第三章 一節 シュレイティアの意志
1
厄災というものは予測された上で起きることではない。突然勃発することを厄災という。いつ、どこで起きるかは見当がつかない。それを知るのは生命の死を把握する死神のみだろう。
『……トーマスが……死んだだと!?』
事態は急だった。
死因は過剰服薬。自殺だった。
電話の連絡で病院まで駆け付けたレーザン先生だったが、彼が目にしたのはすでに棺に入っていた親友の姿だった。それは眠っているかのように静かな死に顔だった。現場はライアンの自宅。密室でもないが、殺人でもない。証拠もなく、正真正銘の自殺だった。あのときの先生の泣き崩れた背中は今でも目に焼き付いている。
ライアンの遺体はレーザン先生の頼みで解剖されることなく、そのまま埋葬された。だが、その前に隅から隅までコンピュータで分析したが、鉄や亜鉛などのミネラル成分を始め、あまり市販では見ない脂溶性のビタミン剤に含まれていた脂溶性ビタミンの異常量が体内に確認できた。そしてライアンは非感染者だった。疑っていた感染が晴れて薬物自殺だということを現実として叩き付けられた。
〔記録ノート 4〕
十一月二十七日。
葬儀から二週間後。ここのところUNCの活性が収まってきた。特異型は相変わらずだが、通常型は攻撃しない状態で消滅しないまま。その上、一切抗体に攻撃されることなく、「悪意なき異物」と化している。それは自分の知っている患者の範囲内だけではないはずだ。
形は変えずとも遺伝子改造を繰り返して私たちを苦しめてきたが、その内変異の活動さえもやめ、ただの培養物と化したUNCは電脳界保健機関の「Cプロジェクト」の研究を大いに進めた。最低でも推定五年はかかるはずだったものを、遅くともあと数ヶ月で治療薬が完成するだろうと医療雑誌に掲載。今更ながらUNCの存在を小規模だが世間に公表した。
2
真っ暗な無意識の奥底から駆け上がるように意識を取り戻し、目を覚ます。しかし、目を開いても真っ暗なまま。だけど、微かに何かが見える。病室だ。傍にはここからでも手を伸ばせばすぐに届く小さな本棚、テレビのある台にはスタンドと家族の写真、随分前にプレゼントされた蝶々の折り紙、窓際にはガーベラの彩られた花籠が置いてある。
私は起き上がってはベッドから降りる。本当は歩くことさえ上手くいかずに、酔っぱらった人みたいにふらふらしてしまうけど、普通の人達みたいに歩ける。
『――イマカラソッチヘイクヨ』
「――っ!」
不協和音の機械的な野太い声に悪寒が走る。毎晩の暗い病室で必ず聞く声。振り返ると、電源のついていない液晶テレビに白衣を着た血だらけの赤い死神が映っていた。
いつも見ている悍ましい姿。慣れるものじゃない。いつみても、いつ聞いても、その声はとても怖かった。それどころか日に日に恐怖が増している。
病室から慌てて飛び出す。だが、そこは廊下でも何でもない、ただ真っ黒な世界の中、ブラウン管のテレビが山のように大量に捨てられていた。中身の回線が飛び出ているものもあれば液晶が罅割れているのもある。だが、そのブラウン管すべての画面にあの赤い死神の姿が映り、あの不気味な声で誘ってくる。
いやだ。まだ死にたくない。
捨てられたブラウン管の山の間を走り抜ける。聞こえてくる声がやさしげなものから段々と声の荒げたものとなり、後ろから誰かが追いかけてくる足音が私の走る足を速めた。
液晶の破片や部品が足に刺さる。だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。よろめきながらも必死に走る。
気がつくと、原っぱにいた。透き通った限りない青空。奥に何かの建物が見える。その場所のことを微かに覚えている。微かだが、忘れもしない一番の思い出。
建物の前に辿り着く。そこは教会だった。周りには四季を象徴するトリニオスの花畑。
誰かが呼んでいる。懐かしい、愛おしい声。ただ、声の聞こえる方へと走る。その先は眩しい程の白い光の点。それが近づくにつれ徐々に大きくなっていく。そして、その光に包まれた時、陽炎のように揺らめく何かの黒い闇が微かに見えた。
「そこまでして生きたい理由があるのか」
闇が問いかける。もう一度、外に出たい。それが唯一の理由だ。
「それが叶えば、もう死んでもいいのか」
あの病室で一生を送るぐらいなら、それでも構わない。
「少しでも永く生きる。それだけのことでも、周りにどれだけの影響を及ぼしていると思っている」
迷惑はかけていると思う。でも、病人だから仕方ない。
「仕方ないと思うならすべてを知ろうとする努力をしろ」
知ろうとする努力? どういうことだろう。
「知らないことは罪だと思え。知るべきことも、知ってはならないことも、すべてをその穴の開いた脳髄に刻み込め。その上で決断をしろ。本当に自分は生きるに値するのか」
3
今年も最後の月を迎え、初雪が降り始めた頃、自宅に一通の手紙が届いた。今どき、特にこの電脳界は電子メールが一般だ。実体としての手紙が来るとは珍しい。どんなものずきが何の用で私にこの手紙を送ったのか。
「――っ」私は小さく声を上げた。
送り主は殉職したライアンだった。死ぬ前にこの手紙を私に送ったのか。いったい何の為に。
私は急いで自室に入り、コートも脱がず、その封筒を開ける。
『拝啓 ゼクロス・A・コズミック様
これは仕事としてではなく、君個人へ向けたメッセージだと受け止めてくれ。だが、内容はUNCの研究と関わっている。
まず、この手紙を読み終えたら直ちに燃やしてくれ。手紙の存在とその内容は誰にも話すな。だが、もしものことがあればラルクを頼れ。あいつは信用できる俺の親友だ。
だが、万が一情報が漏れることもあるので、伝えたい内容は直接的には伏せておく。私はとんでもないことを知ってしまった。おそらくだが、近いうちに私は研究から離脱し、音信不通になると思う。その際、君は私の家に行って、リビングにある本棚の一番下の列の『不確定性原理 運命の秩序』という本を探してほしい。一八六九ページを開けばわかるだろう。天才肌のゼクロスさんならあとは答えを導き出せると信じている。
私が何を知ったのかは、そのページに書いてある。導き出した答えをもとに辿れば、すべてが分かるはずだ。そのあとは君の自由にしてもいい。
何を言いたいのかわからないと思う。だが、これだけは例え死んでもはっきり言える。
UNCは一日でも早く食い止めろ。遅くとも今年までには根絶しなければ手遅れになる。
敬具 トーマス・T・ライアン』
「……どういうことだ?」
手紙の言う通り、確かに訳が分からなかった。それに、あのお気楽なライアンがとてもこんなことをする人だとは思えなかった。しかし、あのUNCを今年までに、残り二十九日の間に完全に根絶やしにしなければならないことはわかった。
とりあえず、まずはライアンの自宅に行かなければ何も始まらない。
だが、この手紙は自分が生きていると想定した上で書いている。だとすれば、あの死は本当に自殺だったのか? 何にしろ、明日明後日辺りに遺品整理の業者が来るだろう。遺品が回収される前に行動せねば。
〔記録ノート 5〕
十二月二日。
UNCの優性遺伝の通常型は活動が停止に近い状態になっているにもかかわらず、劣性遺伝の特異型は一時期収まったものの、今は活性化が著しい。患者のアイリスはここのところ容体が悪化するばかりであり、私のいない間、レーザン先生が何度か手術していることがあったと聞く。
再生医療とはいえ、まだまだ未完成。彼女の症状に再生がついていっていない。その際、輸血や臓器移植を行うが、中々拒絶反応のない献体を探すのは困難である。
気になっているのは内分泌バランスが異常の割に向上していることだ。破壊しながらも超回復を繰り返している。そのおかげか、あの病弱な身体でも奇跡的に命を繋ぎとめている。否、徐々に体の基盤が発達しているのだ。あの病状では命が幾つあっても足りない。常人ならばすぐに死んでいる。現にアイリスから摘出したバクテリアをいくつかの実験動物に移植すると、奇病を発し、一晩ですべてが死亡した。
そして、治療をしていない失った両手の短期再生。あれは一体どういうことなのか。これも含め、他の医院の特異型患者には見られない現象だ。調べたところ、異常な性癖という共通症状も、アイリス以外で自食症を起こした患者は一人もいなかった。分泌物バランスも、シーソーのように他の患者はどれかが異常に向上し、どれかが同様に低下している。電脳型も関連なし。
アイリスは例外だ。だが、その原因は不明。これもバクテリアの気まぐれなのだろうか。
誰に訊いても、何度調べても不明。こうなれば根本から考え直し、徹底的に調べるしかない。まずはレーザン先生に独自研究の許可をもらおう。
時間はない。アイリスこそが治療の鍵だ。
4
「あなた最近変わったわよね」
いつもの喫茶店。古川さんは執筆中で忙しいと断られたが、偶然喫茶店に寄った茜と付き添いの落合と出会い、同じ席に座ることになった。買い物をしていたらしく、目の前の席にはふたりいる。今日は休日ではないのでそこまで人はいなかった。暖房がいい感じに効いている。
「人が変わったということは自分が変わった、とも言えるが」
「嫌ね、普通にあなたが変わったわよ。ね、香音」
茜は隣に座っている落合に訊くが、「うん、変わったかも」と首を縦に振った。
「……わからんな。そのような自覚はないんだが」
いつものブレンドを味わう。だが、ここのところ味覚が麻痺してきた気がする。好きだった苦味があまり感じない。
「なんていうか、ちょっと角が取れたというか、少し笑顔が増えたっていうか、冷酷なときがなくなったっていうか」
「出鱈目だろう。いい加減なことを言うな」
「うわ、ごめん、やっぱり変わってないかも」
「でもゼクロスさん、アイリスちゃんと話すとき、一番――ひっ」
私は落合を睨みつける。彼女は怯えた声を出し、がたりと椅子が倒れそうなほど後ろに重心をかけたが、そこまで怖かったのか。
すると、茜が「なるほど」と言わんばかりの目でにやりと私を見る。腹立たしい顔だ。
「ははぁ、そーいうことね。うんうん、わかったわよ、あなたの気持ち」
「茜、あのな、話をよく――」
「大丈夫大丈夫、しっかりわかったから。ま、頑張んなさい」
「……」
「あ、あの、ゼクロスさん……ごめんなさい」
落合はしゅんとした表情で謝る。かなり申し訳なさそうだ。
「いいのよ香音、むしろグッジョブ」
それとは相反するような茜の顔。親指を立ててニッと笑う様子はどう見ても大人の女性を目指している顔ではなかった。
私は最近気に入っているブルーマウンテンがブレンドされた珈琲を一口啜る。鼻腔を満たすこの香りは堪らないものだが、ここのところあまり感じられない。その度苛立ちが微かに出てくる。
「ま、過ぎてしまったことはいいよ。落合さん、気にする必要はない。その怯えた顔をやめてくれないかい。怒らないから」
しかし、この子犬のように怯えた表情も中々良いものだと思った。今度誘うかと考えたりする。
「変わった、か……」
言われてみれば変わったかもしれない。だが、彼女らが言うような変化ではない。もっと違う何かが変わった。説明のできないようなものが。
「なんか言った?」
「いや、茜って前より子供っぽくなったなって思っていただけだ」
「このっ、その苦々しい真っ黒なコーヒーに角砂糖たっぷり入れてやろうか!」
「茜ちゃん落ち着いて」
立ち上がった彼女のリアクションに軽く笑った。
心を落ち着かせるはずが、いつからこのようなひと時が楽しいと思えるようになったのか。
私はそんなことを頭に過らせ、少し残った珈琲に一個入れられた角砂糖を混ぜながら飲み干した。
やはり甘ったるいのは苦手だ。
5
私個人のUNC研究の許可を貰い、早速研究を始めようと思い立ってから三日が経つ。
流石にどうかしたのかと思われたのだろう。香霧やフランソアが昼食時、そのことについて話してきた。
「ここんとこどうしたんだよ。急に研究に熱入ったのはいいけど、ただでさえゼクロスは無茶しているから体に響くぞ」
病院の近くの食堂。香霧は蕎麦をすすりながら話す。フランソアはランチセット、私はナポリタンを食べていた。
「ですが、もうそんなこと言っている場合ではありません。無茶しなければアイリスは、いえ、特異型患者が苦しんだままです。それに、今のUNCは大人しいですが、何かの準備をしているかもしれません。いつ致死率の高い病気になったっておかしくないんです」
「それもそうね、いつ何が起きるかわからないし、Cプロジェクトに頼ってちゃダメだしね」
「そういやトーマスさんはそのCプロジェクトに参加していたんだろ? どうなったんだろうな」
「お、みんな仲良くここでご飯か。私も混ぜてくれないかい」
「あ、ジャドソンさん。いいですよ、私の隣空いてますので」
フランソアが左隣の椅子を引く。ジャドソンはそこにゆっくりと座った。
「カツ丼ですか、がっつりいくんですね」
香霧は笑顔でそう言った。「まあ、この歳でもしっかり食わんとな」とジャドソンは笑う。ずっと思っていたが、見た目の割に結構元気に笑う。
「そういやレーザンさんはいないのかい」
「あぁ、ちょっと用事があると……」私は答える。
「そうかぁ、あの人も忙しいなぁ。そういやアイリスちゃん大丈夫かの」
「……? どういうことですか?」
全員が私の言った言葉と同じことを思っただろう。顔を見ればすぐに分かった。
「最近手術の麻酔でよく寝とるだろ。たまたま寄ってみたんだが、寝言が多くてな、なんだか苦しんでいるときもあれば急に安心した時もあったりする」
「精神的にちょっと不安定なのね」
「終いには助けを求めるまでに至るんだが、そのときにゼクロスさん、おまいさんの名前を呼ぶんだよ」
「え」と香霧とフランソアが同時に声を出し、とても驚いた顔で私を見た。
なんだその「こいつが?」とでも言いたそうな顔は。と言いたいところだが、生憎私も同様に驚いている。
「おいおい、そりゃあ相当危ないんじゃねぇの? それって」
「香霧、それ以上はダメよ」
次の言葉を言いかけた香霧をフランソアが静止する。
「大丈夫ですよ、僕のような死神に助けを求める程、今の状態が苦しいのでしょう。だからこそ、はやく研究を進めないといけないんです」
自虐を言うのは慣れているはずだが、何故だか哀しい気持ちになった。周りは黙り込んでしまう。
「あ、でも逆に考えてみたら? それだけ貴方を信頼しているって」
「残念ながらレーザン先生以上に頼っている人はいないですよ」
私はフォークにパスタを絡ませ、口に入れる。
(レーザン先生以外誰にも言ってはならない、か……)
レーザン先生の名で思い出したライアンの遺言書。彼はそれほどまでして私に伝えたかったことは何だろうか。第一に一番付き合いのあるレーザン先生を差し置いて私に伝えるも不思議だ。
だが、指示通りの遺品は既に手にしてある。あとは与えられた問題を解くのみだ。そのあとでレーザン先生に相談してみるとしよう。
6
412号室。ベッドで眠っていたアイリスの寝顔は静かなものだった。
「……今は大丈夫なようだな」
私はパイプ椅子を展開し、傍に座る。大抵の管理は看護士かレーザン先生が担当している。
私と話すときは必ずレーザン先生と他の研究者の誰かの話をする。そして外の話。そのときの彼女の表情は嬉しそうなものだった。
(全く、いつからこんな風に話すようになったのか)
「……ん、んん……」
アイリスは目を覚ます。ゆっくりと瞳を開け、目を擦る。そのぐらいの動作はできるくらい、麻酔濃度はそこまで高くないようだ。私はガスマスクを外す。
「……目覚めはどうだ、具合悪いところはあるかい」
「……っ、ひゃっ!」
飛び起きるように驚いたが、麻酔で起き上がれず、戸惑ってから一秒後、首ごと私から背いた。
「そこまで驚くか」
「だ、だって……いきなりそこにいるから……!」
深くかぶった布団から顔を覘く。
「そうか、これは失礼したね。でも数か月前の反応とは大違いだな。あのときは何だったか……『勝手に入ってくるな死神』だったね」
「ちょ、昔の話でしょそれは!」
「まぁそれは置いといて、具合はどうだ、変なところとか違和感があるところとかあったら言ってくれ」
私はタブレットノートの機能を起動させる。大抵ここに記録して院内データに送信する。だが、ベッド内部に搭載させている機材で患者の状態を具体的に検出してくれるが、念のためにこうやって質問したりしている。
「え、と……頭がぼうっとして、胸が苦しくて、あと心臓がバクバクして……」
前も同じことを言っていたな。実際の症状とは異なるのだが。
「……それは最近起きたことかい」
「う、うん……」
「先に言っておくが、冗談はやめておけ」
「じょ、冗談じゃないよ!」
むきになることでもないだろうと思いながらタブレットに記録していく。
「じゃあ、脈測るから手を出せ」
すると、何故か手を出すことを躊躇い、次第に顔が微かに赤くなる。口を少しだけ尖らせながら、目を逸らしてはぶつぶつと何かを口にする。
「そ、そもそも血圧とかわざわざ人の手で測る必要ないと思うんだけど……」
「念のための確認だ」といい、私は腕を伸ばし、アイリスの手を掴む。アイリスは変な声を出し、引き腰になった。
「……」
急激な血流上昇、血圧上昇、心拍数。そして表情筋の変動。
予想はしていたが、いざそれが事実となると、どう対応すればよいものか。
「……わかった」
私は手を放す。
「わ、わかったって……?」
「なんであれ、生きる目的を見つけたのはいいことだ」
そう告げ、私は椅子から立ち上がった。
「ね、ねぇ!」
「ん、どうした?」
私は踵を返し、振り返る。
「あ、えと……ゆ、雪、ちょっと積もってるね」
何かを言おうとした挙句、思いつかないまま世間話をした。世間話など前までは好まなかったものだったなと片隅で思い返していた。
窓を覗くと、地面にうっすらと白い雪が覆っている。数日前までの景色とは少し違っていた。樹の枝の揺れ具合から風は弱いとわかったが、今朝の強風はなんだったのか。
「そうだな」
「やっぱり雪って冷たいんだろうね」と、しどろもどろで話す。
「そりゃあそうだろう、何年経っても、雪は白いし、もちろん冷たい」
「そうだよね……変わってないよね」
物悲しげな表情。何度か見ているそれはどうも慣れないものがある。
「容態が良くなったら中庭の散歩くらいはできる。だけど、そのときは特別に病院の外に出してやる」
「……っ、本当に!?」
この嬉しそうな笑顔はこころを和ませる。私にとっても嬉しいものだった。
「あぁ、散歩程度にな。それと、この話は内緒だから、レーザン先生や落合さんには話すなよ? 僕と君だけの秘密だから」
人差し指を口に当てる。「うん、わかった」と元気よく返事をした。
「じゃ、今日はちょっと時間がなくてね、もう行くとするよ」
「うん……また明日ね、ゼクロス」
私は微笑み、背を向けた。
『――』
何かの雑音が耳に響く。
その途端、全身に激痛が走る。
「……ぅぐぁっ!」
「――っ、ゼクロス!?」
思わずしゃがみ、膝を突き、口を押える。手が熱い。胃酸を吐いたのか。
「どうしたの、大丈夫!? 今ナースコールするから!」
ナースコールはまずい。止めなければ。
「大丈夫だっ、あ、足が攣っただけだ……!」
咄嗟の嘘をつく。自分でも情けない程の馬鹿馬鹿しい嘘だが、相手が医者でなくて助かった。
「で、でも……」
「すぐ治る……何も問題ない」
まずはこの口元と手にこびりついた黄色と赤色の混ざった粘液を何とかしなければ。
「はは、みっともない姿を見られてしまったね。ちょっと休むとするよ」
小さい声でそう告げた後、私はふらりと立ち上がり、片手でガスマスクを着けて部屋を出る。そのときのアイリスの顔など見る余裕はなかった。
その後の事は頭がぼうっとしていたのでよく覚えていない。脳が溶けたような感覚。血液が沸騰しているかような身の熱さが皮膚感覚を麻痺させる。おかしい。私が感染したのはUNCの特異型だったはずだ。それもアイリスからだ。可能性としては彼女と同じ症状になるはずだろう。
今日の事態を伏せた上でレーザン先生に許可を貰い、自宅に帰った。自室の研究室で調べたところ、優性形質の通常型の特徴である様々な病状は当てはまるものの癌細胞は見当たらず、また他の症状の兆しもなかった。特異型の症状も見当たらない。
新しい症状か。それとも別個体か。
「……」
私は今日あったことを思い返していた。
人の長所であり、欠点でもあるもの。それは慣れることだ。繰り返していくうちに耐性が身につき、適応していく。関われば関わるほど、人が良く見えたりする。またはその逆か。
病原体も同様だ。最初はいがみ合い、だが次第に受け入れられる。ただ、人体に受け入れられないものが多い。共生共存が望ましいが、現実は強制共存という名の寄生へと辿り着く。
薬を飲む。まだ午後の四時だが、今日はもう寝ることにしよう。
7
夜の病院というのは昼とは違う独特の雰囲気がある。暗く、ひっそりとしているのだが、完全に眠っているわけではない。中を歩けば、患者はともかく、人が残っていることに気づくし、窓の明かりだってないわけではない。研究を行う大学であれば尚更だろう。
研究とはそういうものなのだと私は思う。休むことなく進められなければ進歩はない。先に行けないのだ。
やはり昼とは雰囲気が異なり、暗い院内だが、だからといって道順を間違えることはない。何しろ二カ月以上は通っている病院だ。通い慣れている。
いつもの通路を通り、階段を上がる。ほとんどの照明が消えていたが、レーザン先生の部屋からは灯りが漏れていた。
ノックをし、返事が聞こえたのでドアを引く。暖房がきいていて、足を踏みいれた途端、鳥肌が立っていたほど冷えていた身体が温まった。机のパソコンで作業をしていたレーザン先生は銀色のフレームの眼鏡をはずし、私を見た。
「おぉ、ゼクロスさんか。どうしたんだ、こんな遅い時間に」
「遅くにすいません。少し聞きたいことがありまして」
私は応接用のテーブルの上にペーパーバックを置いた。
「なんだそれは」
「遺品整理の業者に許可を得て頂いたものです」
「……トーマスの遺品か」
表情が曇る。そのことは想定内だ。
「すいません、身勝手なことをしてしまいましたが、どうも腑に落ちない部分がありまして」
「それで、その中身は?」
私はペーパーバックから古く分厚い本を出した。タイトルは「不確定性原理 運命の秩序」、そして空の薬瓶をコトリと置く。
「……? なんでそんなものを」
私はその本を机に置き、パラパラとめくりながらレーザン先生に見せる。
「ライアンさんの自宅にある本のほとんどは医学に関することや化学工学、企業関係、そして趣味の熱帯魚やゴルフぐらいのものでした。このような物理、量子力学などのような本はこの一冊しかなかったのです」
これは遺品整理の業者が来る前に予め無断で確認したことだ。その上である違和感に気がついたのだ、とレーザン先生は推定しているだろう。私は敢えてライアンの遺言書のことは伏せておいた。あるのとないのとでは反応が違うからだ。素の反応を私は見てみたかった。
「トーマスは学生のころから物理は好んでなかったんだが、なんでこんなに書き込まれている。それも、別の言語で」
勝手ながらも、他の本も一応読んでは見たが、ここまで書き込まれているのはこの分厚い本以外なかった。厄介なことに、書き込まれている言語は古いもので、私でも読めないものだった。どうしてトーマスがこんな言語を知っているのかが疑問に思うが、問題はそこではなかった。
「このページの空欄部分にだけ数式の問題が書かれていたんですよ」
「数式……?」
文字の混ざった複雑な式。数字と文字が混ざっており、レーザン先生は目を凝らす。
「はい。それをメモして解いてみたんですが」
「解いたのか……流石というか、すごいな」
感心した目で私を見る。もしかして数学はそこまで得意ではないのか。
「答えは結構ややこしい数字になりましたが、文字も消去されて小数点を除けば1657396618。最初は訳が分かりませんでしたが、数式が書いてあるのが1869ページで、そのページ数の傍に『PE』と小さく書いてあったので、おそらくある世界の1869年に提案された周期表(periodic table)のことでしょう。それを踏まえて考えてみれば、ちゃんとした元素記号が出ます。それを並べれば〔Slaydyar〕という文字が出ましたが、これが何の意味なのかがよくわからなくて……」
謎解きにしてはレベルが低いものだと思う。数式がややこしかっただけだった。
レーザン先生の表情が固まったように見えた。知っているのか、それとも本当に訳が分からない文字だったのか。
「……先生?」
「……あぁ、すまん。悪いが私もわからないなー。そもそもこれはなんて読むんだろうな」
レーザン先生は疲れているのか、そう言っては力なく軽く笑った。
「私もそれはわかりませんが、きっとなにかの重要な意味があると思います。私の計算ミスというのも考えられますが」
「あ、もうひとつ」と私は空っぽの薬瓶を手に持つ。
「これはライアンさんの傍にあった、服用されたと思われた錠剤瓶です。確かに体内成分にはこの錠剤の成分が含まれていましたが、その数は少なかったらしくて、仮に全部飲んだとしても致死量には至らなかったんです」
これは独自で調べたものだ。推理好きな私の性が「自殺」では納得がいかなかったのだろう。なんであれ、もう少し調べる必要があると思ったのだ。
「……つまり、トーマスは大量投与で死んだわけではない、ということか?」
「おそらくはそうなります。しかし、明確な証拠は……」
「まぁ、とりあえずわかった。ちょっとそれについての話はまた今度聞く。今は少しばかり手が離せないからな」
「わかりました。お忙しい中ありがとうございます」
「おう、気を付けて帰れよー」
レーザン先生は手を軽く振る。私は「失礼します」と言い、部屋を出た。
「レーザン先生でも知らなかったか……」
運転中、他の自動車と建物と街灯の灯りをもとに辿る。
いや、もしかしたら私の解き方が違っていたのか。だが、何度も確認した。そのことはあまり考え難い。
だが、頼るとしてもレーザン先生以外は禁物。さてどうするか。
「……やむを得ないか」
8
返信は思ったよりも早く来た。
ユーザー名は「ユリアナ」。前に古川さんに教わったメールアドレスを利用し、遠回しだがメールで相談したのだ。亡くなったライアンには悪いことをしたが、私の予想ではライアンは何かを企んではいないだろう。知ってしまった何かを他の誰かに知れ渡ってしまったらまずいということだ。
まずはユリアナに会うことからだ。古川さんがいうには、彼女以上の情報通はいないという。
車で三十分先の小さなバーに向かう。時間帯は深夜二時半。閉店ギリギリだ。
話を聞くには、ユリアナのよく行く店だという。目立たないところにあり、寂れてはいるが、人気が少ない上、そこの酒は口に合うらしい。
カウンターではなく、一番奥の四人席に既に場所を取ってあるという。私はそこへ向かった。
(あの人か……)
少し色落ちしたデニムシャツに七分丈の白いズボンを着、長い茶髪にはウェーブがかかっている。女性の顔や見た目に厳しい友人の古川さんでも気に入っているとは言っていたが、確かにこの整った顔立ちは美人の類に入る。服装としては少しこの場に合わないなと思いながらもつい見入ってしまう。
「初めましてゼクロスさん。あなたのことはよく知ってるよ」
向こうから立ち上がり、声をかけられた。
「ユリアナさん、ですか?」
「あぁ、よろしく」
握手を交わす。小さくすらっとした手だったが、しっかりと握られ、力は強かった。私とユリアナは向かい合わせで席に座る。
「最初に言っておくけど、あまり堅苦しいのは苦手でね、できれば敬語で話すのは遠慮してほしい」
「わかった」とすぐに返事する。
男口調で話す彼女は勇ましくも見え、同時により一層美しくも見えた。テーブルの上には既に空になったグラスが置いてある。何か頼みたいところだったが、閉店三十分前の店で話すということは、話は手短に済ますという意味だろう。それに、ラストオーダーはとうに過ぎている。
「まず一言いわせてくれ。相談に乗ってくれてありがとう」
私は軽く頭を下げる。「はは、いいよ全然」と軽く返した。
「まぁ敏之の友人で、それもあの一時期話題となった選別者であり、あの天才医学者のコズミックさんだ。こんな大物の頼みを断るわけがない」
「大物は言い過ぎだろう。犯罪ギリギリのこと、いや、犯罪的な行為をして奇跡的に罰せられていないだけの金の亡者だよ僕は」
「それは言い過ぎだろう」とユリアナは背に体重をかける。
「まぁ、相談というのは……はは、なんていえばいいんだろうな」
私は少し困った表情で笑う。
「とはいっても、とっくに言葉をまとめているんだろう」
ユリアナは笑みを向け、言葉を返した。
確かにそうなのだが、こう返されると皮肉にも聞こえる。故意で言ったのだろうと思いながら、ライアンの死とメッセージについて簡単に話した。
「なるほどね。でもよかったのか? 他の人に言ってはダメなんじゃないのか?」
「話す相手を間違えなければいいだけのことだ。それにもう既に亡くなっているんだ、遺言を破ったとしてもバレないさ」
「ははは、本当に医者か?」
「ちゃんと医師免許は持ってるよ。死神とは呼ばれているけどね」
「まぁ、話は分かった。その出てきた解答の文字をこの紙に書いてくれるか?」
小さな鞄からメモ帳の紙とペンを取り出し、私の前に差し出す。私は書こうとしたが、「筆記体はやめろよ? 読みづらいから」と口を出された。
「こう書くんだが……ネットワークでさえ、ろくなものが検出されなかった」
ユリアナはその単語をじっと見つめたまま動かなかった。そしてやっと口を開いた。
「[Slaydyar]……それに近い言葉ならひとつ知っているよ」
ひとつ呼吸を置き、ユリアナは口を開いた。
「『シュレイティア』。多分、彼が伝えたかったことはその人物だと思う」
「シュレイティア……? 人の名前なのか」
聞いたことがない名だ。それに、この単語からは随分と離れている気がするが、ヒントとなった不確定性原理や元素周期表と関係があるのか。
「実在するのかすらわからない偉人だ。『神はこの世に存在するのか』と同義と捉えてもいいだろう」
「神と例えられるほどの人物なのか……? 何故そんな架空かもしれない人物のことをライアンは……」
「その偉人の名前が出たということは、大抵は、いや、必ず『シュレイティアの意志』に辿り着く」
「意志だと……?」
それこそ宗教染みている。
「まぁ、『理論』と言ってもいい。残念ながら、その理論及び意志が何なのかは私でもわからない。しかし、それが何かの真実であることに違いはないはずだ」
真剣な表情で互いは話し合う。
真実。確かに周りは偽りだらけだ。だが、その真実を知ったところで何になるのか。生憎私は偽りの学者なので、そこまで真実を追求したいという欲望はない。だが、遺言書の「UNCを止めろ」という言葉がその真実と関係があるのならば、知るべきであろう。
「ギリア・ファインマンという男は知ってるか?」
ユリアナは突然話を切り出した。
「いや、知らない」
「それじゃあ、『赤い蜂』は分かるか? 知っていたとすれば敏之から聞いたぐらいのものだけど」
彼女の言う通り、「赤い蜂」は古川さんから聞いた。ある研究者が品種改良してクスリバチという医療用生物をつくりあげようとしたが、失敗し、挙句の果てに猛毒蜂に襲われ、研究所ごと壊滅した話。蜂すべてを殲滅し、生き残った一人の研究者であり、「赤い蜂」を名乗る男が「ギリア・ファインマン」なのか。
「あぁ、知っている。その男がその『意志』について何かの鍵を握っているのか?」
「ギリアは私の昔の知り合いだ。事件の前、あの研究をしていることを教えてくれたとき、彼の口から『シュレイティアの意志』が出たのを覚えている。赤い蜂を造ろうとしたのは自分の興味だけではなかったそうだ。おそらくその先の何かを求めていたのかもしれない」
「蜂はただの副産物に過ぎなかった、ということか」
私は足を組み直す。気がつけば店内のカウンターに座っていた男女の姿がいなくなっていた。
「かもしれない。彼に会うのが手っ取り早いけど、今のあいつは近づくのに危険が伴う。最悪話が通じるかどうか」
「レッドマーケットの開催する日程と場所は分かるか?」
「……! 本当にいく気か?」
初めて驚いた表情を見せる。だが、それ以外方法がないのはとうにわかっている。
「もしかしたら病を治すことと関係があるかもしれない。それに、『シュレイティアの意志』にも少し興味がある。ファインマンとやらがそれを知っているなら、危険でも会いに行く必要がある。命をかけなければ前に進みようもないしな」
「……わかった。だけど、無茶だけはしてくれるな」
「男は引き際が肝心だ。そのぐらいは心得ている」
「ははは、言うねぇ。じゃ、ちょっと待ってろ」
ユリアナは別のメモ帳を開き、パラパラとめくる。そこに大量の情報が書き込まれているかと思うと、彼女も中々侮れないなと思ったりする。その反面、心の隅で何で生活しているのだろうと考えている自分がいた。
「運がいいなゼクロス。開催日は五日後の午後二時、場所はこの現実再現領域内のチャーロス区域のジェング市街だ」
「チャーロス区域か、結構遠いな。まぁ幻想世界よりはマシか。電子移動を使う必要があるな」
電脳界特有の空間的長距離移動用システム「ロード」は使い方次第で応用できる多様性ある機能であり、これは端末タイプもあれば電車のような輸送または大勢の人を運ぶ時に利用する大型タイプもある。久し振りに利用するので、自分の古いタイプが使えなかったら専用施設を利用するしかないだろう。後で買いに行く手もあるが。
「警察でさえレッドマーケットを見つけるのに困難な理由は、電脳技術によってマーケット全域が別空間として切り離されるからだ。ステルス機能以上に、独立空間として存在するから見つけようにも見つけられない。そもそもあまり知れ渡っていない噂話だからな、確証なしで機関は動かないよ」
コホン、と咳払いをして、次の言葉を強調して話す。
「ただ、一カ所だけ一般でも自由に入れる出入り口があって、そこを見つければ入るだけなんだが、そこを探すのに結構苦労する。けど、私はその場所を毎回把握済みだ」
流石だな、と私は呟いた。「なんてことないさ」といいながら、彼女の表情は少し嬉しそうだった。この人といい、アイリスといい、どうして私の知り合った女性の多くは表情がわかりやすいのか。ただ一人、何を考えているかわからなかった愛人がいたが。
「その地点に行けば普通に着くんだな」
「そうだ。合言葉も、パスポートもいらない。あぁ、何か買うならお金はいるけど」
「こっちは十分に足りている。わざわざ買う必要はない」
「あぁ、そうだったな」
ふふ、とユリアナは笑う。先程から彼女から強い酒の匂いがするが、まさか酔って誤った情報を言っているのではないかと少し疑っている。
「その入り口の場所を教えてくれるか? 正確に」
最後の一言を少し強調した。特に酔った様子もない彼女は丁寧に教えてくれた。
「そうだ、二つほど訊いていいか?」
「ん、なんだ」純情に見える凛とした瞳で私を見つめる。
「なぜギリアという男はレッドマーケットで『赤い蜂』を名乗っている。それと、どうして危険なんだ」
「……」
彼女は少し黙り込んでしまう。閉店まであと僅かとなっていた。
「……わからない。でも、きっとあの事件とシュレイティアの意志をきっかけにしてそこにいると思う」
「……」
「危険対象として扱われる理由は一つしかない。あいつはもう、人間じゃないからだ」
話を終え、今度一緒に飲もうと誘った後、何事もなく私は帰宅する。
明日の準備をしてから、音楽を聴きながら読書をして数十分が経ったときだった。
「――がフぁっ!」
心臓を突き刺されたかのような痛みと共に口から血が溢れる。読んでいた本が真っ赤に染まった。
本を落とし、私は床に倒れる。視界が眩み、手足が痺れはじめる。細胞ひとつひとつが破裂する感覚。内臓が握りつぶされるような痛み。私は溢れてくる血が出ないように口を塞ぎながら洗面所へ駆けようとしたが、足も麻痺し、うまく走れない。壁に倒れこむようにぶつかり、だが思うように膝をつけない。辛うじて震えて立っている姿が目の前の姿見に映っているだろう。
盛大にカーペットに血を吐いた私は目の前の鏡を見る。
「……っ!?」
震えるからだを支え、震える口を動かした。
おまえは誰だ、と。
鏡に映ったのは私ではなかった。黒衣を着た、真皮まで皮膚が爛れ、頭部の大半は血管の絡まった、血の染み込んだ赤い骨と化している。
私は顔に触れる。だが、何も感じない。皮膚感覚が麻痺している。
幻覚。そうだ、これは幻覚だ。
「だが、これがおまえの中身だ」
「!?」
鏡に映った顔の特定できない残酷な姿が口を開けて話し始めた。
「お……おまえは誰なんだ……!」
血の混じった唾を飛ばし、私は叫ぶ。気がどうにかなりそうだ。
「私はおまえだ。だがひとつ訊きたい。お前は誰だ」
「……? 何をわけのわからないことを――」
おまえが私。だが私は誰だ。
「――っ、ぁぁああああああ!」
入ってきている。誰かが私の中を侵蝕している。脳が侵されている。脳髄に蛆が沸いているかのようにむずむずと蠢いている。冷静に保とうとも、脳の思考がそうさせてくれない。
「まだおまえは自分が誰なのかわかっていない。自分自身がなんなのかを、おまえはまだ知らない」
「やめろ! 話しかけるな!」
「もう少しでおまえの変わり果てた姿が現れる。その事象は不可逆だ。逃れられない」
何を言っているのか理解できなかった。私の身に何が起きている。
「ぐ……ぁはぅ……っ! くそ、死神め……!」
「死神はお前だろう。醒めろ人間、おまえが誰なのかを把握し、自覚しろ。この姿はお前が変わろうとしている姿だ」
その赤い骨に肉が絡みついたような姿が私だと?
「どういう……ごほっ」
血と共に小さい肉塊を吐き、視界がぼやけ、前に倒れる。
私の意識はそこで途絶えた。
目を覚ましたらリノバンス中央病院の病室にいた。
傍にはレーザン先生と茜がいた。誰が病院に連絡したのか。
だが、レーザン先生に訊いたところ、驚いたことに私自身だと答えた。確かに意識はなかったはずだが、どういうことだ。
だが、すぐに答えは出た。無意識が主導権を握ったのだろう。実感は無いが、人の九割は無意識が支配している。それを私たちは意識として捉えているだけに過ぎない。私の場合、それが顕著に出た一例だ。
病室の壁を見つめる。アイリスはこういう気持ちで十年も同じ場所にいたのか。
「……」
私と名乗った鏡の前の人間とも形容し難い死神の言葉を思い出そうとする。すると、頭痛が走り、脳内に一つの文章が浮かび上がった。
「……?」
何故かは解らない。だが、間違いなくあの死神が私に送った言葉だということは無意識にも感じられた。
――理解る前に死ぬか、すべてを認識ってから本物の死神と化すか。
そして、数日間の入院の間に世界的朗報が報道された。
Cプロジェクトが取り組んでいた「UNCの予防薬兼治療薬」が完成した。貧富問わず電脳界全域に普及され、世間にそこまで目立つことなくUNCは根絶に近いというニュースが病室の液晶テレビに映っていた。
私は画面を消す。画面に微かに反射している私の顔はまったくの表情を示さなかった。ただ、そこに映るのは死神の姿だけ。