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(4)vuddy



 ライフラインを走破したヴァイプは、村の入り口の目印となっている巨岩の上に腰を据え、汗を吸ったシャツを風で乾かしながら友人たちの到着を待っていた。

 数百年もの雨風で鍛え抜かれた岩肌にヴァイプは手の平を添え、小波のように凹凸しながら広がっていく草原を見下ろす。しばらくして、ライフラインの奥に小さく蠢いている人影が見えてくる。恐らくあれはダレンたちだろう。ヴァイプは弾むようにして岩上に立ち上がり、10フィート下の地面へと降り立った。

 シャツはまだ湿り気を帯びていたが気にならない程度である。ヴァイプが膝の具合を確かめるようにして数度の屈伸をしていると、道の先から石ころを弾き飛ばす音が近付いてきた。

「遅かったな、ブラム。思わず一眠りしたくらい待ったぞ」

 ブラムは冗談を口にするヴァイプの前で自転車を停め、多少上がった息を丁寧に宥めながら言い返す。

「お前が速すぎるんだって。一体どんな鍛え方をすれば、そんな速度で走れるようになるんだよ」

 ヴァイプは「さぁな」と軽く受け流す。ブラムの鳶色の瞳には一瞬だけ嫉妬の火柱が立ったが、彼が自転車から降りたときには音もなく鎮火していた。

 少し遅れてロードとダレンが到着する。

「やっと、追いついた……」

 疲労交じりのダレンの呟きに覆いかぶさるようにして、「おい! ヴァイプ!」とロードが自転車に跨ったまま声高になって言う。

「お前が追い抜いて行ったときに、僕は扱けて大変だったんだぞ! ほら、ここを見てみろ、血が出ている!」

 ロードは右肘をヴァイプに突き出して指で示す。そこにはテントウ虫ほどの傷が赤い血を滲ませていた。

「そのくらいで、大袈裟だから」

 道すがら愚痴を聞かされ続けていたのか、自転車から降りたダレンはもう飽き飽きしたと言わんばかりに顔を顰めて言った。

「こいつ倒れた後も『腕が引き千切れたァ!』だとか『もう死ぬぅう』だとか頭を打った鳥みたいに散々喚いてたぞ」

 溺れてもがいているような動作をし、そのときの状況を滑稽に演じるブラムに皮肉られているとは思わなかったのか、ロードは誇張するような口調で、

「そうだ! 僕は本当に痛みで死にそうだったんだぞ!」

 肘の傷を巨岩の前にいるヴァイプに見せつけて言い放った。

「ああ、そりゃ悪かった。俺、走り始めると何も考えられなくなるんだ」

 空腹になるのは生理現象なので自分の落ち度ではないという感じにそう口にすると、納得のいかないロードはまだ追撃をしようとしてサドルから降りる。いい加減嫌気が差していたダレンはすかさず、

「ヴァイプも謝ってるんだ。ガキじゃないんだし、いい加減気がすんだだろう?」

 あと半日は叱責を言い募らないと気分が晴れないという思惑を巧みに表情で表わしたロードであったが、ダレンの言葉からこれ以上は子どもの癇癪と相違ないのだと悟り、「分かったよ」と渋々口を噤んだ。

「ヴァイプのお袋さんは家にいるんだよな?」

 折良く挟まれたダレンの問いに、「ああ」とヴァイプは頷き、村の方へと歩み出す。その後ろにまだ腹の虫を集かせているロード、その様子を鼻で笑うブラム、また諍いが始まるのではないかと呆れているダレンが自転車を押しながら続いた。

 遠く左手にうかがえる龍顎の山脈は、夢の中で聳えた景観ようにぼやけている。そこから吐き出された生暖かい息吹は、村に散在する樺の木立や道脇の草葉へと吹き付けられ、植物たちは龍の吐息に戦慄したかのように葉を毛羽立たせた。しかしその吐息は、賭けの報酬にどのようなものを命令するか気炎を上げて話し合っている四人の少年たちを脅かすことはできなかった。

 彼らは巻き上げられた頭髪を気に掛けることなく道なりに進んでいく。青い中天を通過した太陽はさらに地平へと傾き、斜めから射す陽光を糧にした石垣の影は一秒ごとに成長していく。昼間の気楽さに干された道を影は貪り食い、喰い、食い荒らし、増殖し増大し増長して夜を待つ。音もなく昼を侵している影の存在に気付いたのかは分からないが、友人たちの先頭を歩いていたヴァイプは足を止め、汁気を帯びていく道を見下ろした。

 半分を影に、もう半分を日光に明け渡している平坦な道。砂利の粒が風によって僅かに振動する道。俺はどちらだ。俺はどちらの道を行けばいい。日向と日陰を跨いだヴァイプは己の行く道を思い悩んだ。

「おい、ヴァイプ。さっさと行くぞ」

 いつの間にか自分より先立っていた友人たちが、佇立しているヴァイプを不審げに眺めながら言った。ヴァイプは面伏せていた顔を上げ、下を見ないようにして彼らの元まで駈け足で向かった。やがて四つ辻となった道を右に折れ、そこから道のりを彼らは自転車に乗って進むことにした。自転車を持っていないヴァイプは当然自力で走ることになるのだが、どうしてかそのときは、「誰か荷台に乗せてくれ」と友人たちに頼んだ。

「なんだなんだァ、さすがのヴァイプもお疲れかぁー?」

 扇情してくるロードの肩を小突き、ヴァイプはブラムに視線を向ける。ブラムは察しよく、背後を顎で示して「いいぜ」と不敵な微笑を浮かべた。

 荷台に跨ったヴァイプはブラムと背を合すような姿勢で腰を据える。「乗ったか?」ブラムの問い掛けに「おう」と短く答える。自転車が前進すると景色は手前から奥に流れていくように動き出した。

 二人分の体重を背負ったペダルが苦しそうな音を上げる。その音が徐々に痛切な叫びとなっていくとともに遠ざかっていく景観は、まるで背部から滝の底へと落下してくような心象をヴァイプに与えた。このイメージの根源には脇を流れる小川があるのだろうか? 緑色の追い風に髪を戦がせ、ヴァイプは顔を横に向けて絹のように滑らかな川を眺める。ディンプとは対照の位置を取る気立ての彼には、水流の奥に潜む形なき魚の正体を見透かすことはできない。彼の瞳には、日差しによって付与された川面の明暗が克明に反映されるのみである。彼にとって川は山から流れてくる一連の水でしかなく、空は頭上に糊塗された青色以外の何ものでもなかった。

 純然とした意識に形作られた風景のなかで、眼球に収まった確固とした景色のなかで、ヴァイプは在りし日の想い出を転がし遠ざかっていた音色や感触を想起させる。しかし、一度記憶から浮揚したそれらに当時の量感は宿っていない。薄靄に滲んだ遠景の山嶺のように曖昧模糊とした像として瞬きの裏に転じるだけであった。

 ヴァイプは、不確かになってしまったその情景を再び脳の表面に塗り付けるため、自転車の走行とともに奥部へと吸い込まれていく景色に向けて拳を伸ばす。山羊を丸呑みにした五匹の蛇が扇状に拡げられ、その間を過ぎ去っていく緑光の草々と透明な川、塗料のように人口物めいた青空を彼は五匹の蛇で握りしめる。

「何やってんの?」

 並走していたロードが小首を傾げながら訊ねたが、ヴァイプはそれを無視し景色を圧搾して外郭から溢れ出る記憶の抽出に努める。裂かれた緑の切れ目から、砕けた川の断面から、拉げた空の割れ目から滴り垂れた数滴の雫を五指に纏い渇いた唇を濡らす。潤いを得た口唇は水門のような堅牢さで口腔の湿り気を逃さず保ち、記憶の搾汁を体内に留める役割を果たした。

 舌の上で薄く伸びた昔日の風味をヴァイプは丹念に舐め取る。脳髄には昔懐かしい光景が燐寸から散った瞬きの火花のように拡がる。幼い二人の少年。一人は長髪、もう一人は短髪。銃弾のように手の平から撃ち出された川水が耳元を掠めていった感覚を思い起こしたところで、危なげなく形状を保持していた記憶は覚醒と同時に非現実へと変貌する夢のように瓦解する。そこに残されたのは、恋人との離別を拒むようにして未練たらしく伸ばされた片腕。握り締めていた虚空を手放し、腕を太股に下ろしたヴァイプは、無心になって瞳に景色を通過させていたが、しばらくして腿に乗せていた手の平が尋常ではない汗で湿っていることに気付く。背後から吹き抜けていく風が汗ばんだ手の平から体温を奪う。友人たちの話し声は軽く耳を通りすぎていく。ヴァイプは、自分がこれから探ろうとしている真実に、ただならぬ不安を抱いていることを知る。

 自分とディンプ。どちらが兄で、弟か。その回答を誰よりもディンプと身近に接してきたヴァイプの直感が口走ろうとしていた。ヴァイプは汗ばんだ手の平を力強くズボンに擦り付けて拭おうとしたが、汗はどこからともなく、そして止めどなく手の平に滲み続けていた。回転するタイヤが道端に散らばった小石を踏み上げて自転車が軽く弾み、荷台に腰掛けたヴァイプの身体は一時、重力から解放される。脳を廻っていた血液が遠退き、空の果てへと思考が霞む。死とはこの瞬間が際限なく続くことだと理解する。明白な線によって形作られている世界は、速度を上げて血液の循環から乖離することで傍に続く石垣の継ぎ目のように粗く霞ませることができるのだ。


 粗く削った岩石を積み上げた台座の上に横倒しにされたその物体は、夏空に乗せられた産まれたての雲のように白かった。ディンプは右手でその頸部と思しき個所を押さえる。それは氷のように冷たかった。

 続いて逆手に持った左手のナイフを使って添えられた右手との垂直線を描くようにして引く。白い雲が二つに裂けていく。雲間から覗く赤黒く複雑で生臭い夕空。しかし手応えはない。ディンプはいつまで経っても血に染まらないナイフを放り捨て、台座の横で山になっている動物たちの骸を眺め、想像による殺傷の限界を感じて嘆息する。ため息は僅かの間、彼の体温を宿して大気をさ迷ったが、やがて窓から吹き込んだ微風に巻き取られて温度をなくした。

 冷たくなった手元の図鑑を閉じ、それを鳥葬するように机上へと放り出したディンプは、影の濃くなった窓辺へと歩んで窓枠に腰を掛ける。耳たぶを覆い隠し肩へとしな垂れたブロンドの髪は、西方に傾斜を始めた太陽にこれから訪れる変貌を暗示するかのように淡い小麦色に色付き、垣根を越えてきたささやかな風に押され、縫い糸のほどけた織物のように分散した。

 あと数時間でこの空も暗黒色に染まるだろう。見上げれば目にも鮮やかな星粒が暗黒の中で無数に瞬いているだろうが、その輝きは数千万もの過去に消滅したことを報知する最期の信号かもしれないのだ。もしそうならば、もし数多の星々のすべてが遥か昔に死滅してしまっているとしたならば、夜空には息絶えた死物の塊を溶いた液体が塗りたくられているのだ。ディンプはそう思い、まだ死色に染まっていない空を仰いだ。

 空に沈みこんでいく雲。行く末を知らない鳥の群集。広大な群青のどこかから刻々と香り立つ無機質な臭い、気配、混じり合う。気付けば忍び足で背後に接近している感覚。想えば地平の果てにでも到達し得るその感覚。握り拳二つ分宙に浮くような心地で、深遠で広大な空に引きずり込まれていたディンプは、徐々に近づいて来た喚き声に裾を掴まれて引きずり落とされる。陸地へと墜落で強かに背を打った痛みよりも、夢心地に横槍を入れられたことに激しい憤りを感じた。射落としてきた喧しい声々の正体を探るために、窓枠から身を乗り出して玄関口の方を見やり、玄関脇に自転車を停めている四人の少年を発見する。彼らが昇天気分を台無しにした元凶なのだ。そう思うと殺意にも似た激烈な情念がディンプの瞳に揺らめいた。

 瞳の奥の揺らめきは小さな火花が大火へと変じるようにして増大していったが、少年たちのなかに己の片割れの姿を見付けたことが偶然の雨水のように働き、膨れゆく揺らぎは沈静していった。

 自転車を停めた少年たちは、憎悪を向けられていたとも知らずにがやがやと何事かを喚き合いながら家内へと踏み入って来た。窓辺から離れ、ベッドへと身を倒したディンプは、この家に家族以外の人物、それも大声で話を交わすような人物が蠢いているのだと思うと気が気でなかった。

 今までにもこの家に幾十人の来訪者があった。そのときは別段、気を害すようなことにならなかったのに、どうして現在はこうまで心中を乱されるのだろう。火事を静めたはずの雨が洪水へと転じたかのようにディンプの心中の平静は来訪してきた少年たちの気配によって荒れ回されていた。

「どちらが先に? あなたたちを産むので必死だったから覚えていないわ。我に返ったときには、クレアさんが泣き喚いているあなたたち二人を抱いていたのよ」

 リビングの戸棚を整理しながらそう告げたヴァイプの母の回答に釈然としなかったロードは、いつのも小生意気さを言葉の裏から隠見させながら食い下がる。

「おばさん、それはないんじゃないの。それに、役所にはどうやって届け出ているのさ? 出生届にはどちらが兄か弟か書いたはずだろ?」

 うーん、と手に持った東洋風の置物の配置を悩んでいるのか質問への返答を考えているのか判らない唸り声を上げ、

「届け出にはディンプが兄と記したけれど、それは便宜的なもので、本当はどちらが兄か、私は分からないわ」

 得られたのは宙吊りの回答のみであることに、ロードの表情は不満あり気に尖がる。このままではキツツキのように家屋中の木材を刺突しかねない雰囲気を察したダレンは、ロードの後頭部を軽く小突いて自分へと気を逸らさせた。

「なんだよ」

「一度、落ち着けよ。おばさんは、分からないって言っているんだから、これ以上力任せに追求したって意味ないって」

「じゃあどうするんだよ? このままなあなあにしちまったら、戸籍を盾にしてあいつらは自分たちの勝ちを言い張ってくるぞ。そしたら賭けは僕らの負けになる。あいつらのことだ、僕らにどんなひどい命令をするか分かったもんじゃない」

「それも、そうだな……」

「ねぇ、おばさん。何とか当時のことを思い出してみくれよ。なんだかヴァイプが先に産まれてきたような気がするだろ?」

 ロードの悲痛な声を背に受けた彼女は、「そんなこと言われても思い出せないわよ」と笑い混じりにあしらって戸棚の整理に精を出す。

 隣で繰り広げられている友人二人の会話を耳にしていたヴァイプは、出生についての明白な回答を得られたわけではないが、少なくとも戸籍上での自分は弟であるという結果に安堵していた。その安堵は、鋼鉄の棒のような背骨を折り、背後のソファーへと思わず倒れ込んでしまうほどであった。

「嬉しそうだな」と、ブラムが横に腰掛けて言った。

「予想が当たったからな」

「へっ、俺も飛び上がらんばかりの心境だよ。あいつらにどんなことをさせてやろうか、今から笑いが止まらない」

 低く笑うブラムの声を鋭敏に聞き取ったロードは、「勝敗はまだ決まったわけじゃないだろっ!」と、目前にちらつき始めた暗色を吹き払うような大声で叫び、

「なぁ、ダレン。どうするんだよ、このままじゃ僕らはあいつらの奴隷だよ」

 自分で豪語しておきながら泣き付いてくる頼りない仲間に、ダレンはため息を吐くこともせず見落としている『何か』を求めて懸命に頭の隅から隅までを這いまわる。その間にも「なぁなぁ、なぁ、ダレン、ダレン! どうすんだよ、ダレン!」ロードの希求の叫びが耳元を付きまわっていたが、気を乱すことなく脳溝の奥底にまで目を光らせたダレンは、ついに見落としていた何かを見つけ出すことに成功する。

「おばさん」

「なぁに?」

「ヴァイプとディンプを取り上げた産婆さんは、二人のどちらが先に産まれたかを覚えているかな?」

「十数年も前のことだから、どうかしら。それにクレアさんももうお歳だから……」双子の母親は後に続く言葉を濁す。その淀みのなかには、クレアの記憶の不明瞭さを物語っているだけでなく、脳構造の崩落が始まっていることを迂遠に表現していた。

 しかしその事実は、ダレンやロードにとっては寧ろありがたかった。不確かな記憶ほど歪めやすいものはないからである。仮に自分たちの敗退が真相であったとしても口車で老婆を唆し記憶の改ざんに成功すれば、敗訴を告げる一言を反転させることができる。

 そこまで瞬時に計算したダレンの口元に淡い微笑が浮かぶ。まだ自分たちにも勝算はある。それは相手も同じことであるが、もはや勝敗は真実がどうこうという話ではなく、老婆の記憶にいち早く介入することで決する。ソファーで自らの勝利を確信している彼らを見る分には、おそらくそのことにまだ気付いていない。徐々に頬へと拡がろうとする笑みを口角に力をこめることで堪え、平静に整える。この事実を相手に悟らせないようにしながら、自分たちはこれから老婆の元へと向かわなければならないのだ。

「おばさん。そのクレアさんって、今どこに住んでいるか分かる?」

「えぇっと、今はどこにお住まいだったかしら……。たしか今は、産婆のお仕事も引退して……あ、そうそう、今は川沿いに小屋を建てて独りで住んでいるはずよ」

「知ってるか?」とダレン。

「知らないよ」とロード。

「家の前を流れている小川を川上へたどっていけば一目で分かるはずだわ。あそこは、クレアさんの家以外の建物は一切ないはずだから。それにしても――」

 と、辺鄙な土地に居を構えている老婆の私生活への心配事を滔々と並べ出し、家族の人たちは様子を見に行ってあげているのかしら、誰も行っていないなら心配だわ、何なら私が週に一度お世話に行ってもいいくらいなのに、それほどクレアさんには感謝している、とこのまま放っておけば長話へと進展しそうな具合を見取ったダレンは、深々とソファーに腰をかけて悠然と勝ちを確信している二人の元へ、居ても立ってもいられなさそうにやきもきとしているロードを連れて集まった。

「どうする、これから産婆さんのとこへいく?」

 青色から目の痛くなるような薄紅色に模様変わりしている空を、窓ガラス越しに見やりながらダレンが言う。新鮮なミルクのように白かった雲も野イチゴの果汁を混ぜられたかのように淡く朱を帯びており、この甘酸っぱいイチゴミルクも、もうしばらくすれば腐敗の色へと変じていくのは目にも明らかだった。

「当然だろ! 今すぐ産婆のおばさんのところに行って、すべてハッキリさせてやらなきゃ僕の気が済まない!」

 少しでも早く劣勢を覆したいロードが息巻いてそう返すと、心境的には優位になっているブラムはその余裕を誇示するように緩慢な口調で言う。

「いくら焦っても結果は変わらないぞ。今日はもう解散にして、明日の昼頃にでもゆったり行こう。なぁ、ヴァイプ?」

 その結果とやらは簡単に変えられるのだと知っているダレンは内心でほくそ笑んだが、頭の片側では時間を与えてしまえば相手もこの事実に気付いてしまうだろうという懸念が曇っていた。

「ああ、そうだな」

 どこか上の空で返事をしたヴァイプの心境は複雑だった。先ほど戸籍上ではディンプが兄になっていると知って安心したものの、未だ払拭しきれない不安感が胸骨にまとわりついているような気がする。その正体について彼は内奥であろうと言葉にしたくなかった。言葉ならざるものを無理やり言葉に変換してしまうことは、自覚への道筋をたどるような気がしたからだ。

 しかし、いくら目を背けてもそれは内側から外へと露出しようと企んでいるようで、胸の内に疼きを寄越してくる。そのざわめきを静めるために人差し指で胸板を軽く叩いてみたりするが、反響が止めば再びそれは胸骨へとこびり付き、その先の外界を目指して疼痛を起こし彼の不安を掻き立てる。そして彼には、この疼きが胸から飛び出した暁には、その向かう先に二人を取り上げたクレアがいるという予感があり、それは空に掛かったどす黒い雨雲はやがて雷雨を巻き起こすだろうという気象学に無学でも予報し得るほど容易に想像できるものであった。

 つまりクレアに会いに行くということは、疼きを荒ぶらせる原因を自ら作り出してしまうことであったので、ヴァイプはどうしても乗り気になれず少しでも長引かせようとそう返答をしたのであった。

「ま、そういうこった。今日はもうお開きにしようぜ、腹も減ってきたしな」

 ブラムはそう言ってソファーから立ち上がり、南瓜のような頭をぐるりと回した。ロードとダレンは顔を寄せ合い、声を潜めて話し合う。

「どうするのさ、ダレン。ブラムはもう帰る気だぞ」

 居ても立ってもいられない様子のロードにダレンは返す。

「そんな焦んなくても大丈夫だよ。俺に良い策があるから、今日はもう解散して、明日に備えよう」

「ほ、本当かっ! 本当に――」と、大声を上げるロードの口を押さえ付け、ダレンは一段と声を落とす。

「絶対とは言い切れないけど、かなり高い確率で勝てる。でもそれには、ロード、お前の協力も必要だ」

 口を解放されたロードは色めき立った表情を隠そうともせず、「で、僕は何をすればいいんだ?」そう問い返す。ダレンはロードの興奮を静めるよう、敢えて言葉を丁寧に発音して言う。

「ロード、お前はいつものままでいい。いつものように、騒いでいればいい」

 ダレンの考えはこうだった。ロードが喧しく喚けば喚くほど、それは負け犬の遠吠えのようにヴァイプとブラムには聞こえ、自らの勝ちをより確信するようになるだろう。そうすれば二人は慢心するはずだ。その慢心は、この勝負に必勝法があるという真実から二人を遠ざけるだろう。その隙に乗じ、自分たちの都合の良い結果を産婆に騙れば、この勝負はこっちのものだ。

 ダレンはヴァイプと談笑しているブラムを鋭く睨み、あの巨体をどう虐めてやろうか頭のなかで想像する。丸裸には絶対にする。その後はどうしてやろう。全裸のまま村中を四つん這いで歩かせようか、それとも――。

「なんだよそれ、そんなのであいつらに勝てるのかよ!」

 ロードの声によってダレンはブラムを辱める想像から現実に戻る。そして説明を求める顔をするロードの肩をそっと叩き、「そう、その調子だ」と言って意味深に笑った。ロードはその対応に納得できなかったが、自分で勝ちに繋がる良案を思い付けそうもないので仕方なく従うことにして喚き始める。

「ああ、ちくしょう! 絶対にお前らには負けないからな! 勝つのは僕たちだ!」

「へっ、どんなに喚いたって結果は変わらねぇよ」

 ブラムの余裕綽々とした調子を見たダレンは、こっちの方は警戒しなくても平気だろうと安心したが、先ほどから口数の少ないヴァイプが対照的に不気味に思えた。

「そう言っていられるのも今のうちだけだぞ! いいか、明日は覚えておけよ。いくら吠え面をかいたって容赦しないぞ!」

「そうか、楽しみにしてるぞ」

 騒がしい言い合いを繰り広げるロードとブラムを傍目にヴァイプは窓先の空を眺めていた。青空に厚く塗り重ねられた夕焼けの端には、紺が薄く覆いかぶさりはじめ、少しずつではあるが空は夜に蝕まれていた。刻々と暗んでいく空模様は、ヴァイプに言葉にできない感情を与えていた。


 この辺りからタイピングの速度が落ちてきた。というのも、この物語の方向性と終着点が完全に見えてしまったからだろう。つまり、頭のなかで見取り図が完成してしまったのだ。要するに、小説が完成したのだ。取りも直さず、これ以後の僕は完成品を再び完成させなければならないのだ。なんだそれは、二度手間以外のなにものでもない、徒労の徒労じゃないか。

 心の端で浮かぶその想いから目をそらし、なんとか書き進めようとして遮二無二キーボードを叩いたが、一時間かけて100文字しか書けないという遅筆の僕でも驚いてしまうほど進行具合は最悪だった。

 そんな日が何日も続いた。状況は改善するどころか悪くなる一方であり、一時間かけても一文字も書けない日々が幾日も幾日も。僕は自暴自棄になり始める。才能もなにもない自分がなんで小説を書いているのだ。どうせ誰も読みもしないのに。どうせ誰の感想もないというのに。夜は必ず明るくなるというのに僕の気分は暗いままであることに苛立ち、僕は存在しない夜というものに憤る。深夜の外を無我夢中で走り、掴めもしない夜を掴もうと、蹴れもしない夜を踏みつけようと、駈け、駈け、通りかかった警官に職務質問されそうになって逃げ、追われ追われ、掴もうとしているはずなのになぜ逃げているのだろう思い、立ち止り、振り返り、走って来る黒い影と対峙する。

「なんで逃げた」

「逃げてない。僕は追いかけていたんだ」

「は? なにを? それよりきみ、いくつ? 大学生?」

「うるさい。どうせお前は、呆けていれば明るくなれるというのに能天気に話しかけてくるな。こっちは必死なんだ。必死に活路を見出そうとしてるんだ」

「きみ大丈夫? お酒飲んでるの? ちょっと交番まで行こうか」

「触るなよ。そういうのが、嫌なんだよ。僕がどんなに触れよとしても触れられないのに、お前は簡単に僕に触れられる、それが、本当に、嫌なんだよ」

 僕は夜の手を振り払い、逆に捕まえようと手を伸ばす。しかし夜は俊敏に後退して僕の手を回避する。悔しさのあまりうめき声をもらし、夜に向けて殴りかかる。夜はすばやく腰から拳銃を取り出し、あっという間に僕の胸を撃つ。僕は仰向けに倒れ、喘ぐように息を吸う。冷たい夜の大気が僕の体温を奪いながら胸の穴からすべて漏れ出ていく。僕は簡単に死ぬ。死ぬ。死ぬ。

「ヴァイプとディンプ、どちらが兄で弟か?」

 夜が僕に問いかけた。

「知るか、自分で考えろ」

 僕は夜に言い返した。

 やがて夜は明けて朝になったが、僕はいつまでも暗いままだった。




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