(3)vuddy
ヴァイプがライフラインを独走しているその頃、ディンプは村の中央広場の一角に居を構えた図書館にいた。
しかし、図書館と銘打ってあるものの館内は馬小屋程度の広さしか有しておらず、本棚は身を横にしなければ通り抜けられないほどの間隔で設置されており、その内装は鬱蒼とした森の一部分を切り取って室内に植え替えたかのような心象を寄越すものであった。
その書棚の森林と化した奥地に、ディンプはまるで果実を収穫するかのような手付きで小説を手にしていた。矩形の天窓から射し入った僅かな光だけを頼りにして、彼の視線は手の平に乗せられた書物の上に記された文字列の生命体を観察するかのように機敏に追っている。
その様子を出入り口脇の卓に着いた司書のオスカーが熱い眼差しで見つめていた。入り口から射し込んだ淡黄の陽光が室内に舞った埃を季節外れの粉雪のように煌めかせ、頬杖をしたオスカーが「ほぅ」と熱の帯びた息を吐き出すと、その風流に乗った埃は本物の雪のように宙を舞った。
オスカーが自分のなかにホモセクシャル、それも少年愛の感情があることを知ったのは、初めてディンプを目にしたまさしくその瞬間であった。
海を越えた先にある城下の一級図書館の司書官として働いていた彼が、この辺鄙な土地へと派遣されたのはちょうど二年前のことである。そのときの彼には男色の気など片鱗もなく、女性を愛する通常の性情を持ち得ていたのであるが、大船に揺られて遥々やって来た彼が前任の司書官から申し送り事項を言い渡されている際にひょっこりと図書館を訪れたディンプの繊細な容貌を瞳に収めたその刹那、麗しい長髪の少年を映したその両眼から波及するようにして彼の全身に革新の落雷が奔ったのであった。
二十八年もの間、脳髄にこびり付いていた偽りの性感を焼き払った電撃は総身の体毛を逆立たせ、股下にぶら下がった睾丸を凝集させ、双玉の圧迫に挟まれた男性器を峨々と怒張させた。オスカーの思考は搾りたてのミルクのように濃厚に白濁し、前任者の口から滔々と流れ出る言葉がまったく耳に入らなくなった。茫然とその場に棒立ちとなり、茫漠とした意識のただなかで彼は、白色の下着に真っ白な精液を発射したのであった。
予期せぬ暴発によって意識が明瞭になったオスカーは、唖然としている前任者に愕然とした顔を向け、「これは何かの間違いだ」とぬっとり湿った下腹部を素早く押さえ、芳ばしい精気の香り立つ室内から逃亡を図ったのであった。
突如の絶頂と逃走にしばし目を丸くしていた前任者は、経緯も理由も分からなかったが慌てて彼の後を追って図書館から飛び出して行った。
それから日が暮れるまで前任者は村中を捜し回り、村の涯の草原の岩陰で独り膝を抱えていたオスカーの姿をようやく発見し、渾身の説得の末に自失していたオスカーに生気を与え戻すことに成功した。
村の井戸からこっそりと拝借してきた水桶でオスカーに下着とズボンを水洗させながらやっと申し送りを終えた前任者は、そっとオスカーの肩に手をやってこう言った。
「性癖は人それぞれだ。気にすることはない。ただし決して手を出してはいけないよ。もし一線を超えるようなことがあったならば、それは君の人生のさらなる転落を意味しているのだよ」
殊勝に頷いて胸に固く誓ったオスカーであったが、それからの二年間は地獄のような日々であった。幸い前任者が村民に失態を流布するようなことをしなかったため事態は暗々裏に済んだものの、毎日のようにディンプが図書館を訪れる度にオスカーは絶頂を迎え、ディンプが本棚の陰にいるときに目を忍んで下着を穿き替えた。さらに、村でいつ何時ディンプと出くわすか分からなかったので、緊急時に備えて替えの下着を鞄に三枚ほど詰めて持ち歩くことが習慣になっていた。
そして不思議なことに、彼の愛の対象はディンプのみに向けられた。村にはディンプと同年代の子どもが大よそ10名はいたが、そのどの少年にも彼の性器は反応を示さなかった。そのため、オスカーの性癖は少年という括りを対象としたものではなく、一つの人格に向けられた愛情という方が正しく、それはほんの僅かであるが彼を安堵させる薬剤となった。
ディンプにヴァイプという双子がいるのを知ったのは、オスカーが村に駐在してから五日ほど経ったときのことであった。
眉目秀麗の真心ともいえるディンプに兄弟がいるとは、とヴァイプの存在を知った彼は、これからは二人の少年によって精力が搾り取られる可能性に冷たい戦慄と熱い興奮を覚えた。
そのように恐怖と期待を半分ずつ寄越したヴァイプの存在であったが、その見目がディンプとは似ても似つかないものであったからか、彼の情動はやはりディンプのみに注がれ、ヴァイプに対しては自分よりもディンプと親しい立場にいることが切欠となり、知らず知らずの間に激しい嫉妬と嫌悪を覚えるようになっていた。
本棚の端から軽く覗いたディンプの姿を、オスカーは息を止めて凝視する。うなじまで伸びた金髪をゴムで結わえ、高所の書籍へと手を伸ばす度に仔馬の尾のように跳ねる髪束を見ては、「ほぅ」とオスカーはやる瀬ないため息を吹いた。
ああ美しい。ああ触りたい。ああ咥えたい。ああ咥えさせたい。
危うい妄想を悶々と広げては荒っぽく畳み、折を見てまた広げてみては恍惚としてため息を吐く動作を彼は繰り返す。本棚と本棚の谷間からディンプの姿が隠見する度に一喜一憂し、その感情の起伏が至福であるかのように満悦な顔をしていたオスカーのもとに書籍を抱えたディンプがやって来た。
「オスカーさん。今日はこれを借りるよ」
そう言ってディンプは喜悦の表情を浮かべたオスカーに大小三冊の書籍を見せた。
「ああ、了解だ。じゃあいつも通り、これに日付と書籍名、氏名をよろしく」
オスカーは机の抽斗から貸出用紙を取り出してディンプの前に差し出す。抱えた書籍を一旦机の端に置いたディンプは、瑪瑙のペン立てからインクをよく吸った万年筆を取った。用紙の項目を埋めていく丸みを帯びた文字ですら愛おしく思い、それを記していく白い手に己の手を重ねたくなる情動を懸命に耐えているオスカーは、暴発間近の気を紛らわせるためにディンプが借りていく書籍に視線を投げた。
フランス画家の画集とドイツ人作家の詩集の二冊は、もう何十回になるというのに飽くことなくディンプが借りていくものだった。しかし最後の一冊は、彼が借りていくにしては珍しいもので、オスカーは他意なくその疑問を訊ねる。
「珍しいね。君が芸術に関するもの以外の本を借りていくなんて」
すべての要項を記し終えたディンプは、微かに眉間に皺を寄せて万年筆をペン立てに戻した。
「うん。今度描こうと思っている絵の題材にこれが必要なんだ」
ディンプは机上に置いていた画集と詩集、そして分厚い動物図鑑を胸に抱え直す。オスカーは先ほどまでディンプの手元にあった用紙にせめてもと己の手を添えて言う。
「へぇ、それまた珍しい。君が動物の絵を描くなんて」
「そろそろ僕も、新しい一歩を踏み出してみようと思ってね」
オスカーは、ディンプが浮かべた愛嬌のある笑みをうっとりと見つめ返す。間にある忌々しい机を蹴り飛ばして今すぐにでも彼を熱く抱擁したい。そして埋没するように唇を重ね合わせたい。無垢な洞穴に舌先を差し入れ、お互いの粘膜と唾液を混合させた溶液を作り出したい。そのような欲望をおくびも体現することなく、「完成したら見せておくれよ」とオスカーは良き司書という役を演じることを一貫して心がける。
「分かった。でも今回は時間がかかりそうだから、完成がいつになるかは分からないよ」
「ああ、大丈夫だ。いつまでも僕は待っている、いつまでも」
言葉以上の想いをこめてオスカーはそう口にした。
「うん、それじゃ、また明日」
別れを告げて図書館から辞去するディンプの頭髪を広場から吹き込んだ風が静かになびかせた。まるで陽光の残像のようなその様をオスカーは目蓋の裏側に判を押すようにして記憶した。
ディンプは借りてきたばかりの書籍を小脇に抱え、地中から顔を出した土竜のように切れ長の目をさらに鋭く細める。昼を過ぎた中央広場には夕刻前の散漫な空気が砂埃とともに満ちている。
広場の外周に並んだ精肉店、パン屋といった食料店の売り子たちは、広場に出て談笑をしている。芽吹き屋根の集会場の前でリアカーを停め、その荷台に腰かけて煙草をふかす老人、奇妙な形をした石ころを路上に並べて何やら占いのようなことをしている老婆、井戸の横で歓談に勤しむ婦人たち、広場の中央に毅然と聳えた時計台の周囲を、飽きもせずぐるぐると回っている子どもたち。
皆、どこか気の抜けた調子であったが、広場を歩いて行くディンプの姿を目に止めた途端、城下へと出稼ぎに行っていた自慢の息子が帰省したかのような和やかな空気へと入れ替わった。
ディンプのことを目聡く見付けた子どもたちが、砂利を弾き飛ばしながら勢いよく駈けてきて、ディンプが羽織っている綿の上着の裾を引っ張り、何か面白い話を聞かせてくれとしつこくせがむ。ディンプは一人の子の頭にふわりと片手を乗せ、「今日は用事があるんだ」と寛大な牧師を思わせる包容さで子どもたちに言い聞かせる。すがりついていた子どもたちは、渋々彼から離れ、せめてもの憂さ晴らしだと言わんばかりに、悪辣な文句を残して時計台の方へと戻っていった。
「はんっ、ディンプ! あんな生意気なガキども殴りつけてやればいいんだよッ!」
リアカーの上で煙草を吸っていた老人が砕けた口調をディンプへと飛ばした。
「スミスさん、いくらなんでもそんな荒っぽいことは出来ないよ。彼らは未来の村を支えてくれる子どもたちなんだから」
「ディンプも偉くなったもんだ! 俺だったらあんな生意気なガキども、出会い頭に拳骨をかましているところだ!」
ディンプは空笑いをし、軽く頭を下げて歩きだす。その他にも彼に声を掛けるものは後を絶たず、その一つひとつに生真面目に返答しながら、ディンプは自宅へと抜けていく砂利道を進んでいった。
吹きつける風から耕作物を守るために村の要所には胸の高さほどの風除けの石垣が居並んでいる。ディンプがたどっている道もその例に洩れず、ごつごつとした岩を積み上げた石垣が道の左右を挟んでいた。
書籍を抱え直したディンプが視線を上げると、道の向かいから白髪交じりの女性がやって来ていた。彼は少しばかり道の右側に寄って歩いて行く。すると女性は柔軟に微笑み、ディンプの前で歩みを止めた。
「ディンプ、今日も図書館かい? 毎日偉いねぇ」
ディンプも足を止め、「こんにちは、ケリーおばさん」と挨拶をしてから言葉を繋げる。
「本を借りるだけで偉くなるわけじゃないですよ。その本からどんなことを抽出できるかの方がずっと大切です」
「そうなのかい。わたしは文字が読めないからよくわからないよ」
「そんなに気負わないで、絵本でも何でもいいんですよ。どんなものにでも何かしら得るものがあるんです。大事なのは、些細なことからでも知識を得ようとする心構え、それと、切欠を掴むことです」
切り分けたオレンジを口に含んだかのような小難しい顔をするケリーに、ディンプは優しい笑みを浮かべて続ける。
「そうですね……たとえば今この瞬間がケリーおばさんにとっての切欠です。僕を通じて本に興味を持ち、これからおばさんは図書館へと向かう。そこで何でもいい、絵本を一冊借りるんです。後はその借りた本を読んで、そこからどんな些細なことでもいいから知識を抜き出すんです。そうすることが、そうやって何かを学ぼうとする心構えこそが、何よりも大事なんです」
「でもねぇ……」と、渋るケリーにディンプはさらに言葉を重ねる。
「分かりました。では、ケリーおばさん。僕がさっき借りてきたこの本をおばさんに貸します」
ディンプは脇に抱えていたもののなかから画集を引き抜き、ケリーに手渡す。
「わたしでも理解できるかい?」
「文字は読まなくても平気です。ただそこに印刷されている絵から何かを学び取ってみて下さい」
「うう、ん。そう言われても、難しいねぇ」
「何でもいいんですよ。何でこの人は偉そうに椅子に座って踏ん反り返っているのか、この夫人たちはどんな目的で集まっているのか、この子猫はどうして怯えた表情をしているのか……。その絵が描かれた理由や場景を想像して、推測を立ててみるだけでもいいんです」
「それだけでいいのかい?」
「それだけでいいんです。何かを学ぼうとする気持ちが大事なんです」
「それじゃあ、読んでみようかしら」
ケリーは、プレゼントを受け取った生娘のようにきゅっと画集を胸に抱き、艶のない頬元に皺を寄せて微笑んだ。
「ありがとうね、ディンプ」
「どういたしまして」と、年長者への礼儀を忘れず慇懃に礼をして立ち去ろうとしたディンプは、ふと脚を止めた。
「そうだ。ケリーおばさん、一つだけお願いしてもいいですか」
「なんだい?」
「大したことじゃないんです。その画集を読み終わったら、僕に返すのではなくて直接、図書館に返却してもらってもいいですか。オスカーには明日僕から話を通しておくので」
「ええ。分かったわ」
「よろしくお願いします」
そう言い残してディンプは彼女と別れ、再び帰路をたどり直した。
村の中心部である広場から離れると、人気はさらに減っていく。視界に映るのは広大な牧草地の青さと空の蒼。山岳の峰々に腹を射抜かれた空は蒼い体液を流し、猛々しいその山頂を青く染めていた。
遠景から近景へと、ディンプの視点は渡り鳥のように移動する。両側の石垣の先には名もない雑多な草々が茂り、そこに雑じったフクシャ色の曙風露が申し訳なさそうにぽつぽつと顔をのぞかせていた。乱雑に茂った草葉の一帯に葡萄酒を数滴に零したかのように咲いている赤紫の花は、ディンプの全身に通っている感覚の蔓を震わせるに十二分の美麗さを持ち得ていた。
ディンプは脚を止めず、ただし視線はその個所に固定したまま肉体の殻を剥いた。解放された感覚の蔓は、地を這う蛇のように宙を縫い進み、曙風露が咲いているその風景に絡みつく。風景はその場の空気諸とも蔓に自由を奪われ、締め上げてくる蔓に抵抗する余地もなく生命に終止符を打った。絡みついた蔓はその露命を取りこぼすことなく啜り、やがてディンプのもとへ戻っていく。ディンプは剥いた肉体を再び着込むことで帰還した蔓を覆い隠し、蔓が持ち帰ってきた風景の露を脳髄で深く味わった。
道の先から白壁の住宅が見えて来る。煙突から濛々と上っている灰煙は、青い空を曇らせることもなく融けていく。ディンプは携えた書籍の背表紙を軽くノックするようにして叩いた。コン、と鳴った小気味良い音に触発され、ディンプは唇を蕾のように窄めて口笛を吹き出した。
家内中を行き交っている生活音の合間を掻い潜るようにして響いて来たその音色に、キッチンにある煉瓦組みの竈でパンを焼いていたベロニカは、思わず生地を捏ねる手を止めた。
なんだろう、この音色は? 不思議がりながらもその早朝に響く小鳥の囀りのような音に耳を澄ませ、やがてそれが窓の先から届いてくることに気が付いた。
彼女は作業台から窓辺へと歩み、表の道へと顔をのぞかせる。そして、花房に接吻をするように唇を歪めて歩いて行くディンプを見付け、嬉しさの余り呼びかけようとした口を慌てて塞いだ。
彼が口笛を吹くときは決まって気分が上乗りのときである。そのため、今のディンプの機嫌は良いようだ。しかし、彼は果てしなく上昇していく鳥のようなその状態を打ち落とされることを何よりも厭っている。穏やかで心優しい彼はそのことを顔には出さないものの、心の奥底では不作法な狩猟者に辟易しているのだ。
半ば妄想ではあるが、ベロニカの洞察から導き出されたその予測は正鵠を射ていた。ディンプは物事に没頭しているときに茶々を入れられることを、この世の何よりも嫌い、そして憎んでいた。
先ほど広場を歩き去る際も、早く帰宅して読書に耽りたいというのに声をかけてくる村民たちにも彼は軽い嫌悪を抱いたほどであった。彼の邪魔を許されているものは片割れであるヴァイプのみであるが、ヴァイプは十分に弁えているのでディンプの集中をかき乱すような振る舞いをしたことがなかった。
ベロニカも同様にディンプの高揚に水を差すような無神経なことはしなかった。口笛の音色に耳を澄ませるに留め、次第に遠くなっていく彼の後ろ姿を静かに眺めた。
200℃を超過した竈からパチパチと炎の爆ぜる音がしているが、その程度の熱気と音は彼女の意識に至らない。ディンプの姿が家垣の陰へと隠れてしまうと、彼女は窓ガラスに移った自分の顔に焦点を合わせ、鼻梁に淡く染み付いたそばかすを憎々しげに擦る。これでこの憎ったらしい斑が落ちてしまえばどれだけ良いことか。窯のなかのパンのように胸を焦がしているベロニカは、二つ下の彼との歳の差を改めて思い出し、人知れず意気消沈とするのであった。
オスカーとベロニカ、異性ならともかく同性からも恋い焦がれているとはまさか思わないディンプは、あの麗しい花が咲いていた景色を脳髄で貪って克明に記憶させていた。
彼の脳のなかにはこのような景色が星の数ほどあった。そしてそのどれもが絵や詩として体外に出力されることを熱望していた。しかし、妥協の挟む間隙がないほどに生み出す一作一作を凝縮させたいという彼の信念が、星の発する光を妨げる遮蔽物となり、いつまでも地上へと煌めき届けられない原因となっていた。
毎夜の如く夜空に散りばめられていく星々に早く応じてやりたいと焦慮に駆られているディンプは、己の肉体が一つしかないことを枕に頭を沈めながら呪った。先ほど観た曙風露が咲いた風景も、いつ詩や絵として変換できるのか分からないのであるが、それでもディンプは美しいものを観たときの感動を忘れることができず、むしろ渇望するようにして、日夜、感銘を与えるものがないか目を光らせるのであった。
脳溝に景色を落とし込んだディンプは、高揚していた気分を冷ますため口笛を止めて歩調を緩やかにする。弾けるようにして胸を打つ鼓動は血液を伝播して、喉の奥で軽やかに律動している。
ディンプが進んでいた砂利道はやがて四つ辻へと差し掛かる。辻の右方から流れてくる小川は正面へ向かう道に架かっている石橋の下を通過して左方の道へと流れていく。なだらかなアーチを描いた短い石橋を抜けた小川の水面には隙間なく太陽が降り注ぎ、水際で砕けた小波を光の粒子にして川辺の水草に散らせ、細かな虹を描き出していた。
石橋の先にある家屋の前庭で草刈りをしていた男性が四つ辻にいるディンプに気付いて快活に手を振る。ディンプは手を振り返してから角を左に曲がり、川下へと向かう進路を取る。
右側にある石垣を越えた先の小川からは、玉虫の笑声のようなせせらぎが聞こえる。ディンプはその笑い声に耳を傾けて、幼少期にヴァイプとともにこの小川で水遊びをしたときの記憶を光る水面に観る。心臓が停まってしまうほど冷たい水、その心地良さ、濡れた衣服、自然と弾ける笑み。記憶という名を冠して頭に封じ込めているが、ディンプはそれを当時のまま取り出すことができた。
それは、クローゼットの奥深くに眠っている洋服に袖を通す感覚と似ていた。いつ頃着ていたかも覚えていないというのに、身に纏えば染みついた体臭や汚れによって晴れ渡っていく空の如く当時の記憶が甦る。その感覚と似ているのだが、ディンプのものは少し違う。彼の記憶の衣はクローゼットの奥に収納されておらず、部屋の内装として壁に吊されている。彼にとって記憶は奥深くに隠れたものではない。常に身近に存在し、慣れ親しんでいるが故に目に止まらない装飾のようなもので、彼の記憶とは景色とともに現前する『光景』であった。そして彼は、その壁を覆い尽くす古着のなかから取り分け美麗な服を作品として生み出すことを切に願っているのである。
ディンプが清冽な流れに身を浸した二人の子どもから目を逸らすと同時に、子どもたちの姿はあっという間に川中に溶けていった。
道の先には、過剰に生長したブナの木が頑丈に組まれた石垣を乗り越え、空からの光を遮って地面に影を落としている。その木陰を通過するディンプの頭には銀の斑が浮かび上がり、日向に移ると画布は刷毛によって再び金一色に塗り直された。左手に牧草を垣で囲った家屋が現れる。垣のなかには青々と茂った牧草と、それを食む飼牛が五頭。周囲を囲む垣は牛たちが暮らすには広すぎるほどの空間を取っているので彼らから窮屈な印象はうかがえない。
似たような構造をした家は50ヤード先にも見られる。この村の住宅といえば大体に通ったものであり、その違いといえば精々家畜の種類か、家畜の代わりに農耕地があるかくらいである。
自宅に到着するにはまだ距離があり、彼は持て余した時間を有益に利用する、というよりは待ち切れずに、といった感じで借りてきた本を歩きながら読み出した。彼が読むのは煉瓦より厚みを持った生物図鑑。艶めいた紙に印刷された数々の動物たちの毛並みや触感、そして匂い、鳴き声を彼は類い稀な想像力で現実のものとして体感する。インクの粘り気によって紙面に張り付けられていた動物たちは息を吹き返したかのように紙の上を走り、吼え、羽ばたき、ディンプから付与された想像の生命を使って解説文の柵を飛び越え、見開きを端から端まで駆け巡る。そして満足いくまで動き回った動物たちは、最後は決まってディンプの深い脳まで列を形成して従順に飛び込んでいくのであった。
前章に比べ、こちらは会話のやり取りが少なく書きやすかった記憶がある。その代わりとして内面の描写や心象を掘り下げて書かれているが、どちらかというと僕が得意とする方面なのでやはり書いていて行き詰るようなことはなく、むしろ楽しみながら書いていた。
どうやら僕が書く小説はこのような傾向をたどることが多いらしい。このようなとは、自己に向き合いながら物語を進行させるということだ。というのも、僕は小説を書く意味を絶えず模索しているからで、たとえば小説で迫力のあるアクションシーンを描写したとしても、それは映像で観たものに情感に直接訴えかけるという意味合いで残念だが劣ると思う。自己から他者へイメージを伝達する過程で文字という記号を選択したからには、それに適した題材を書くことは必須なのだ。そのことを常に意識した結果、僕の書くものは文字と同じようにあるかどうかも分からない感情というものや、それを通して見る光景、または映像なのだ。
また、僕の話になってしまったようだ。申し訳ない。
さっそく次の章を読んでもらおう。