表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

(2)vuddy


 昼下がりの陽気に弛緩した村。牧草を揺らす微風には干し草の甘い香りが宿り、時の流れを忘れてしまうほど緩んだ大気のなかを一台の荷馬車が進んでいた。

 馬車の行く道は石畳などで舗装されてはいないが、何百という年月の間に気の遠くなるほどの回数を行き交ったことによって轍の道が形成されている。そのため、整備されていないその道には地肌が剥き出しになった一条の線が引かれており、鳥になり風景を上空から俯瞰すれば、連綿と続く緑の牧草地帯を一本の白線が縦断しているように見えるだろう。

 牧草を貫くその道には生命(ライフ)(ライン)という名称がつけられており、その名の通り約10マイル先にある港町と村を繋ぐただ一つの運送道であった。

 ライフラインを進んでいる馬車は、村から港の方角へと向かっていた。荷台には小さな木箱が振動に合わせて唸り声を上げるのみで他に積荷はない。どうやら港から村へと荷物を運んできたその帰途であるらしい。御者台に腰かけている初老の男性は、一仕事終えた倦怠で手綱にやっている手もどこか等閑であり、白髭に囲まれた口に咥えられている煙草の火だけが活気を保っていた。

 2マイルほど進んだところでいよいよ集中が途切れてきた彼は、道に面した古びた雑貨屋の前で手綱を引いた。馬は鬣を揺らしながら忠実に速度を緩めていき、店の入り口をやや通過したところで停止する。台から降りた御者は馬の背を軽く撫でて店のなかへと消えていった。

 辺境に建てられたこの雑貨屋は、数年前に愛妻を失ったことで気の触れた男性が一人で切り盛りしている。当然村人は、気の狂った彼と真面な取引ができると思っておらず、彼の専らの商売相手は港と村を行き来する運送を生業とするものたちである。店の利用者は誠実な商売をする店主に必ずと言っていいほど好感を持つようになるが、あそこで売られているものを購入すると気が変になると信じている村人は決して寄り付こうとしなかった。

 だからだろうか、村から適度に離れて人目のないその場所は、四人の少年たちの溜まり場となっていた。彼らの身なりは共通して小奇麗で好感を抱きもする風貌であったが、自分たちは他の子とは違うという思い上がりによって面相には斜に構えた小生意気さがあった。

 一人はブラムという名の筋骨隆々とした体躯を持った少年。灰色熊のような風体をした彼は、傍から見れば少年たちをまとめている主将に思えるだろうがそうではない。むしろ彼らのまとめ役であるのが、その隣にいるダレンである。ダレンは傍観に徹することを常にしている。そのため、血気盛んなブラムと、慇懃な口調ながら高飛車な物言いをするロードとの間に度々起こる諍いの仲介に入ることが多く、次第にそれが彼の仕事のようになっていった。

 彼らのなかで問題児の一人であるロードといえば、先ほどから学校の教師が気に食わないという愚痴をダレンに話している。聞かされているダレンは欠伸を噛み殺しながら意識半分にロードの話を聞いていた。

 最後の一人はヴァイプである。彼は店裏の壁に背を預け、今日はどのような悪さをしてやろうかとブラムと画策している最中であった。ロードの愚痴に飽きたダレンが彼らの話しに混ざると、のべつ幕なしに雑言を連ねていたロードは不満げにしながらもその輪に加わった。

 雑貨屋から誰が一番多く万引きをできるかを競う。家の外壁を叩くと激怒して金槌片手に追っかけてくるウィリアム爺さんからどれだけ逃げずにいられるか度胸試しをする。表に停まっている馬車の馬を逃がす。北の森にあるあばら屋を放火して焼き払ってしまう。

 思い付いた悪行を口々に提案するが、どれも全員の賛同を得られない冴えないものばかりでなかなか意見が一致しない。次第に口論のようになり始めたことに辟易したヴァイプは、壁に預けていた体重を増やし、昨日の賭けの賞品として手に入れたチェリーコークを喉に通して一息つく。そして、言い争いをする友人たちを傍目にして眼前に広がる黄金緑の牧草地を眺めた。

 北西の海から運ばれた潮の香りが牧草の葉頭をそよがせ、小動物の身震いのように鳴動させる。草原は奥に向かうにつれて傾斜していき、波打つ丘の起伏には瘡蓋のような岩肌が目立った。遠方の山麓はまるで龍の咢のような歪な形状をしており、その挑戦的な外観は蒼穹でさんざめく白球を噛み殺す好機を虎視眈々と狙っているふうでもあった。

 口だけでは収拾がつかないと、血の気の多いブラムがロードと小突き合いを始め、仲介に入ったダレンへと矛先を変えてその襟首を掴んで拳を振りかざした。その光景を嘲笑とともに見つめていたヴァイプの鼓膜に、どこからともなく小さな鳴き声がとどいた。

 ヴァイプは缶から唇を外して周囲を見回す。雑貨屋の周辺は牧草しかない。100ヤードほど先に放し飼いにされている羊が二頭いるが、彼らの声ではないだろう。板張りの店内から洩れ出てくる会話も違う。ヴァイプは缶を放り捨て壁から背を離して声の出所を探った。

「どうしたんだい、ヴァイプ」

 店から離れ、牧草を足蹴にしてうろついているヴァイプに気付いたロードが呼びかけた。ブラムは掴んでいたダレンの胸倉を手放し、解放されたダレンは咳き込んだ後に苛立たしげに唾を吐いて、ブラムを睨みつけた。

「何か、聞こえないか?」

 ヴァイプは耳に手を当てて聴覚を澄ませるように促す。

「ん……? たしかに、動物の鳴き声みたいなものが聞こえるね」

「だろ?」と、言ったヴァイプは足元の草陰にその正体を発見した。

 屈んでつぶさに観察しているヴァイプのもとに友人たちが駆け寄ってくる。

「子猫じゃないか」

 赤い舌を突き出して鳴いている愛くるしい仕草を愛おしげに見下ろしてロードが言った。

「二匹いるぜ。どうしてこんなトコにいるんだろな」

 猫に指を甘噛みさせながらそう口にしたダレンは、昨日、捕縛したウサギを唐突に殺傷したヴァイプの凶行を思い出して彼の顔色をうかがったが、鳴き声の主が子猫だと知れたヴァイプは最早興味を失しているようだった。

「双子だな、毛色がそっくりだ」

 ロードは片方の子猫を抱え上げて腕のなかに収める。嫌がってロードの腕から逃げ出そうとする子猫を見ながらブラムが皮肉のような口調で言う。

「はっ、まるでヴァイプとディンプみてぇじゃないか」

「じゃあ、この逃げようと暴れてるやつはヴァイプだな」

 関心を消していたヴァイプは、そのとき底知れぬ違和感を覚えた。

 この二匹の子猫が俺とディンプ?

 額の奥に熱を感じて黙りこくったヴァイプを不思議がって見つめていたダレンの脳裏にある疑問が浮いた。

「そういえば今まで全然気にしてなかったんだけど、ヴァイプとディンプってどっちらが兄貴なんだ?」

 ダレンの一言には、今まで気に止めていなかった部屋の片隅にある小箱に初めて手を掛けたかのような音律を孕んでいた。友人たちはその小箱に畏怖と好奇心の視線を寄せる。

 ダレンに訊ねられ、ヴァイプは生まれ初めて自分とディンプを比肩した。

 今まで両親から、どちらが兄であり弟であるか明言されることはなかった。そのため、取り立てて気に止めることがなかったのであるが、それにもまして自分とは真逆の性質を有するディンプを兄弟としてではなく信仰の対象として捉えていたヴァイプにとって、出生の順序など気にする必要すらない事項であった。

 その意識外に置いていた命題にヴァイプは初めて決断を下した。

「おそらく、ディンプが俺の兄貴だ」

 言葉は曖昧にしたが彼は確信していた。どちらかを上位に配置するというのなら、自分は紛れもなく下位の弟であると。

「そうなのか? なんかヴァイプの方が兄貴っぽいけどな」

 ダレンの言葉に、「だよな」と逃げ出そうともがいている子猫を地面に下ろしながらロードが賛同した。

「ひょろひょろのディンプより、ヴァイプの方が年上に見えるよ」

 ヴァイプは再び眉間に火柱が立ったかのような熱を感じる。その由来は相変わらず掴めないが、周囲の考えと己が固持しているものは真逆であるらしいことをロードのセリフから理解した。

 理解は同時に怒りを生んだ。己が信奉しているものを下位に置いたロードの物言いが冒瀆以上の何ものでもないと思ったヴァイプは、鉄板にすら跡を残すことのできる頑強な拳をギリギリと固める。そして、怒り心頭に発していることにも気付かずに剽軽な顔をしているロードの鼻面へと叩き込み、その顔面を陥没させてやろうと肘を引いたときだった。

「いや、ディンプはすげぇやつだよ」

 ブラムの口からディンプの名が出たことで、射出寸前の弓のように張り詰めていたヴァイプの動作が停まった。

「どこがさ、ちょっと詩や絵が描けるだけだろう。あのくらいの才能を持っているやつなんて城下にいけば、それこそ、この牧草の葉群くらいいるさ」

 自分の命を救ってくれたとも知らずにロードは、足元に続く牧草を指さしてブラムへと食って掛かる。

「おい、ロード。お前はディンプの描いたもんを観たことがあるのか?」

 普段の血気盛んな様子を感じさせない大人びた口調でブラムが訊ねると、息巻いていたロードはぐっと息を呑んで首を左右に振った。

「まぁ、そうだろうな。俺だってたまたま観たようなものだし」

 二人がいつ殴り合いになるか心配げに見つめていたダレンは、すぐ横にいるヴァイプの双眸が獲物を狙っている野獣そのものであることに気付かなかった。しかし、たとえヴァイプの正面に立って顔をのぞき込んだとしても、その憤気を感じ取ることはできなかっただろう。それほどまでにヴァイプの怒りは気配を潜めて進行しており、そこにいるもののなかでは、足元にいる子猫たちだけが唯一察知し得ており、鳴くのも止めて小さな体を擦り合わせるようにして竦んでいた。

 ヴァイプの気に食わない言葉を少しでも口にしただけで鮮血が飛ぶ一触即発の状態であるとは露とも知らないロードに向けてブラムが言う。

「半年くらい前に、ディンプの描いた絵が中央広場に掲示されたのを覚えてるか?」

 ヴァイプは瞬時に思い描くことができた。

 あれは、授業の一環で風景画を描いたときのものだ。指定された題材は決まっておらず、各々が好きな場所へと足を運び思い思いに描くという課題だった。

 真剣に取り組む意欲など毛ほどもなかったヴァイプたちは、近場の河川に足を運び、そこの景色をものの数秒で書き終えた後に制限時間いっぱいまで川で遊び呆けていたのであった。

 後日、ディンプが書いた絵を教員が絶賛した。自分が村長に掛けあうのでこの絵を広場に掲示してもいいか、と詰め寄るようにしてディンプに懇願していた様子をヴァイプは克明に覚えている。それはロードも同じだったのだろう、「覚えている」と口にしてから不服そうに眉を寄せて続ける。

「けれど僕は観ていないよ。興味なかったからね。所詮、絵だろう。見てなんの足しになるってんだい。財布が膨れるわけでも、お腹も膨れるわけでもないだろう」

「それを言っちゃおしまいだが、少なくとも俺はディンプがなんで大人たちからちやほやされているのか、その理由が分かったね」

 含みのあるブラムの言い方に思わずロードは、「どんな理由だよ?」と訊き返した。仲介に入る機会をうかがっていたダレンもディンプの絵を観なかった一人なのだろう、自分の任を忘れてブラムの言葉を待っている。

「掲示されていた絵を観てないってことは、ディンプが描いた絵がどんなものだったかも説明しなきゃいけないな」

 そこでダレンは沈黙していたヴァイプへと目をやった。それはまるで、ディンプの説明はお前の方が得意だろう、と言いたげな目付きだったので、ヴァイプは握っていた拳を緩め、彼らの会話に横槍を入れるようにして話し出した。

「ディンプの絵は、無人になった教室の風景画だった。俺たちや他の奴らは題材を探しに校外へと出て行っただろ。ディンプはそのまま一人残って、空っぽになった室内を描いていたんだよ」

「誰もいない教室を?」

「そう。そこを描くディンプを除いて、誰一人の人気もない教室だ」

「そんなつまらない絵がどうして――」

 ロードの発言をブラムが鼻で笑うと、周囲の牧草がさらりと波立った。

「それこそ実際に観なきゃ分からないだろうな。絵っていうのはつまり、そういうものなんだよ。人伝いに話しだけ聞いても、その良さってのは自分の目で観てみないと伝わらねぇんだよ」

「それでも、何か感想があるだろう。筆遣いが上手いとか、アングルが独特だとか……。それに、僕はまだブラムが分かったっていう、ディンプが大人たちから評価されている理由というのを聞いていないよ」

 ブラムは城壁のように頑丈そうな顎に手をやり、「どうなんだよ?」と急かしてくるロードに臆することなくたっぷりと思考してから口火を切った。

「正直、俺は絵なんてもん、それまで真剣に観たこともなけりゃ、描いたこともないからよ、ディンプの絵が技術的な面でどうすごいのかは微塵も分からない。だから、どこがどうすごいかっていうのを上手い言葉で言い表せる気がしねぇんだけど、俺がディンプの絵が、というかディンプをすげぇって思ったのは、あの場所を、あの誰もいなくなった教室を描こうと思ったことなんだよ」

「どういうことだ?」

 疑問の声を発したのは、喧嘩への発展を恐れて見守っていたダレンだった。ロードも同様のことを返したかったようだが、ダレンに先を越されてしまったことで苦虫を噛み潰したかのような渋面をつくってブラムの返答を待っている。

「訊き返されても、俺だってよく分かってねぇんだよ。ただ、風景を描きに行ってこい、って言われたらよ、普通どっか外に行くだろ。少しよりも良い題材を求めてよ。それをしなかったディンプはやっぱり大人たちが言っているように普通の子どもとは違うんだなって、俺たちが観ている風景と、あいつが観ている風景は違うんだなって漠然と思っただけだよ。でも言葉にならないそれが、大人たちから称賛を浴びる要因なんだってことは、まぁ何となく分かった」

 どこか腑に落ちない顔色をしているロードとダレンであったが、ダレンの話を聞いたヴァイプは全身の筋肉を収縮させ、自分の信奉しているものが他人に認められていることを密かに喜んでいた。

 歓喜に打ち震えているヴァイプに気付いたダレンは、「どうした、ヴァイプ?」と彼に呼びかけたが、ヴァイプはまるでその声が耳に入っていないかのように陶然とした顔で草原の先にいる二頭の羊が歩き去る姿を見送っていた。

 場が剣呑な方向へと進行してしまわないために、今が指針を変える好機だと見取ったダレンは、声を張り上げて言った。

「要するに話を戻すと、ロードはヴァイプの方が兄貴だと思っていて、ブラムはディンプだと思っているってことだよな?」

「はっ、そういや、そもそもそんな話だったな」

 ブラムは自分がディンプを庇うようなことを口にした理由を今になって理解したようだった。

「そうだ。俺はヴァイプじゃなくてディンプが兄貴だと思っている」

「ヴァイプは、ディンプだと思ってるんだよな?」

「もちろんだ」と、ヴァイプは確信に満ちた声で答えた。

「ディンプに二票で、ヴァイプに一票か……」

「ダレンはどっちだと思っているんだよ? もちろん、ヴァイプだよね」

 一人劣勢のロードは、せめて引き分けに持ち込もうと企んでいるのかまだ票を投じていないダレンを誘導しようと必死に食い下がっている。

「二対一か……」

 ダレンは少し思案してからヴァイプへと投げかける。

「お前たちのどっちが兄貴かっていうのは、誰か知っている人はいるのか?」

「おそらく、母親が知ってると思う」

「そうか、じゃあこうしよう」

 顔の横に指を一本立てて、ダレンは友人たちに向かって続けた。

「俺はヴァイプが兄貴の方に票を入れる。こうすれば二対二で上手く票が割れることになる。俺たちはこれから村まで戻ってヴァイプのお母さんに、どちらが先に生まれたのか訊ねる。そうすれば答えが分かるはずだ」

「それだけかよ?」

 ブラムは悪魔的な笑みを頬元に浮かべる。

「もちろん、それだけじゃない。予想が外れた方の二人が、正答した二人の言うことを何でも聞く」

「へぇ、なんでも?」

 己の勝ちを疑っていないロードは、どんな残酷な命令を下してやろうか、と早くも数多を回らせているようでニヤニヤと唇を歪めて言った。

「ま、さすがに限度は考えてな。でも可能なものは、たとえそれが溝の水を飲むようなものであったとしても、全裸で日中の村を徘徊する命令だろうと必ず実行する。――どうだ?」

 平然とした顔で口にしているダレンであるが、その双眸はブラムへと向けられていた。彼は事あるごとに粗暴な振る舞いをするブラムに日頃から憤懣を抱いており、そのブラムに仕返しをするための機会を待望していたのであった。

 当のブラムは俄然乗り気なようで、「俺は一向に構わないぜ」とむしろ挑発するようにして返した。

「僕も望むところだね。自分勝手なブラムの野郎に泡を食わせるこんな良いチャンスを逃すわけがない」

 ロードが腹蔵なくブラムへの宣戦布告を言い放つ。するとブラムは優雅に手を広げ、飛翔する大鷹のように勝負への余裕を見せた。二人が白熱するように上手く誘導でき、密かに安堵していたダレンは最後にヴァイプへと確認を取る。

「ヴァイプもその条件でいいか?」

 ダレンに問われたヴァイプは、結果の見えている勝負事をどうしてしなければならないのかと思っていた。火を見るよりも明らかな事実を改めて確認する意味などあるのだろうか。それはただの時間の浪費だ。貴重な時を放擲するくらいであるのなら、自己鍛錬に費やした方が遥かに有意義なのではないだろうか。

 そう思ったヴァイプであったが、己の心底に砂金のような煌めきが沈殿していることに気付いた。それを両手で掬い上げ、細めた目でつぶさに観察すると、それは砂金ではなく反抗的に研ぎ澄まされたガラスの破片であった。ヴァイプはその破片が己の奥底に埋没していた意味を理解しなかったが、ガラス片の鋭利な切り口は噤まれていた彼の唇を切り開いた。

「いいぞ」

「よし、なら早速行こうぜっ!」

 いの一番に牧草地から飛び出したブラムは、店の角を迂回して停めてあった三台の自転車の一つに跨った。

「じゃ、お先に!」

「あ! おい、待てよ!」

 着順によって勝敗が決まるわけでもないのに、ロードはブラムと同様のルートをたどって自分の自転車に飛び乗る。そして早くもライフラインを走っていくブラムに追いつこうと全力でペダルに体重を乗せ、路上の小石を弾き飛ばしながら発進した。

 旋風のような勢いで村への道をたどっていく二人の背を苦笑交じりに見つめていたダレンは、釈然としない顔をして足元の子猫を見下ろしているヴァイプを「俺たちも行こうぜ」と促す。ヴァイプは上の空で「ああ」と返答してダレンとともに店の正面へと迂回して向かう。ブラムとロードの騒がしさに驚いたのだろう、店の面に停まっていた馬車に繋がれていた馬はやけに息を荒げ、興奮気味に前足の蹄を地面に叩きつけて砂利を弾いていた。

「ったく、あいつら……。おい、ヴァイプ。御者のおっさんに叱られないうちに早く行こう」

 自分の自転車を押してきたダレンは言うが早いかサドルに腰を据えて、ペダルを踏んで進み出した。

 店の前に一人残されたヴァイプは、地に据えた二本の脚を丁寧に折り曲げて屈伸してから、両手の指を絡めてゆっくりと伸びをした。空には五頭の羊雲と一個の太陽。繋げていた両手を頭上で切り離し、我が物顔で蒼天に鎮座している太陽を殴打するように伸ばしてから下に落とす。

 そうしている間にダレンは麦粒のように小さくなっており、さらに先行する二人の友人の姿形はもう地平の奥へと消えて見えなくなっていた。

 ヴァイプが、まるで朝焼けに溶けていく星のように収縮していくダレンの後ろ姿を注視していると、店のなかから御者の老人と雑貨屋の店主が現れた。

「こんな珍しいものをありがとう」

 店主に向けて礼を言う御者の老人の手には、面妖な形をしたものを握られていた。

「へへ、作り立てなんで音色は最上ですぜ」

 白髪と黒髪が入り混じった頭を掻きながら雑貨屋の店主は卑屈そうに言い、抜け落ちて地面へと落下していく己の頭髪を嬉しそうに見つめて付け加えた。

「ただしくれぐれも夜中に弾いちゃいけませんぜ。その楽器を夜中に弾くと、音色につられた化け猫の怪物が現れるって言い伝えですから」

 店主の言葉を御者は信じていないのだろう、「ああ、分かった分かった」とお座なりに返答して、さっさと御者台へと乗ってしまった。

 その様子をヴァイプは腰部の捻り運動をしながら眺めていたが、御者が手綱を握り息巻いている馬を宥めて出立の準備をし始めると、直立不動の体勢になり静かに目を閉じて呼吸を澄ませた。

 暗幕に遮られた視界のなかでヴァイプは浅く呼吸をする。その度に大気から濃厚な酸素が吸入されて全身の筋肉をきりきりと締め上げていく。瞼を透かして映る太陽は、吐き出される息によって簡単に砕けてしまうほど脆い球体に見えた。

「それでは、また」

 背後から御者の声が聞こえてき、皺の寄った手によって手綱が引かれたのと同時に、ヴァイプは目前を覆っていた幕を突き破るようにして駈け出した。

 宙を切り裂いて直進する弓矢のように、ヴァイプは牧草地に挟まれた道を疾駆していく。猛然と駈け抜けて行く彼の背後には弾き出された砂粒によって煙が立ち、まるで軌条を走る蒸気機関車を思わせた。

 その速度も機関車と見紛うものであり、粒のようになっていたダレンの姿は見る見るうちに肥大化して、ヴァイプのすぐ傍を通過したかと思えば、瞬く間に遥か後方に流れ去っていた。

 白昼を翔ける流星にダレンは空笑いを洩らしたが、その声は当然ヴァイプにはとどかなかった。ヴァイプの視界には青と緑、そして白しか存在していなかった。その配色は言うまでもなく、青色は天上の空、緑色は左右の牧草、白色は駆けている道を示しているのだが、その色彩が何を表しているのか脳が介する暇もないほどにヴァイプは走るという行為に全神経を集中させていた。

 やがて道の先から、競うようにして自転車を漕いでいるブラムとロードが見えてきた。

「くそっ、負けてたまるか!」

「はっ。俺はまだまだ余力を残しているぞ、ロード」

「ちくしょう。僕だって、ま、まだ、余裕だよぉお!」

 暑さにやられた犬のような呼吸をしてペダルを漕いでいる二人の間を、一陣の疾風がすり抜けていった。

「――おっと」

 よろめいた自転車を立て直したブラムは、すでに凝視しなければ確認できないヴァイプの姿を見て苦笑いを浮かべる。

「ヴァイプのやつ、相変わらず馬鹿みたいな足の速さだな」

 横にいるロードに投げかけたつもりであったが、受け取り手であるはずのロードの返答はいつまで待ってもなかった。不思議に思ったブラムが自転車を停めて背後を振り返ると、道脇の牧草に自転車ごと倒れ伏せたロードが目に入った。

「おーい、大丈夫か?」

「うう、ぁう」

 カラカラと空転する車輪の音に交じってロードの呻き声が聞こえた。

「先に行ってるぞー」

「ブラムの人でなじぃ」

 語尾に近付くにつれて涙声になっていくロードの返答。ブラムはヴァイプが走り去って行った道に目をやって大きなため息を吐き、自転車を押してロードの元まで戻っていった。

 己の行為によって友人たちがそのような事態になっているとは予想だにしていないヴァイプは、ただ無心に地面を蹴り上げ、ただ無心に酸素を取り入れ、ただ無心に両腕で宙を切り裂いてライフラインを駈け進み、その先にある村をただ熱心に目指していた。

 無我の領域へと没入したヴァイプは、己の心底に沈んでいたガラス片の正体を理解した。その無骨に研がれた破片は、信奉するものへの反抗と羨望の象徴であったのだが、新たに吸引された空気によって取りこぼし、それは再び心底へと落下して埋没した。


 これは、双子の一人ヴァイプとその友人たちの日常の一幕である。僕は会話文が不得手なので苦心して書いた覚えがある。

 僕が会話文を苦手とするのは、現実で人と積極的に会話をしないからだろうが、だからといって会話が嫌いということでもない。人によっては僕のことを社交的で話が上手い、と言ってくれる。しかしそう称される度、僕は少しだけ誇らしくなりながらも、この人はなにを言っているのだろう? と頭を捻ってみるのだ。僕が僕を客観視したときの印象はやはり無口で無愛想なので、社交的や話し上手から程遠い位置にいるのは間違いない。

 個人的の話はこのくらいにしておこう。そんなもの聞かされたって誰も得をしないし、面白くもないだろう。

 次は双子のもう片方が中心に進む章を読んでもらいたい。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ