が胸から噴き出し、視界を一瞬で明るくした。

 そこには僕と、僕の影だけがいた。

 そこが僕の、世界だった。

 布団に燃え移った炎によって押入れがメラメラと音を立てながら燃え出し、内部に黒い煙が充満し始める。僕は咳き込み、押し出されるようにして閉じていた襖を開けて外へ飛び出す。その拍子に火の粉が飛び散り、部屋中に僕からあふれ出した炎が飛び移る。

 長年連れ添った本棚に、そのなかに収められた千の小説に、傷だらけの机に、湿った布団に、ぼろぼろの服に、愛用のパソコンに、外と隔ててくれたカーテンに、馴染んだ畳に、穴の空いた鞄に。

 今まで僕を形成していたものたちがオレンジ色に染まり、形を崩していく。その燃え上がる部屋のただなかに僕は跪き、なにもかもを焼き払おうとする炎の轟音に添えるようにして、唱える。


 小説を書きたい。

  小説を書きたい。

   小説を書きたい。


  誰も読まなくていい。

   僕だけを、

    ただ僕だけを感動させて上げられる、

     そんな小説を

      死ぬまで書きたい。




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