第三章 二節 赤い蜂
グロテスクな表現、不快な表現が含まれています。
1
Cプロジェクトのワクチン普及は早迅速であり、私の入院二日目には、既にリノバンス医院にも届けられた。感染者と認定された私も、アイリスも、他のUNC感染者及び非感染者も全員がワクチンを接種し、検査してもUNCは検出されなかった。この時を境に、レーザン先生を始め私たちの少数研究グループは、解散という形になったが、正式な解散は今年中までと定められた。
あっさりと終わってしまった新種の病。これで研究者と感染者の奮闘は幕を閉じた。
「アイリスちゃん、気分はどうかな?」
「うん、だいぶ良くなってきたかも」
412号室。看護師の落合は病室に入る。患者のアイリスの以前の衰弱そうな表情はなくなり、顔色もよくなってきていた。
「ふふ、よかったよかった。この調子ならあと数週間で退院できるね」
「それはレーザン先生次第だけど」
そういいながらも、アイリスは嬉しそうに笑った。
「大丈夫だよ、あと損傷した身体が治るのを待つだけだから、それに再生医療の優れたレーザン先生がいるからすぐに治るよ」
「ねぇ、香音さん」とアイリスはなにか心配そうな声を出した。
「どうしたの?」
「ゼクロス、大丈夫かな……倒れたんでしょ?」
「うん、でも命に別状はなかったって聞いてるし、今日で退院するから」
「そうなんだ……」
それでも不安そうに言ったアイリス。
「ゼクロス先生のこと心配?」
「あ、ええと、そ、そんなことないです……!」
本人なりの否定だったのだろう。しかし落合はくすりと笑い、
「不思議だね、前まではあんなに毛嫌いしていたのに、いつからそんなに仲良くなったの? ゼクロス先生もアイリスちゃんと話すときとっても機嫌がいいし……」
「それ以上話すのはやめてもらえないかい」
「――うわぁっ!」
シャッと、私はベッドのカーテンを開け、二人を見る。予想通りだが、それでも驚き過ぎだろう。落合の驚きぶりには毎回呆れる。
「い、いつからそこにいたのですか!?」
「君と一緒に入ってきたんだが、やはりカーテンの裏に隠れていては見えなかったか」
「あ、たしかにここならわかりませんね……じゃなくて、え? 一緒に入ってきてたんですか? 気づかなかったんですけど、本当ですか?」
「本当だよ。そもそも君が鼻歌まじりで――」
「うわー! 言わないでくださいっ! そもそもそこで何をしていたんですか!」
「入院していた三日分のカルテのチェックだ。解散はしたが、個人的に少し治癒経過を確認したかったのでね。で、その間に君が余計なことを言いそうになったから顔を出しただけだ。口は慎めよ、落合さん。上司のミスティルさんにも余計なことを言い過ぎだといつも言われているだろう」
「な、なんでそれを……っ?」
顔を青くしてショックを受けたようなリアクションを取る。いつみても反応が奇抜だ。見た目だけでなく、内面もあって彼女はいろんな人から弄られているのだろう。
「視野が広いだけだ。あと、アイリスとは話が合うんだ。小説の話がね」
そう言い、目だけを動かしアイリスを見る。視線が合い、アイリスは挙動不審で目を逸らした。
「あの、ひとつ訊いていいですか」
アイリスの様子に気がつかなかった落合は私に尋ねる。
「いいよ、何だい?」
「先生は何故倒れたのですか?」
そこまで情報は行き渡らなかったか。
「UNCに感染してしまっただけだ。まぁ症状はそれほどだったから、ワクチンとここの医院の優秀な医療技術のおかげですぐに退院できた」
私は腕時計を見る。十時か、そろそろ行く準備をしなければ。
「あ、もう行かれるのですか?」
「あぁ、今日はちょっと急ぎの用があるからね」
「退院したばかりなのに、大変ですね」
「何、明日は大事な日なんだ。そのための準備をしようとね。今日までに退院できなかったらどうしようかと思ったよ」
「大事な日……?」
このとき、はじめてアイリスが話した。呟いたようにも聞こえたが、私にははっきりと聞き取れた。
「明日の昼にちょっと遠いところで開催される珍しいバーゲンセールがあるんだ。丁度欲しかったものがお買い得でそこに売っていてね。是非とも、そこへ行かないとって思ってさ」
私は軽く笑い、部屋を出る。そのときのふたりの唖然とした顔は、おそらく私は高級なものしか買わないという先入観があったのだろう。実際は真逆だが、ビジネスに関してのものは高級なものも買う。
だが、明日向かうセールは一味違う。その空気がどのようなものか、私は少し好奇心を抱いて、ある地域へと向かう準備をした。
2
十二月二十一日午後二時十五分。ユリアナの情報をもとに、電子移動を利用し、チャーロス区域ジェング市街のあるアパートの前に着く。人が住んでいるにもかかわらず、何故こんなにも寂れ、静かなのか。人を見かけたとしても老人のみ。周囲の建造物といい、現実再現領域であるにもかかわらず時代を感じる。理想再現領域のゲーム世界とはまるで違う。曇りがかった空がより一層目の前の四階建てアパートを古く感じさせる。
「……」
ここが本当にあの市場の入り口なのか。私は懐疑的に思い、ただのアパートを見つめる。
レッド・マーケット。開催期間も場所も毎回変わり、一般でもほんの一部しか知られていない噂程度の法外的人体市場。人体を主に扱った場所であり、他にも数種類の動植物も取り扱っているらしいが、実のところはわからないまま。
話を聞くには、会員や売り手は専用ルートがあるらしいので、一般用ルートは非常に分かりづらい一本のみのルートとなっている。利用者も少ないのだろう。
「……ふぅ」
私は息を吐き、蔦の張った白い壁を一瞥し、錆びついた鉄の扉のドアノブを回す。開いた先は廊下一本。幅二メートルほどの狭い通路の左右にはいくつかの部屋の鉄扉が規則的に並んでいる。裏口か物置だろうか、一番奥に曇り窓のついたドアが壁に貼ってあるかのようにぽつんとあった。
入る前に一度このアパートを見回したが、外に出るとするならば、雑草の生えた裏庭の物置場だ。だが、ユリアナのメモによればこの先がレッドマーケットだという。
「……」
普通ならば信じられないが、ここはあくまで電脳界だ。空間構造においての矛盾は電脳的に許される。
私は歩を進め、その扉をガチャリ、と開けた。
目の前に広がった景色は一瞬目を疑うほどだった。
当然の如く、そこはれっきとした賑やかな市場。煉瓦製の住宅街に囲まれ、大小さまざまな屋台が連なるように並び、めいいっぱい叫んでは商品宣伝している。メインストリートもあれば、路地裏のような細道も確認できた。
確かに賑やかだ。予想以上に人が多く、楽しそうな声も聞こえ、笑い声も聞こえる。だが、同時に悲鳴や断末魔のような叫び声も煩い程聞こえてくる。
とりあえず進もうと思い、私は石畳の茶褐色の固い地面を歩き始める。
「さぁどうだい! 新鮮な臓器はこちらに一通り揃ってるよーっ」
「やめろ! やめてくれぇ!」
「いやだぁ! 死にたくないぃぃ!」
「人肉の手料理が食べたいならうちの店がお勧めだよお客さん!」
「おい暴れるな! テメェらこいつを押さえろ!」
「お願い! 放してよぉ! 放してく――ぁああああああああ!」
「助けてください! おねがいだがっががああっぁああががああ」
「さぁ、寄った寄った! 奴隷がほしいなら三人で三割安くしときますよー!」
「ぅわあああああん! おがあざんだずげでぇえええ!」
「あ、お客さん! この色とりどりの眼球を見てください! あ、金色の目玉が売切れてますね。今補充しますので少しばかりお待ちを!」
辺りを見渡せば見渡すほど気がどうにかなりそうな光景。臓器や脳髄だけでなく、髪の毛や刺青の描かれた皮膚、吐瀉物などが売ってあり、装飾品としての人骨の加工物、または食材としての臓物や血液も店頭に並べられている。干し生首もあれば、目や口から刺され、背骨を縫うように大きな鉄串が股間へと貫通している何人もの幼子が大きな焼き台に塩を塗されて焼かれているのが公開されている。
「……狂ってるな」
ぐじゅう、べきぃ、と血肉が裂け、骨が無理矢理折られている生々しい音。それとともに断末魔が耳に響く。血生臭い。冬だというのに蒸し暑く、空気が濁っている。決して温かいものでもなく、ただ悪寒が走るばかり。血や肉は見慣れているものだが、それとは話が別だ。ここは異常だ。居心地のいいものではない。今すぐにでも帰りたい気分だった。
「お、あんたもしかして……ちょっとちょっと!」
「……なんだ鬱陶しい」
無視を続けたが、執拗に腕を掴んで止めてくるので、腕を払い、顔面から首にかけて刺繍が縫われた大男を睨む。巨体とはいえ、こちらも背が高いので、目の高さは同じだった。
「あんた死神扱いされてる選別者のゼクロスだろ!」
「これまたどうもご説明ご苦労様なことだ」
ここでも名が割れているか。いや、寧ろこのような場所だと逆に有名なのかもしれない。
「さて、僕に何の用で」
「選別者も医者に近いだろ。どうだ、ここはひとつ献体とか輸血パックとか買っていかねぇかい。移植用の清潔な臓器だって、人骨で造られた良質の義手義足だって売ってるぜ?」
「遠慮しておくよ。こっちには有り余るほど持っているんでね。そんなことより、『赤い蜂』はどこにいるか知ってるかい?」
「『赤い蜂』? あんなキチガイにわざわざ会いにいってどうするんだよ」
腕を組んでは叫ぶように言った。唾が飛んで汚いが、それはともかくとして、やはり評判は悪いようだ。
「本人自身にちょっとした用事だよ。そいつの居場所は分かるかい?」
私はチップを渡す。大男はそれをズボンに入れ、スキンヘッドの頭をぼろぼろの爪で掻く。
「あいつぁ店を持たずにフラフラと歩きながら商売している。場所は分からねぇが、少なくともこういう賑やかな大通りには来ねぇ」
「それじゃあ売っているものや見た目は分かるかい」
さらにチップを渡す。後ろの店から体液の絡む音と男女の喘ぎ声が聞こえてくる。よくみると前にあるこの大男の店には医療用の臓器だけでなく男性器や女性器がくり抜かれたように単体で店の奥に並んであった。
「んーと、薬品がメインだったか。でっかい機械の箱を担いでボロボロの茶色いローブをいっつも着ているぜ」
「わかった、ありがとう」
「あー、そうだ。下手して死なれたら後味悪いし、ひとつ忠告しておくぜ」
人を家畜やモノのように扱う奴等が何を言うか。私は踵を返し、話を伺う。
「知っていると思うが『赤い蜂』は大抵話が合わない。もの買うなら必要最低限しかいわないことだ。あまりしゃべると人材として殺されるぜ? 客どころか商売人にも構わず襲うからな」
私は了承し、その場を立ち去る。「また寄ってこいよ!」という男の声は阿鼻叫喚に溶け込んでいった。
途中途中で勧められた麻薬の原材料や毒物の試食の誘いを断り、異人種の肉体の一部や食人植物が売られている通りを抜ける。路地裏には毒や薬物で潰れている人の形をしたものが横たわっていた。それを材料として人が回収していく光景を横目に、私はただ人集りの少ない場所を探す。
ちょっとした広場に出る。中央の卓上の台で娼婦と孕んだ胎児の解体ショーが行われている。奥では安楽死のための自殺装置の路上紹介。その装置はどこかマーシトロンにも似ていた。
横から自動車音が聞こえてくる。目を向けると、大型トラック車から大量の死体がゴロゴロと地面に転がり込んでくる。入荷か。本当に人間を物としか扱ってないんだな。
すると、前の方から何かの音が聞こえてくる。あのドーム状の建物か。
「ここもろくな場所ではなさそうだな」
中に入ってみると、生々しい空気が一変し、凄まじい振動が突きつけられてくるように音が伝わってくる。心臓に打ち付けられるような、びりびりと、実感して受け取ることのできる大音量の音楽が鳴り響く。ノイズの混ざったハードハウスミュージックを聞き、ここはクラブだとすぐに判断できた。
「……本当に市場なのかここは……」
その呟きは大音量にかき消される。
「……?」
分厚いドアに入っていった人の中にボロボロの茶色いフードを被った人が混じっていたのを確認できた。微かに背負っているものが機械のような大きな装置だったのが見えた気がする。
もしかして、と思い、私は中央会場へと足を踏み入れる。途端に音量が増し、周囲のざわめきがかき消される。音というより衝撃波に近い大音量のBGMは人々を意気揚々とさせるが、私はどうもこの音が苦手だ。照明が絞られた空間、辺りを走る様々な色のレーザー光線、煙草やアルコールだけでない、兵器製作に使用した劇物の匂い。先程のメインストリートよりも高い人口密度に私はうんざりとするが、微かに見えた『赤い蜂』の姿。話の通りならば、あの人物こそがギリア・ファインマンだろう。
流動的な人の流れをうまいこと避けながら体をくねらせて踊る男女の集団の中を進む。踊る男女の服装は露出度の高い衣装だったが、ただのドレスコードではなかった。
トライバルタトゥーを体に刻み込んでいる男に、全身だけでなく、笑った口の中にまでピアスを穿いた女、体のあちこちに穴が開いており、空洞と化している男とも女ともわからない、スキンヘッドにピアスが幾何学的に施してある人物など、身体に痛みを伴う装飾を施している人がほとんどだった。他にも生々しい傷でデザインされた腕のない筋肉質の男や、半身機械の女性もみられた。
身体改造は人によって動機が異なるが、共通があるとすれば昔の自分を変えたかったのだろう。内に秘めた別の自分を解放したいという欲求がこのような形で出たのだ。
「……」
別の自分、か。あの鏡に映った赤い死神は、もう一人の私だったのだろうか。しかし、ワクチンで治ってから一度もあの姿を見ていない。UNCが生み出した幻覚だったのだろう。
奥へ進む。中央ホールに集まっているスポットライトには数本のワイヤーに裸で吊るされている若い少女が数人いた。
「ボディ・サスペンションか。常人には見るに耐えられない場所だなここは」
背中や手足の皮膚に手のひらサイズの大きな針を突き刺し、身体を釣り上げるそれは、一種のショーとしては適しているのだろう。
狂ったような甲高い笑い声と悲鳴が少女たちから聞こえる。スピーカーの大音量にも負けない強烈な哄笑は心臓にくる衝撃波よりも体に響く。宙に吊るされながら、体を捩っては舞う彼女たちの照らされた白い肌から流れる、一筋の赤い血が肌の表面を伝う。誰かが操作しているのか、ワイヤーを上げたり下げたりして、少女たちを操り人形のように動かしては躍らせる。歓声は止まない。
「……」
こんなところで道草食っている場合ではない。私はその場を後にした。
「……!?」
私は目を疑った。
ホールの人混みから抜けたとき、会場の端で突然、ドパァンと人が破裂し、両脚だけを残して倒れる光景が目に入った。だが、周囲の人はそれを気にもせずにダンスを続けている。
爆発死した人物の目の前には、機械を背負ったローブ姿の人物が確認できた。
「あいつか……!」
私は走った。人混みを避けるのは慣れている。すぐにでも追いつけそうだ。
だが、気配を察知したのか、『赤い蜂』らしきローブ姿の人物は私を見た途端、すぐそこの分厚いドアを開け、会場から出た。
人通りの少ない通りに出る。メインストリートと比べれば少し狭い気もするが、それでも十分な道幅だった。
「あいつはどこに……っ、いた」
小さくその姿は見えた。外見が独特な為、寧ろ目立つ。一度見つければ問題ない。
私は急ぎ足でローブ姿の人物を追う。地面の茶褐色の石畳とローブの色が似ているので少し紛らわしいが、背負ったボックス状の機械のおかげで見失うことはない。
「『赤い蜂』のギリア・ファインマンだな」
やっと追いつき、私は後ろから声をかけた。歩くのをやめ、私の方へと振り返った。フードを目深に被っているため顔が完全に見えないが、白い顎鬚と皺のある口元がみえたのでおそらく老人に近い年なのだろう。その割には背が少し高く、一七五はある。
「……」
「薬品を買いに来たわけではないが、あなたに直接伺いたいことがある」
「……」
すると、男は歩を進めた。話のわからない奴とは言っていたが、これではそれ以前の問題だ。
「――『シュレイティアの意志』を知っているか」
ぴたりと『赤い蜂』ギリアは歩くのをやめた。再び振り返り、白鬚で覆われた口をゆっくりと開く。
「……ついてこい」
廃墟に近い高級ホテルの一階ロビー。誰一人おらず、塵で汚れたガラスは所々割れている。薄暗い縦長のロビーは広く、吹き抜けが三階まで続いている。数本の渡り廊下がホールの空間を架けていた。
ギリアは砂と枯葉とガラスの破片の散在した大理石の床をじゃりじゃりと踏みしめ、背負った機械をゴドン、と置いた。
「選別者、名は何と言った」
「ゼクロス・A・コズミックだ。これで三回目だぞ」
やはり老人のようだ。物覚えが悪い。私は腕を組み、大理石の円柱型の柱に背もたれる。
「あぁ、そうだったな……コズミック……ホワロとは関係があるのか」
「……っ? 母を知っているのか?」
「そうか、ホワロの息子か。懐かしいな」
老人独自の野太く、掠れた声で言ったギリアは機械の箱から青い発光色の液体が入った薬品瓶を取り出しては一気に飲み干す。どうやら背に担いでいた機械の中身は商品である薬品の保管庫であるようだ。
「ホワロは俺の生徒だった」
「……?」
私はどういうことだと言わんばかりに眉を寄せる。
母の履歴を過去に見た限り、確か法学部だったはずだ。その他にあるとすれば私が生まれた後に再び大学に入り直し、倫理学や言語学の勉強をしていたことぐらいだ。少なくとも理学系の学問には触れていない。
「あなたは研究職だったはずだが」
「あぁそうだ。だがその前は化学の教授を務めていた。そのときに興味本位で化学を教わりたいと頼んできたのをよく覚えている」
「成程、そういうことか」
だが、まさか母の知り合いに出会うとは偶然も上手くできている。
しかし、何故一人の学生である母のことを覚えていたのか。
「あの女は『シュレイティアの意志』に触れ、真実に一歩近づいた」
「……っ、何だと……!」
母までもが『シュレイティアの意志』に関わったというのか。
「それを機に私も意志に触れた。しかし、ホワロは発狂し、無差別殺人をして何十人もの被害を出した」
「まさかとは思うが、母の起こしたあの事件は『シュレイティアの意志』と関係があると言いたいのか? 馬鹿げている。その偉人の意志は理論であり、隠された真実とはいえ、あくまで理論、つまり仮説に過ぎないだろう。何故そんなものを知って母は発狂しなければならないのだ」
少し熱くなってしまったことに気がついた私は一度咳払いをして気を静める。ギリアはもう一本の黒い液体の入った小さい薬品瓶を飲み干す。
「――っ!?」
瞬間、背もたれていた柱が破裂した。半分以上抉れ、砕けた大理石は床に散らばる。掠ったのか、私の頬が少し切れ、血が伝う。
「要らんことは口にするな、青二才が」
「……」
まさかギリアがしたのか? そういえば先程の会場でも人が破裂した光景を見た。やはりこれもこいつの仕業か。
「『シュレイティアの意志』は仮説でも予言でもない。真実そのものだ。理論という名の計画表だと『あの御方』は思っているだろう。その意志は昔から今も続き、そして未来にまで及んでいる。だが、これはお前ごときの知能で理解できるようなただの真実ではない。不可解に等しいだろう」
「そうだな。今の話もどういうことかよく――」
バガン! と今度は大理石の床が破裂し、足元に円形の穴が開く。
「次余計なこと言ってみろ、そのホワロから授かった体をバラバラにしてくれる」
私は黙ったまま頷いた。まったく、頑固で危ない爺さんだ。
「暗黒物質だ。『シュレイティアの意志』の表はそれに等しい。我々人類の知能では到底解析できない、正体不明の事象だ。が、その裏面は神の領域だ。誰も辿り着くことのできないレベルと言ってもいい。全知全能の神しか理解できないだろう」
「……」
「ホワロはまだ表向きの『意志』に触れた程度だ。それだけで精神を崩した。それを土台にし、もう一歩踏み込んだ私も気が狂い、気がついたらこんな姿になってしまった」
ギリアはローブのフードを外し、袖を捲る。私の目に映ったのはただの老人の姿ではなかった。
口元より下は確かに老人だと判断できる。だが、それより上の頭部には目も鼻もなく、あるのは珊瑚のような色鮮やかさと形をした石灰質の頭部だった。腕は変形し、樹の枝のような色と硬さがあるようにみえるが、腕を曲げたり指を動かせるほどのしなやかさはあった。その黒により近い茶褐色の腕からは色鮮やかな結晶が埋め込まれているかの如く生えていた。
「……! その姿は……」
「一歩でも誤るとこういう副作用が出るということだ。無我夢中だった俺はあの時のことはよく覚えていない」
ギリアはローブの中から透明のカプセルの入った薬瓶から四粒出し、口に放る。
「だが、今もこうして生きている以上、ホワロはある程度以上の領域から足を踏み外したということになる」
間違った真実の捉え方をすれば死へと繋がる、ということなのか。どうしてそうなるのかがわからない。知ろうとするだけで命が失われる可能性が出てくるのか? それともギリアは比喩の表現で言っているのか。
「……そこまでして何故知りたがる」
「解らん。だが、これは人としての、いや、生命としての本能だろうな。逆らいたくても抗えない。これが宿命、いや運命だと俺は考えている」
運命、か。結局は宗教の類か。シュレイティアという唯一神を信仰しているに過ぎない、オカルトの一種だろう。母はそれを信じ、犠牲になった一人。そして、この『赤い蜂』も被害者となった。
「その『意志』を止めることはできないのか?」
「なにも『意志』はひとつだけではない。複数ある。例え『意志』を止めようと思ってもそれは不可能なことだ」
「……」
ギリアは服の中から赤い液体の入った薬瓶を取り出し、一気に飲み干す。先程から飲んでいるものは何だろうか。
「まだ信じ切れていないようだな」
「……ああ」
「だろうな。その眼を見ればわかる。宗教染みていると、俺たちを何かのカルト集団だと思っている」
ギリアの身体からピキピキと何か堅い蛹が裂けるような音が聞こえてくる。
「ゼクロス・A・コズミック。おまえはあまりにも間違った捉え方をしている。それに、少し近づきすぎた。悪いが、『シュレイティアの意志』の名において、おまえを殺害する」
「――っ!?」
私は危機を察し、その場から急いで離れた。間一髪、私のいた場所は大きく爆裂し、空震が窓ガラスを砕く。迫りくる衝撃波が逃げる私の背を強く押し、身体を浮かせる。
「――ぐっ」
入り口付近の壁に激突し、床に落ちる。全身が衝撃で痛い。上から砕け散った硝子が降ってくる。
「後悔などしてはいないさ。寧ろ至福だ。シュレイティアの意志に近づけられるなら、人の身を捨てたってかまわない」
「ぐ……狂人が」
「せめて神に近づいた者と言ってほしいものだ」
ギリアは樹のような手を降り下ろすように床に叩き付ける。すると、指に沿って五本の亀裂が風のような速さで走った。嫌な予感がした私は体を転がし、迫りくる罅を避ける。床だけではない、壁までもがスッパリと斬り刻まれた。
上から音が聞こえてくる。上を見ると、床から伝った亀裂が壁だけでなく、天井にまで及び、その衝撃で渡り廊下が落ちてこようとしていた。その下にはギリアがいる。
それに気づいてから数秒もかかることなく、渡り廊下が落ちる。だが、ギリアは避けず、それを片腕で難なく受け止めた。
「はは、まさか怪力もあるとはね」
私は皮肉の笑みを浮かべる。だが、余裕はない。
「逃がしはせん」
と言っては崩れた渡り廊下を投げつけた。
「――くそっ!」
飛んできた渡り廊下は幅が広く、横には逃げられない。下へ入り込む考えが頭を過ったが、人ひとり分の隙間はなかった。後ろにある出入り口しかない。
間一髪、ホテルのロビーから外へと出ることができた。だが、内側の壁にぶつかった渡り廊下の勢いは亀裂が刻まれた壁を完全に割り、五つに分かれた壁が外へと倒れる。
私は必死に走った。ただ、走って逃げる。壁が迫りくるが、後ろを振り返る猶予などない。
地響きするような音が真後ろから聞こえた。壁が倒れたと判断した私は息を切らしながら振り返る。数人いた人々は驚き、危険を察知したのか、急いでその場から離れていった。
倒れ、崩れた壁を踏み、ギリアが出てくる。その様は最早老人の姿ではない。
咄嗟に先程までの会話を思い出す。
間違った捉え方。それは分かるとして、何に近づきすぎたのか。意志の秘密か?
「ギリア! どういうことだ! 僕が一体何に近づいたというんだ!」
私は叫んだ。舞い上がった砂埃でギリアの姿がはっきりと見えない。
「これ以上俺のような奴を生み出すわけにはいかん。殺されるか、共に死ぬか、ふたつにひとつだ!」
「……まったく、訳がわから――」
脳内にあの赤い死神を思い出す。「自分自身が誰なのかを認識し、自覚しろ」という言葉が頭を過る。
「まさか……!」
「解ったか。既に表れてきているのが。『意志』の存在を知る前から、お前は既に『意志』に触れている。だがそれ以上の進み方を間違えれば『死』だ。これまで人種問わず数々の人間が『意志』に触れ、惹かれ、狂い、死んでいった。――『罪』に触れたのだ。『罪』には『罰』が与えられる。真実を知ることは本来、神への冒涜だ。神の領域に足を踏み入れようとしてるのだからな。一歩間違えれば『罪』とみなされ、『天罰』が下される」
「だが、正しい方法で辿り着ければ、生命という領域から逸脱し、神になれる。と解釈すればいいのかい?」
ギリアには見えないだろうが、私は口角を上げる。しかし、緊迫している。背中から嫌な汗が流れてくる。
「その意志の現象は誰が決めたんだろうな。神か? それとも『あの御方』か?」
そのとき、私の目の前の地面が炸裂した。爆発にも似た空気の破裂。それは地面を大きく抉り、風が舞う。寂れた街並みとギリアの姿が明白に見えた。
「この力は真実に近づいたことで授かったものだ。この身体もな」
「一種の呪いだな」
話の通じないギリアには聞こえない声で私は呟いた。「シュレイティアの意志」がどういうものなのかは十分に分かった。用無しになった以上、なんとしてでもここから逃げなければならない。
「生きては逃がさんぞ! 選別者ァ!」
フードを外したままギリアは追いかけてくる。叫んだと同時に私はメインストリートへと走った。案外ギリアの足が速く、走る速度を緩めることができない。
「老人とは到底思えないな……っ」
私は市場を走る。人ごみをかき分けるが、それでも全力疾走では走れない。追いつかれてしまう。
しかし、流石にこんなに人がたくさんいれば、あの魔法にも似た奇怪な力を使わないだろう。
「どけぇ! 邪魔だテメェら!」
背後から弾けるような音が轟く。石畳の地面が壊れる音だけではない。血肉が裂け、弾ける生々しい音。人々の悲鳴。ガラクタと化したテナントの数々。噴き上がる煉瓦道の瓦礫。うしろから吹き飛ばされた人やバラバラになった肉塊が嫌な音を立てては前方へ落ちてくる。
「本気かあの爺さん……っ」
私は店頭の物や商品の置いた台を倒しては少しでも時間を稼ごうとした。だが、それは無意味だったようで、奇怪な力でいとも簡単に吹き飛ばす。
「『赤い蜂』がまた暴れ出したぞ!」
「誰だブチギレさせた奴は!」
「いいから離れろ! 巻き込まれるぞ!」
店の男たちは怒鳴るように叫んではその場から逃げるようにどたどたと離れる。悲鳴も聞こえ、誰もが丸腰で逃げていた。
やはり誰もが『赤い蜂』の危険性を知っている。「また」ということは以前にもあったのだろう。
このままレッドマーケットを出ればいいのだが、そう思い通りにはいかない。いつ自分の身体が破裂するのかも時間の問題だ。だが、見た限り、あの破裂させる力は遠距離だと発動しないようだ。目の前まで追いつかなければ大丈夫だ。
「考え直してみろ! おまえは何を基に信じている! 何もかも決められた法則の上でしか生きていないんじゃないのか! 世界に支配されているんじゃないのかァ!」
ギリアは獣のように叫ぶ。その様子は以前に依頼者として来たカルト教団のひとりの信者が発狂したものを連想させた。
人々は必死の形相でその場から逃げるように無様に走る。だが、早まった流れでもまだ遅い。追いつかれてしまう。
なにか対抗できる方法はあるのか。だが、近づけば破裂して即死。周りを見ても武器らしきものは……。
「――っ」
焼き台用の人間よりも長い金属棒。私は走りながら一本掴み、振り返ってはそれを思い切り投げる。だが、それもあっさりと破裂し、打ち砕かれる。破片が銃弾のように飛び、私の頬を掠った。
やはり駄目か。
「はぁ……くそっ、はぁ……」
私は前を向き、走り続ける。何か銃みたいなものがあれば……まてよ、確か護身用に持ってきたはずだ。
「コズミック! おまえはまだ自分を出していない! こんなところで殺されたくなかったら本性を晒せ! 自分の殻を打ち破れェ!」
後ろからギリアが訳も分からないことを叫んでくる。同時にビシリ、と地面に五つの斬撃が走る。地面だけでない。大気をも切り裂いている。逃げ惑う人々は床に伝った切り刻みに沿って両断される。
「……っ、容赦ないな全く……はぁ、っはぁ……」
息が切れてきた。足元に血だらけの凄惨な姿の死体が転がっているので走りづらい。
コートの懐を漁ると、確かに護身用の小型の武器は持っていた。銃といってもハンドガン型の放電銃だ。弾ではなく、調整できる電力で一瞬だけの小さな電撃を撃つことができる。感電麻痺もできれば最悪焼死させることも可能だ。問題は効くかどうか以前に、当たるかどうかだ。先程みたいに弾かれる可能性がある。タイミングを伺わなければ。
パシャパシャと血だまりの上を走る。黒い靴と裾が赤黒く染まる。鉄臭い。寒いはずなのに気持ちの悪い湿気で蒸し暑い。だが吹いてくる風は突き刺さる程冷たかった。
「ふん、埒が明かんわ」
ギリアは右脚を上げ、血だまりの地面が砕ける程強く踏み込む。筋肉が膨張し、ぼろ雑巾のようなズボンが太ももまで弾け破れるが、それは人の脚ではなく、獣のような黒い毛で覆われていた。
ズン、と地面が縦に揺れ、トランポリンに乗ったかのように私の重心が崩れては浮き上がり、共に死体が跳び上がる。
「――なんだっ!?」
ギリアは幾つか小さい結晶の生えた樹の枝のような太く、歪な腕に力を入れ、拳を浮いた死体に殴りつける。
すると、殴られた死体がボゥン! と破裂し、それに連なり、殴打した一直線上に、放射状に広がる衝撃波が波を打つ。
一瞬のうちに次々と跳ね上がった死体が衝撃波で破裂する。内から飛び出す大量の血肉が華のように赤く咲く。一瞬だけ咲き誇る鮮やかな華の舞。衝撃波が触れるものをすべて消し去る。
浮き上がった体ではどうにもできない。せいぜい体を捻らせることぐらいだ。
「――っ」
奇跡的に巻き込まれずに済んだ。私は血の溜まった市場に身を倒す。生暖かい、しかし冷たい地面で冷やされた血が服に染み込む。
だが、現実で起きた奇跡は時に代償を伴う。
「――ぅぐぁあああぁあああぁっ!」
一瞬の違和感。そして激痛。体のバランスが上手く保てない。
「あ、ぁぁが……はぁ……っ、ぐ、あが……っ」
左腕がなくなっていた。骨ごとすべてもっていかれた。ドクドクと血が流れ続ける。うまく思考が働かない。
それでも、私は起き上がり、ふらふらと走り続ける。片腕がないだけでここまで走りづらいのか。
「せめて足を失えば手取り早かったんだが……まぁええだろ」
駄目だ。このままでは逃げ切る前に殺されてしまう。この放電銃を使うか、やはり自分の本性を露わにしなければ対抗できないのか。だとすればどんなSF変身ものだ。そもそもそんなことできる覚えはないし、私はただの電脳族の人間だ。できるとしても少しばかり電気電子を発生させ、操るぐらいのものだ。
奥に見覚えのある扉が見える。一般用出入り口だ。あそこまでいけば、いや、そのあとでも追ってくるだろうし、警察や仮に軍が来ても被害が出ることに変わりはない。
「結局は自分でなんとかするしかないのか……」
私は逃げるのをやめ、ギリアの方へと振り返る。珊瑚のような頭部、植物に似た腕、獣のような脚。必死で逃げて気がつかなかったが、ローブを破り、背中から翼膜のない金属光沢を放つ何かの動物の翼の骨格が生えていた。
彼との距離は約十メートル。この距離だと破裂は起こせないようだ。周囲には誰一人おらず、あるのは転がった無残な買手の死体と商品と扱われた死体のみ。
「……フン、やっと決死の覚悟ができたか」
ギリアは痰を吐き捨てる。
「何を言っている、生き延びるために立ち向かっただけだよ。死ぬ覚悟など毛頭ないさ」
鼻で軽く笑う。だが、そんなことで気を紛らわしても痛みは引かない。
「それにしても、その不可解な力がどういう仕組みなのか気になるね。何処かの世界の法術か魔術の一種かい?」
「そんなものに括られては困る。似たようで全く異なるものだ」
「まぁ、魔法も術もある意味では科学に含まれるからね」
意識が失いかけていつつも私は余裕の笑みを浮かべる演技を振舞ってはギリアの身体のあちこちをみる。どこを撃てば効果的か。投擲や射的は小さいころから得意だったので、撃ち外すという心配はない。だが、急所を知らなければ一発では決まらない。それに、不意を突かなければあの大気ごと炸裂させる力で簡単に封じられる。
「……」
自らの身体から微弱な電波を放つ。反響定位の如く、反射した電波を肌で受け取り、情報を得る。そして、この目で相手の呼吸、血流、筋肉の動きを医学的視点で見極める。患者にしてきたように。
彼には目も鼻も、耳もない。胞子が育ったような、珊瑚のような歪な頭部で失ったのだろう。何を代わりに五感を感知しているのか。だが、それは常人よりも発達しているはずだ。側頭葉と後頭部に栄養が優先されている可能性あり。では脳を狙うべきか。あの石灰質の頭部の中に脳はあるのか。
筋力は異常値、虫様筋は肥大し、握力も高いとみる。唯一人間らしさを残す口と顎だが、咀嚼筋も充血しており、顎下腺間周辺の筋肉も発達、恐らく唾液の発射が可能。唾液は咽喉頭酸逆流によって酸性である恐れあり。そのためにも顎下腺の炎症等による唾液分泌過多が不可欠だと判断。頭部をはじめとした各部位は細胞性変性と内分泌の異常により骨密度増加、筋力肥大、細胞質の分子的変異、石灰化、頭蓋肥大などがみられる。
老体であるにもかかわらず常人以上の脚の速さ、そして大量の死体と私を、地面に踏み込むだけで浮かせるほどの脚力は、大腿四頭筋の異常発達と栄養を優先させている。
その一方で、私は左腕損失、それによる出血多量、貧血による意識朦朧、全身打撲が見られる。幸い骨折はないが、損傷の恐れあり。体質の発達はない上、意識も危ういが、それは時間の問題であり、身体がまだ正常に動ける以上、勝算はある。
なんであれ、まずあの不可思議な力を抑えなければ。
この間合いで私は賭けに出る。
「……ギリア・ファインマン」
私は静かに口を開けた。バケモノ染みたギリアでもやはり体は弱っているようで、息を切らしているのがこの距離からでもわかる。力の使いすぎと、おそらく先程何度も飲み干していた薬品がなければ体に支障が出るのだろう。
「あなたを『死亡宣告』する」
瞬間、私は懐から銃ではなくメス一本を投げつける。正面へ迫りくるメス。ギリアと私の間の空間が破裂し、メスは砕け散った。
その隙に私は壊されていない店に入り、人体断絶用のチェーンソーを起動させ、それを握った右腕を大いに振るい、投げ捨てる。
商品である人間の移植用パーツがギリアの前に降りかかる。だが、それもあっさりと破裂される。
パリン、と二つの何かがギリアの頬と胸元に強く当たり、口内の歯の固さで割れ、液体が口元を濡らした。ギリアはすぐさま感知したのか振り返る。
「……! ぺっ、あのクソ医者め! クロロホルムか!」
五感が鋭いのならば、既に所持していたこの溶剤は効くはずだ。通常、クロロホルムで人間を気絶させることはできない。相当量を吸引しなければ気絶しない上、そこまで吸引すれば腎臓、肝臓に回復不能な障害が発生する。しかし、感覚器がないであろうギリアは、他の器官でそれらを補う且つ発達した分、ある程度は効くはずだ。その上、肌に触れれば火傷のように爛れる。
「ぐぅ……小癪な!」
強く甘い芳香が周囲を漂わせ、ギリアは痛みを堪えた。
あいつは神経が鈍いのか……? だが頭部には口以外の感覚はないようだ。口元は人間のままだ。
気絶目的ならせめてイソフランやセボフルランがあればよかったが、流石に外科手術用の麻酔を持ち出すわけにもいかない。確かこの市場にはドラッグも売ってあったはずだ。5MeO-DMTがあればすぐに気絶させられるが、ここからだと距離がある。
だが、これであいつの急所は分かった。しかし、致命的な損害は与えられないだろう。それに、仮説は少し外れたようだ。あいつはそれほど感覚が発達していない。何であいつは環境を感知しているのか。
「あぁくそ、隠れやがったか……ぜぇ」
静寂。ギリアは辺りを見渡す。能力を使わないのは、やはり疲弊しているのだろう。呼吸が荒くなっている。『意志』に近づいたとはいえ、まだ未完成の身体のようだ。
爆薬があればうまいこと逃げられるかもしれない。しかし、ここにはそのような危険物はないだろう。過酸化ベンゾイルも無ければ、ニトログリセリンもない。せめて石灰質を溶かす酸や二酸化炭素の溶けた水が、いや、あるわけないか。それに溶けるにも時間がかかる。
「……」
感覚は鈍いが、視覚はあるし、聴覚もある。先程までギリアと接してきたのを思い出し、やはり感覚は前方にあると仮定。
だとすれば、と思い、テナント内にいる私は棚に置いてあった頭蓋骨の置物を手にし、通路の方ではなく、横のテナント内へと投げつけた。
「――そこにいるのかァ!」
物音がした方にギリアは後ろへと振り向き、そのテナントは吹き飛んだ。
その隙に私は放電銃の電力をMAXにし、ギリアの後頭部、否、その少し下を狙い、撃ち放った。
一瞬の閃光。強い放電音。ギリアの肥大した、歪な石灰質の頭部が砕ける。そこから血と脳髄が零れ出した。ローブが燃え、背面が焼けるように焦げたギリアは膝をついた。
「――そこかぁ」
口が裂ける程、爛れた口角を上げ、そう呟いた。
まだ生きている。
私はもう一度撃ち放った。MAXで撃てば最大三発。
だが、気づかれた時点で既に遅かった。電撃は破裂するように四方八方へと小さな放電が拡散していく。
だが、向こうの一手も一歩遅かったのか、電撃の先端ではなく、電撃の中心を狙ったため、先端部分は見事に爛れた脳に直撃した。今度こそ頭部は弾け飛んだ。
ギリアは叫ぶことなく、ドサッとそのまま倒れた。
「……」
肩甲骨から生えていた金属質の翼の骨格もぱたりと力を失うのを確認した私は、メインストリートへと出る。
うつ伏せに倒れているギリアの背は黒く焦げ、被弾部分の頭部は、口元を除いて、石灰質の部分だけすべて損失している。そこにあったはずの脳も延髄ごと抉られている。背中から血がじわりと流れ始め、微かに露わになった肺の動きもない。
「……」
死んだ。死んでしまった。命を奪ってしまった。
過去に何度か襲われた経験があったが、致命傷を与えただけであり、決して命を奪ってはいなかった。バケモノと化していたとはいえ、正当防衛で人間を殺したのは初めてかもしれない。
私は見下すようにギリアの感電し、焼けた死体を見続けた。
突然その腕が動き出した。
「――なっ!?」
私は不意を突かれ、右足首を掴まれる。その握力は異常に強く、いとも簡単に骨が砕ける音が痛みと共に私の鼓膜に響いた。
「――ぁああぁあああああああ!」
私は咄嗟に放電銃を掴んだ左腕に向けて撃った。バチィン! と全身を痺れさせるような波動が襲い、危うく神経が狂いそうになった。黒く、歪な腕は砕け、飛散する。樹の線維のようなものと結晶が飛び散った。
私は身を崩し、べちゃっ、と血と肉塊の混じった地面に尻餅をつく。そのまま引きずるように後ろに下がるが、左腕がない上、右足首の骨を握り潰されたためうまく移動できない。
「こいつ……まさか」
「残念、外れだ。俺は不死身ではない」
ギリアは立ち上がった。頭部がなく、半身の組織が電撃で損傷し、焦げているはずなのに。
「簡単な常識に騙されているからだ。脳みそ吹き飛べば必ず死ぬとは限らないだろ」
失った頭部で唯一残った、爛れて皮膚ごと髭がとれた口がぱくぱくと動く。
「……このゾンビ野郎が……!」
頭部からブチュグチュと微かに気持ちの悪い音が聞こえ、泡が少し発生している。捥げた右腕も、樹が育つように繊維を絡め、形を取り戻そうとしている。まさか再生しているのか。
「そうだな、現時点では俺もただのゾンビと大差ない」
初めて肯定した。ローブを失い、露わになった体は、焦げと傷、血で混じっていたが、エイズのような発疹があり、また筋肉質だった。老人と判断していた私が間違っていると思ってしまうほどだ。
「確かに、こんな未完成の体では到底『意志』にはたどり着けない。だが、こんな体になっても、例え死んでこの肉体を失っても、俺は追い求め続ける。『シュレイティアの意志』をな」
「死んでも、か……。素晴らしい意気込みだね。それがあなたの決死の覚悟だと受け止めておこう」
「フン、随分と余裕ぶっているじゃないか。死を前に恐怖はないのか?」
ギリアは鼻で笑う。私も同じ反応を返した。
「まぁ、僕は死ぬことには恐れない質なんでね」
「――グフッ!」
突然、ギリアは強酸の混じった血を噴き出す。故意ではない。本人の想定外で起きたことだった。
「貴様……っ! 何をしたァ!」
ギリアは腰をついている私の方へと歩こうとするが、うまく歩けずにいる。
「そりゃあ、それだけの損傷だからね。多少の不具合は起きるんじゃないかな? 例えば脊髄髄内出血とかね」
根も葉もない、思いついた言葉を吐き捨てる。
ギリアは膝を再びつく。吐血や嘔吐。呼吸困難、虚脱、皮肉にも頭部がないので顔面蒼白の症状は見られないが、この反応は明らか血圧の急激低下による血液循環、組織循環の低下。循環性ショックだ。
「アナフィラキシーショックは当然知っているはずだよね。ファインマン」
だが、返事はしなかった。私は近くの壊れかけた置台に右手をつき、何とか立ち上がる。
「ハチに刺されると、個人によるが人間はlgEという抗体を生じさせる。この抗体を持った人間が同種の蜂に刺されると、そのlgEが抗原と結びつき、それが肥満細胞や好塩基球と結合して大量のヒスタミンが体内に生じる。その結果、あなたに今起きていることが発症する。あなたは化学者だったらしいから、このレベルの説明で十分に理解できるとは思うが、簡潔にいえば二回刺されると圧倒的に死亡率が高くなるということだ」
「……テメェ……知っていたのか……」
「知る訳がないだろう、闇に葬られた事件なんて。だけど、例え品種改良した殺戮蜂の毒でも一回刺されただけでは死なない人が必ずいると履んだんだ。それがあなたというわけだ」
「……いつ仕掛けた」
ごふっ、と血を吐く。ただの大雀蜂の毒でもここまでいかない。相当の兵器バチを作り上げたんだなと震えを越え、笑ってしまう。
「さぁね。クロロホルムに気を取られていたから気づかなかったんだろう」
「……ハハ、まさかあのハチと同じ毒を作り上げるとは、大したものだな。あれは何かの手違いで偶然つくられた毒だ。俺でも二度と作れないものだと思ってはいたが」
呼吸不全の症状があるはずだが、やはりただの人体ではないと改めて思わせる。だが、未完成な分、まだ組織的に人間の部分が残っていたのが唯一の救いであり、突破口であった。
「まぁ、作るに至るまでの協力がなければ完成はしなかった。製作自体に苦労はしなかったよ。少し加工した分、寝る時間はなかったがね」
「全く……恐ろしい奴だ……」
「容赦なく人をバラバラに吹き飛ばす頑固爺さんには言われたくないね」
「ハハ……ハ……言うてくれるな青二才が……」
ギリアはとうとう倒れる。血の気が引いていたが、まだ生きている。その生命力に感心させられる。
「まさか今日死ぬとは思わなかったわ……おまえが会いに来なければこんな事態には、こんな人生の終わり方にならなかった……」
「恨むならどうぞご勝手に。生憎世間からは死神と呼ばれては嫌われているもんでね」
「ハハ……まさにそうだな、死神」
「何か言い残すことはあるかい? この間違いだらけの世界に、あなたの尊敬している『シュレイティアの意志』に言い残すことは」
演劇の台本にでも書いてあるかのような台詞を告げる。
ギリアは寝返りをうち、仰向けになる。顔が吹き飛ばされているので表情は分からないが、残った口の動きから、それは笑みでも、悲しみでもない、ただ真剣に思いを伝えるそれだった。
「いや、そんなものに言い残すことはない……ましてや『意志』に向ける言葉など失礼に当たる……。ただ、こんな毒でデジャヴを感じて死にたくはないなぁ……。俺もそうだが……お前のような死神をこの世に残してしまったのが俺の『罪』だろうな。しかし、生き延びてしまったお前に一つだけ言うとしたら……そうだな……」
ギリアの掠れた声は次第に小さくなるが、次に言い放った言葉は、はっきりとしていた。
「すべてを信じるな。すべてを……自分を疑え。でなければ真実は見えやしない」
そして、息を引き取った。
「……死んだか」
それにしても、先程から感じるこの匂いはなんだ。硫化水素とメタン……?
「……っまずい!」
硫化水素とメタンの混合物は爆発性をもつ。私は咄嗟にその場を離れたが、一歩遅く、ギリアの自爆に巻き込まれ、身を飛ばされる。
「ぁ……ぅあ……」
最後の最後までしでかしたか。傷だらけの私の意識は途切れかけるが、なんとか繋ぎとめている。背中に感じた衝撃が呼吸を困難にさせるが、それ以上に体内と腹部に痛みが生じる。みてみると、肋骨らしきギリアの骨の一部が刺さっていた。いや、逃げるときに背中から貫通して腹部で勢いが収まったのか。
「う……ぁあああっ!」
それをゆっくりと引き抜いては投げ捨てる。私は力尽きて身を倒し、ただ寒気だった空を仰ぐことしかできなかった。